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三波伸介 - Wikipedia

三波伸介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

みなみ しんすけ
三波 伸介
本名 澤登 三郎
(さわと さぶろう)
別名 伸介さん
生年月日 1930年6月28日
没年月日 1982年12月8日(満52歳没)
出生地 日本
東京都文京区
ジャンル コメディアン俳優
活動期間 1940年 - 1982年
配偶者 長男(三波伸一
主な作品
笑点(3代目司会者)
お笑いオンステージ
スターどっきり(秘)報告(初代司会者)
三波伸介の凸凹大学校

三波 伸介(みなみ しんすけ、本名:澤登三郎(さわと さぶろう)、1930年昭和5年)6月28日 - 1982年(昭和57年)12月8日)は、日本コメディアン昭和期を代表するテレビスターのひとり。東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。血液型はB型。長男は喜劇役者の三波伸一

目次

[編集] 来歴・人物

日本大学芸術学部映画学科中退。

1940年、劇団「東童」に加入し芸能活動を開始。戦後、劇団「たんぽぽ」等経て東洋興業系劇場に進出。大阪劇場にて玉川良一東けんじとコント「おとぼけガイズ」を結成。

解散後 1961年伊東四朗(三波が大阪にいた頃、三波伸介という芸名で活躍していた時期があった)、戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成(結成当時は「ぐうたらトリオ」のトリオ名だった)。舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博す。流行語にもなった三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もう」はこの頃生まれた。

1970年に「笑点」の3代目司会者に就任。そのきっかけは、てんぷくトリオとしてゲスト出演した地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々落語に造詣が深かった事もあり、三遊亭圓楽ら並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切った。番組自体の人気を上げたことはもちろん、自身がピン芸人としてブレイクするキッカケとなった。

1973年に戸塚が42歳の若さで死去。残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。

その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。NHKお笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷セザンヌ」と称した。

1982年12月8日、自宅の居間で倒れているのを帰宅した家族らが発見、救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝。享年52。

巨漢だったのは勿論、普段から多い日でも3~5時間しか睡眠を取らず、タバコは一日最低でも3箱を吸い、さらにコーヒーも数杯好んで飲んでいた事が祟って心血管に負担が掛かり、それが命取りになったと考えられる。多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の死だった。突然の死に、相方の伊東は号泣した。

[編集] 出演

[編集] バラエティ番組

[編集] レギュラー

ほか

[編集] 単発

ほか

[編集] 映画

ほか

[編集] コマーシャル

ほか

[編集] エピソード

  • 三波の代表的なギャグ「びっくりしたなぁ、もう」は、幼少期の息子・伸一が言っていた言葉。ある日営業先でマネした際に客にウケ、それから使い始めたという。
  • 三波らが築いた「トリオブーム」を脅かした後輩のコント55号、とりわけ萩本欽一との間には長年不仲が伝えられていた。しかし実際はお互い対抗意識は無く、三波は萩本を可愛い後輩として常に暖かく見守っていたという。三波急逝後の追悼番組として放送された「三波伸介の凸凹大学校」最終回では、萩本欽一が出演し故人を偲ぶコメントを残しており、三波が亡くなる僅か20時間前に収録されたVTRが放映された。
  • 実際に三波がライバル視していたのは渥美清であり、特に敵意をむき出しにしていたと言われる。同じストリップ小屋から軽演劇を経た者同士であり、三波が大阪から戻り再起を期した頃既に渥美はトリオコントから脱皮して一流芸能人の仲間入りをしていた事や、また三波夫人と渥美が旧知の間柄であった事等も一層三波に敵対心を抱かせた一因といわれる。三波が生前「喜劇王」を目指すと公言していたのも、ひとえに渥美を超えたい一心だったものともいえる。
  • 三波が渥美を意識するようになったきっかけは、同じ舞台役者であった奥さんと結婚前、新橋でデートしているところに渥美と遭遇、渥美は三波を無視して奥さんの方と話し込み、去り際に「俺は先に行って待ってるからな、お前はぼちぼち来いよ」とつぶやかれたからであると、息子の三波伸一が証言している。渥美は当時、日劇に呼ばれて一流芸人の仲間入りを果たした時期であり、三波は手に持っていた新聞を地面に叩きつけて悔しがったそうである。三波は息子に藤山寛美と渥美のビデオを見せて、自分とどっちが面白いかを尋ねるなど、終生ライバル視していたが、同時に「男はつらいよ」の映画は全部観ており、驚くほど細かいところまで観察していた。テレビなどでは披露されなかったが、渥美の物真似も上手く、芸人としての力量を認めたからこそのライバル視であった事がうかがわれる。
  • ザ・ドリフターズのリーダー、故・いかりや長介とも親交が深く、兄弟分の間柄であった。
  • コント55号、ドリフターズ、桂三枝横山やすし西川きよしと共に1970年代から1980年代にかけて日本のお笑いを支えたエンターティナーでもあり、多数のアイドル歌手、演歌歌手、俳優、女優らとの共演も多く、これらの芸人に対する信頼も厚かった。
  • 笑点」司会者当時、出演者の桂歌丸と故・三遊亭小圓遊の「大喜利罵倒合戦」が激化した為、2人の「和解式」を提案。後日実際に行われた。
  • 夜のヒットスタジオ」の2代目司会者となった際、当時のスタッフが彼に期待したのはいわゆるコメディリリーフとしての役割であり、当初は司会進行にはあまり関わっていなかったが、朝丘雪路降板後は進行にも本格的に参加する様になった。この番組の相手が当時1、2を競うオシャレなタレントとして知られていた芳村真理であったことに配慮してか、彼は毎週本番の前日に必ず服を数着新調してこの番組に臨むように心がけていたと伝えられている。このエピソードから構成を務めていた塚田茂は「三波さんには三枚目の役割を期待したが、どうしても(緊張していたせいか)二枚目になってしまう」と当時の司会ぶりを回顧している。前任のフリートーク・知的な毒舌を売りとした前田武彦、後任のエンターテイナーぶりを徹底していた井上順の間で彼の司会ぶりは埋没されてしまった感が否めないものの、前任のマエタケが引き起こしてしまった「共産党バンザイ事件」(詳しくは夜のヒットスタジオや前田武彦の項目を参照のこと)によるダメージから比較的早い段階で軌道修正に成功し、井上順司会抜擢以降の番組安定期、長寿番組化への道を歩みだす上で、明瞭かつ豪快なイメージのある三波がこの段階でこの番組の司会に抜擢されたことは番組史全体としては大きな意味があったということもできる。
  • 親分肌な性格で、てんぷくトリオや「笑点」メンバーらを纏める統率力に非常に優れていた。だがその反面、ワンマンで「俺がルールブックだ」的な所があり、その為「笑点」では桂歌丸らと小規模の軋轢があった様である。
  • 飛行機が苦手で、「笑点」の地方収録で飛行機を利用した際に隣に同乗したスタッフの手をずっと握っていた。三波の飛行機嫌いを知らない若い男性スタッフが同乗した時は「飛行機が揺れる度に僕の手を握って離さない。三波さんってホモっ気があるんじゃないんですか」とこぼしたという。
  • 生ものが嫌いで、「笑点」の香川ロケで当地で一番といわれる料亭に招待された際にも、出された白魚や刺身を同行していたマネージャーにどんどん薦めて自分の分まで食べてもらい、場の雰囲気を壊さないよう気を遣っていたという。
  • 亡くなる2ヶ月前にあった名古屋の中日劇場での座長公演の際には朝食は食べず、昼食は味噌煮込みうどん、夕食はホテルで300グラムのビーフステーキという生活を1ヶ月の公演中毎日続けたという。こうした食生活も早逝の一因になったと思われる。ただし、三波のマネージャーは「健康のために嫌いなものを食べるのもひとつの生き方。でも、好きなものを毎日食べてあの世に行くのもひとつの生き方だ」と述べている。
  • 生前から「死んだふり」の悪戯が得意だった三波は、死去した時も例に漏れず、妻によって発見された時には「まぁた、お父さん、もう!」と悪戯だと思われたという。
  • 生前にミニカーライター絵画に造詣を持っており、息子の伸一が運営している「三波伸介記念館」のホームページで形見の所蔵品として公開している。
  • 「2代目 三波伸介」を息子の伸一が継ぐべきと言う声もあるが、現時点では実現がなさそうである。
  • 人気絶頂期の1982年12月に急死した為、翌年の幾つもの正月番組(録画)で「この番組は○月○日に収録したものです」とのテロップが流れた。ただし、日本テレビの「番組対抗かくし芸大会」には笑点チームで参加予定で亡くなる4日前に三波も参加して演目の収録が行われたが、急遽エントリーを取り止めている。

[編集] 文献

[編集] 外部リンク

先代:
前田武彦
笑点司会者
第3代 1970-1982
次代:
三遊亭圓楽
先代:
前田武彦芳村真理
夜のヒットスタジオ司会者
第2代 1974~1976
芳村真理・三波伸介朝丘雪路
→芳村真理・三波伸介
次代:
芳村真理・井上順


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