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大喜利 (笑点) - Wikipedia

大喜利 (笑点)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

笑点 > 大喜利 (笑点)
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笑点の大喜利(しょうてんのおおぎり)では、日本テレビの「笑点」の大喜利コーナーについて記載する。

それ以外については笑点を参照。

目次

[編集] 概説

いわゆる大喜利。通常は後述の演芸コーナーの後に行われるが、時々演芸コーナーでも「アナウンサー大喜利」などと題して行う。その際はレギュラー大喜利のメンバーが、司会や座布団運びを務める場合がほとんどである。

三波伸介時代まではCMが終わって画面が切り替わった時点で、既にメンバー全員が着席していたが、三遊亭圓楽時代以降は笑点のオープニング曲に合わせて、現在は上手から三遊亭小遊三→三遊亭好楽→林家木久扇→春風亭昇太→三遊亭楽太郎→林家たい平→山田隆夫の順に着席し、一旦全員の姿が映された後で、司会者(桂歌丸)が現れ、席に着いた後に扇子を一打ちして、大喜利が始まる。このオープニングに変えたのはプロデューサーの「番組に動きを作りたい」「笑点の象徴として定着しているテーマ曲を何とか使えないか」という意向があったためである。

大喜利開始の際に司会の歌丸は「○○の(な)メンバーのご挨拶からどうぞ」と言い(○○には罵倒ネタが入る)、続いて司会席に近い回答者(現在は小遊三)から順に短めの挨拶(行事の告知が多い)となる。

1年間の締め括りでは3本締めとして、会場のお客さんと共にその年を締めるが、2006年5月14日の放送開始40周年記念特番のエンディングで、この3本締めが急遽行われた。

また毎年11月ごろになると、大喜利終了後に3人の大喜利メンバーが来年のチャリティー付笑点カレンダーの告知をする。(1976年版が最初)

[編集] ルールの起源

大筋は創設者である立川談志が考えた。 アトラクションとしての大喜利は昔からあった。寄席でも存在し、テレビでも行われていた。だめな答えのペナルティとして、(あたかも羽子板遊びのように)「顔に墨を塗る」ということなどが行われていた。

笑点の前身番組『金曜夜席』ではすべての発想をリセットして、どういう構成にするかを一から考え直した。アイデアを出す主力になったのは出演者(大喜利メンバー)自身である。そのうちの誰かが「(江戸時代の)牢名主はどうだ? 昔の監獄では、受刑者にも序列があった。受刑者のうち、畳を積み上げて座っている奴が偉いンだ」と提案した。すかさずそのアイデアが採用となった。ただし、高座では畳は運べないので、畳を座布団に変えた。こうして作られたのが「良い答えには座布団を積み上げ、良くない答えには座布団を減らす」という番組の独自ルールであった。

[編集] ルール

  • 司会者(現在は歌丸)が3問出題し、挙手制で指名された回答者が機知を利かせた答えを返す。まれにだが、歌丸や観客に答え(主に観客でも簡単に解ってしまう答え)を見破られることもある(見破られるのは主に木久扇)。時には機知を利かせた答え(主に、楽太郎による歌丸罵倒ネタ)を返す前に歌丸が「はい、誰かほかに」と言って無視して次の指名された回答者に回答権をまわすこともある(主に「歌丸禿ネタ」、「歌丸死去ネタ」、「やるかジジイネタ」などをメンバーから言おうとする場合)。
  • 良い答えには座布団が与えられ、悪い答えや文句として既存する答え、司会者の気分等によっては剥奪される。歌丸時代からは「歌は禁止してますから」とメンバーが歌を延々と歌ったり(2007年6月17日の放送では挨拶の際に山田は無論、たい平までもが歌を歌ったため、歌丸から「挨拶の際に歌ったら罰金1万円ですから」と言っていたが、本当なのかは不明。2007年11月18日放送分ではたい平が挨拶で秩父音頭を歌ったため、1枚没収された。2008年2月17日放送分では楽太郎が歌を題材にしたテーマに「歌は禁止って言ったじゃない」と反発して一枚没収された)、司会者を無視して延年とネタを披露した場合1枚~2枚没収。さらに度が過ぎると全部没収となる(楽太郎の歌丸罵倒ネタがその例)。落語のネタを用いた場合も2枚程度の没収はある。2問目、3問目において前の問題の形式で回答した場合も没収されることがある(最近では、昇太が、2問目の「ぴかぴかの一年生」の替え歌を使う問題を使って、3問目で、「いらいらの小次郎さん」とやり、没収されている)。剥奪される枚数は司会者の気分等によって変わるが、大抵は1~2枚、多めで3~5枚、最悪の場合は全没収となる。つまり、座布団剥奪は出題した問題内に限らず、歌を歌ったり、余計な口出しや気に入らない挨拶をした場合などでも座布団剥奪の対象になることもある(特に、木久扇・楽太郎)。稀だが、逆に出題した問題以外のときでも非常に良い答えを出した場合、座布団が与えられることもある。
  • 「歌丸禿ネタ」は多くても3枚没収(ただし、例外として小遊三が歌丸禿ネタを言い全部没収で6枚、同じく楽太郎が7枚剥奪されたことがある)だが、昇太・楽太郎らの「歌丸死去ネタ」・「やるかジジイネタ」は全部没収が基本。
  • 司会者以外でも、回答者や座布団運びが座布団を与えたり、没収したりする(山田を罵倒すると、必ずと言っていいほど突き飛ばされて持っていかれる場合が多いが、その後歌丸によって山田が没収した座布団の枚数+1枚の座布団が与えられることがたまにある。そのとき、山田が「えー!?」と驚くこともある。特にたい平)。
  • また答えるのにつまずいたり、答えが面白くなかった場合は、自ら1枚座布団を返上することもある(特に木久扇、昇太)。
  • 10枚獲得すると、座布団運び・裏方から籠に入った紙吹雪による祝福を受けながら「豪華賞品」が贈られる。なお座布団10枚が達成された翌週は、全員座布団1枚からのスタートとなる。数週に1度は、あわや10枚達成かというシーンがしばしばあるが、その時は大抵司会者が剥奪するため、実際は年に1回~2回程度しか起こらない。場合によっては数週でまた次の10枚獲得者が発生する事もあれば、1年間座布団10枚が発生しないこともある(最近では1998年)。 また10枚獲得後に全部取られても(特にネタ賞品の場合)、10枚獲得の記録は賞品の贈与とともに有効である。
  • 前田時代には「大喜利ナンバーワン」と称し、後述の通り前田が中央に座り、赤白二組に分けて前田の左右に座り、座布団5枚を奪い合うルールとなっていた。
  • CSで放送されている笑点Jr.のルールではBS笑点時代から新ルールを作っており、「獲得した座布団の枚数が一番少ない人は次回の大喜利に出演できない」というルールと座布団がない場合、時々「1歩下がって」というルールがある。

[編集] 座布団

現在座布団を作っている会社は荻原舞台美術で、大きさは67cm × 77cmと一番大きい「夫婦判」と呼ばれる規格のものよりさらに横幅が長く取ってある。中綿が通常の座布団の倍近く詰められており、さらに中に小さな座布団を1枚入れているため、重さも1枚4キロある。10枚重なった時でもバランスが保てるといわれている。(「TVおじゃマンボウ」(日本テレビ)でこの座布団を16枚重ねた上にアナウンサーが座っている様子が放送されている)布地にはちりめんが使われており、高級感もある。1枚当たりの製作費は3万円以上する。ちなみに現在、座布団は出演者全員が10枚獲得する事態を考えて60枚用意されている。(以前はそんなに用意されていなかったらしく、1992年5月10日の放送で全員が10枚獲得した際には座布団が足りなくなり、司会の圓楽の座っていた座布団や山田が最初の挨拶のときに座る座布団を急遽メンバーに渡すという珍事があった。)

また、小遊三がすでに10枚獲得していたのに圓楽が気付かずに11枚目の座布団を与えてしまい、最終的に13枚まで増やしたこともある。ちなみにこの時は10枚以上獲得したメンバーが同時に3人出ている。

放送開始時は淡いブルーの座布団を使っていたが1年ほどでピンクに変わり、三波の司会就任後の1972年に現在の紫色に変わっている。

1973年8月の日本テレビ開局20周年記念イベントとして浅草寺で「笑点まつり」を開いた際に、役目を終えた座布団を読経と奉焼で厳かに供養する「座布団供養」が行われたことがある。

[編集] 出題

最初のお題は、多くが最近の話題をネタにしたものが多いが、時々「あったらいやなシリーズ」や「誰だったらどんなシリーズ」が出ることもある(歌丸の司会就任後はあまり出ていない)。ご当地での収録では土地柄にちなんだ問題が用意される。

問題ではたまに「例のもの」として小道具が用いられる。その時は司会者が「山田君、皆さんに例のもの(又はパターン)を配って下さい」と促し、山田が「はい、かしこまりました」と受け答え(楽太郎が司会の時のみ、「あいよ」「おぅ」などと返していた)、山田を含めて3人の座布団配りが「例のもの(パターン)」を回答者に配る。

例のものとして一番多いのは「フリップ」で、折り込み句(ご当地名等を平仮名にし、一文字ずつ文の最初に置いて川柳都々逸調に詠む)シリーズや穴埋め問題などでも登場する。

中には「かつら」(または、王冠帽子着ぐるみの頭の部分等の被り物。場合によっては、わざわざ禿頭のかつらを被ることもある)が出てくることがある。圓楽時代の時は、歌丸がかつら(被り物)を被った姿が必ず映し出されていたが、今は歌丸が司会になったため、問題によって、かつらをかぶらない時もあれば、かぶる時は最後に映る。禿やバーコードの時は楽太郎(ないしは、ブラック団員)が「いらないんじゃない?」・「縦が横になっただけ」・「柳生博みたい」と罵倒して座布団を取られる。その他の定番としてチャイム(デパートなどでの呼び出し)やコップ、帽子、マイク、鍋などがある。

2008年3月9日放送の3問目では、メンバーは付け、歌丸が学生帽を被っており、かつら同様の扱いをされていた(この時は歌丸が小遊三に「山賊みたいだ」と突っ込みを入れ、小遊三を最初に指名する時にも「はい、山賊」と(多分わざと)言い間違えている。なお、このときに昇太が初の座布団10枚達成している)。

時には1問目から3問目まで、その日の問題全てに道具を使った問題が出ることもある。

  • 主な出題例
    • 都々逸
    • 川柳
    • 頭文字シリーズ
    • あったらいやなシリーズ
    • 誰だったらどんなシリーズ
    • 笑点・新漢字の遊び
    • 笑点お笑い窃盗団
    • 笑点3人お詫びシリーズ
    • 笑点○○自慢合戦(相手のメンバーを1人指名する)
    • 笑点運命の旅シリーズ
    • 笑点イエス・ノークイズ(司会者はどんな場合でも「イエス」としか答えない)

なお、1966年5月15日放送の第1回では「この世に女がいなければどうなるか」という問題が出された(後に2001年5月20日放送の35周年記念大喜利でも同じ問題が復刻されている)。

[編集] 大喜利メンバー

スタッフが容易に識別できるよう、大喜利メンバーは衣装の色によりラベリングされている。談志司会の頃から導入されていたが、その当時カラーテレビの普及率が低かったため、冬場の数ヶ月のみの着用だった(司会の談志は赤を着用)。談志降板後は、落語家ではない司会者の前田のみほぼ毎週着用していた。

2006年11月6日放送の「極上の月夜」で林家木久蔵(当時)が語ったところでは、高座着に色をつけたのは、カラー放送が始まった際に映像の調整をするためだったという。そのため各人は深く考えずに適当な色の着物を選んだが、これが番組本編内で定着してしまい現在に至ったのである。

現在、高座着は深緑黄色桃色水色薄紫銀鼠橙色朱色の8種類だが、ここでは歴代のメンバー落語家の配色を一覧にして並べることとした。なお、メンバーにつけているピンマイクのスポンジ部分も高座着と同色にあわせている。

5月から10月までは羽織を着ない。また、例年8月の放送では、1週はメンバー全員同じ柄の浴衣を着用(2006年度は2週)、またもう1週(2005年度、2006年度は2週)は全員が白色の麻の着物で登場する。

[編集] 司会者

(四角は着物の色)

  • 1966年5月15日-1969年11月2日 立川談志
  • 1969年11月9日-1970年12月13日 前田武彦
  • 1970年12月20日-1982年12月26日 □三波伸介(当初はを着ていた。1982年12月8日に急逝したため、1983年の正月特番のみ愛川欽也が臨時に司会を担当。)
  • 1983年1月9日-2006年5月14日 5代目三遊亭圓楽1966年5月15日-1969年3月30日・1970年6月21日-1977年3月27日、いずれも回答者時代)
  • 2006年5月21日- 桂歌丸1966年5月15日-1969年3月30日降板、1969年11月9日復帰-2007年9月2日。2005年11月20日までは回答者、2005年11月27日-2006年5月14日は司会者代理。2006年5月21日放送分から正式に司会者へ。2007年9月9日の第2081回目の放送より、着物が現在の色へ変更。)

[編集] 現在のメンバー

(舞台下手よりの並び順)

[編集] 過去のメンバー

(出演開始順)

[編集] 座布団運び

  • 1966年5月15日-1967年1月22日 三升家勝松(現:4代目桂文字助
  • 1967年1月29日-1969年11月2日 毒蝮三太夫(当初本名である石井伊吉の名で出演、1968年12月15日から毒蝮三太夫に改名)
  • 1969年11月9日-1970年6月14日 三遊亭笑遊 (現:5代目三遊亭圓遊)、三笑亭夢丸
    前田司会時は2チーム制で、笑遊は金馬チーム(他に歌丸、さん吉、小きん)夢丸は歌奴チーム(他に小圓遊、勝二、木久蔵)の担当だった。
    地方収録の際、伊東四朗戸塚睦夫が代役として座布団運びを担当したことがある。
  • 1970年6月21日-1971年7月11日 小野千春(「仮面ライダーV3」ヒロイン役・小野ひずるの姉、故人)、桂米助(ヨネスケ
    米助は補佐役の位置付けであった。
  • 1971年7月18日-1984年9月30日 松崎真(「手を挙げて横断歩道を渡りましょう 松崎真でございます」が〆の決まり文句)
  • 1984年10月7日- 山田隆夫(当初はを着ていた)

[編集] 裏方

若手の落語家が裏方として座布団運びの手伝いをする。なお着物の色は、男性がorで、女性がorである。

現在の裏方

兄弟番組の笑点Jr.では大喜利メンバーとして出演。
  • 桂花丸

過去の裏方

ほか多数 (座布団運びだった勝松・米助なども裏方を担当していた)

[編集] 歴代席順

笑点ではメンバー交代があると大抵席替えが行われるが、メンバー自身の希望等の理由により席替えをする事もある。

最近では、歌丸が回答者から司会者に昇格し、昇太が加入した時の様に、メンバーの入れ替えがあっても席替えが行われずに、前のメンバーが座っていた場所に新メンバーがそのまま入るケースが続いている。(厳密な意味での席替えは、1992年に小遊三と好楽の座る位置が入れ替わったのを最後に行われていない。この時は好楽が師匠圓楽が隣の席で、答えの後の多くに「師匠どうですか?」と尋ねていた為萎縮気味で、1つ置いた席の方が力を発揮出来るのではないかとスタッフが考えたためである。)

因みに歌丸は、回答者時代にしばしば馬鹿(木久蔵→木久扇のキャラクター)と腹黒(楽太郎のキャラクター)の間が嫌で、「よー、席替えようよー」と漏らしていた。結局受け入れて貰えなかったが、2004年3月7日の放送では、2問目の途中で木久蔵と楽太郎が座る位置を交換(しかしすぐ元に戻る)した為、歌丸は「同じじゃねーか」と言っていた。また2007年4月15日の放送で、第3問目の最後に木久蔵と楽太郎が座る位置を交換した。結果昇太に「同じだよー」と言われていた(歌丸曰く、古典落語の「三軒長屋」のオチと同様)。

期間 司会 回答者(左側が下手) 備考
1966年5月15日
1969年3月30日
談志 金遊
  ↓ 
小圓遊
こん平 圓楽 小痴楽
 ↓ 
梅橋
歌丸       放送開始当時の席順。
この間に金遊が小圓遊襲名、小痴楽が梅橋に改名。
1969年4月6日
1969年11月2日
談志 さん吉 栄橋 好生 勝二 かゑる       レギュラーメンバー総入れ替え。
1969年11月9日
1970年6月14日
前田 木久蔵 勝二 小圓遊 歌奴 金馬 歌丸 小きん さん吉 これまでのレギュラーで勝二とさん吉のみが残り、歌丸・小圓遊が復帰、歌奴・金馬・小きん・木久蔵が加入。新司会者・前田の席は左端ではなく、歌奴と金馬の間の中央部分。この間は歌奴・金馬チームによる対抗戦形式であった。
1970年6月21日
1970年12月13日
前田 歌丸 木久蔵 圓窓 圓楽 小きん 小圓遊     歌奴・金馬・勝二・さん吉が卒業。圓楽が弟弟子の圓窓を連れて復帰し、現在のメンバー数が確立。
1970年12月20日
1972年7月23日
三波 歌丸 木久蔵 圓窓 圓楽 小きん 小圓遊     司会が三波に交代。この間に、1970年秋口からカラー高座着を毎週着用となり、そのしばらく後に木久蔵の高座着が赤から黄色に変わる。
1972年7月30日
1977年3月27日
三波 歌丸 木久蔵 圓窓 圓楽 こん平 小圓遊     小きんが卒業し、こん平が復帰。それと同時に三波の高座着が白に変わる。
1977年4月3日
1977年8月21日
三波 歌丸 木久蔵 圓窓 こん平 小圓遊       圓楽が卒業。この間は5人で大喜利を行う。
1977年8月28日
1979年9月2日
三波 歌丸 木久蔵 楽太郎 夢之助 こん平 小圓遊     圓窓が卒業し、夢之助・楽太郎が加入。欠員が無くなる。
1979年9月9日
1980年10月12日
三波 楽太郎 こん平 歌丸 九蔵 木久蔵 小圓遊     夢之助が卒業し、九蔵が加入。
1980年10月19日
10月26日
三波 楽太郎 こん平 歌丸 九蔵 木久蔵       10月5日に小圓遊が死去。この時は小圓遊を追悼する意味で、残りのメンバーで大喜利を行う。(小圓遊の定位置には座布団が置かれていた)
1980年11月2日
1981年12月27日
三波 楽太郎 木久蔵 歌丸 朝次 九蔵 こん平     朝次がピンクの着物で加入。これにより九蔵の高座着はピンクから水色に変更になる。
1982年1月3日
1982年12月26日
三波 九蔵 こん平 歌丸 朝次 楽太郎 木久蔵      メンバーの順番が入れ替わった。
1983年
1月2日
愛川 歌丸 九蔵 楽太郎 木久蔵 朝次 こん平     三波が死去。この日は正月特番であり、前半のドレミファ大喜利をこん平、後半の鶴亀大喜利を愛川が司会を担当。
1983年1月9日
1983年10月9日
圓楽 九蔵
 ↓ 
好楽
こん平 歌丸 朝次 楽太郎 木久蔵     圓楽が司会者として復帰。この間に九蔵が好楽と改名。
1983年10月16日
1985年3月31日
圓楽 楽太郎 木久蔵 小遊三 歌丸 朝次 こん平     好楽が卒業し、小遊三が加入。
1985年4月7日
1985年6月30日
圓楽 小遊三 木久蔵 楽太郎 こん平 朝次 歌丸     歌丸がかつてのライバル小圓遊の位置に移動。
1985年7月7日
1985年12月29日
圓楽 小遊三 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平 朝次
 ↓ 
才賀
    この間に朝次が真打昇進・才賀襲名。
1986年1月5日
1988年3月27日
圓楽 才賀 小遊三 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     才賀が左端に移動。
1988年4月3日
1992年3月29日
圓楽 好楽 小遊三 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     才賀が卒業し、好楽が復帰。
1992年4月5日
2004年9月5日
圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 こん平     小遊三と好楽の座る位置が交替。
2004年9月12日
2004年12月19日
圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎       こん平が病気療養のため一時降板。この間は5人で大喜利を行う。(こん平の定位置には座布団が置かれていた)
2004年12月26日
2005年10月16日
圓楽 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 たい平     こん平の代理として弟子のたい平が加入。
2005年
10月23日
歌丸 小遊三 好楽 木久蔵 楽太郎 たい平       圓楽が脳梗塞のため休演。以後、たい平と山田を除くメンバーが交替で代理司会を行う。
2005年
10月30日
楽太郎 小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 たい平      
2005年
11月6日
小遊三 好楽 木久蔵 歌丸 楽太郎 たい平      
2005年
11月13日
好楽 小遊三 木久蔵 歌丸 楽太郎 たい平      
2005年
11月20日
木久蔵 小遊三 好楽 歌丸 楽太郎 たい平       歌丸、回答者として最後の大喜利。
2005年11月27日
2006年5月7日
歌丸 小遊三 好楽 木久蔵 楽太郎 たい平       この回より、歌丸が司会者代理となる。
2006年
5月14日
圓楽
 ・ 
歌丸
小遊三 好楽 木久蔵 楽太郎 たい平       40周年記念特番。圓楽がこの日限りで番組を勇退、最後の大喜利司会を務める。
2006年5月21日~現在 歌丸 小遊三 好楽 木久蔵
  ↓ 
木久扇
昇太 楽太郎 たい平     歌丸が正式に司会者就任。たい平が正式メンバーとなり、昇太が加入。2007年9月23日木久蔵が実子きくおの真打昇進・2代目木久蔵襲名に伴い、木久扇に改名。その前の2007年9月9日から歌丸の高座着が深緑に変わる。

[編集] チーム対抗戦

新春スペシャルなどの時に3対3の対抗戦形式で大喜利を行う場合、通常とは異なる司会者を真ん中に配置した特殊な席順となることがある。なお裏方も、座布団運びとして参加することがある。なお圓楽、こん平降板後は長らく行われていなかったが、2007年12月30日に年忘れ大喜利として4年ぶりに行われた。歌丸司会として、また、たい平、昇太初参加の回でもあった。なお、この放送では、楽太郎のことを「団長」ではなく「リーダー」と呼び、小遊三を「大月の天野」ないしは「山梨県の端っこの方の天野」と呼んでいた。後の、小遊三・たい平の罵倒合戦の切っ掛けにもなっている。

対抗戦形式の席順の例

期間 大喜利タイトル 司会 回答者 勝ちチーム 負けチーム
1985年12月22日 1000回記念大喜利 圓楽 才賀 楽太郎 こん平 歌丸 木久蔵 小遊三 歌丸チーム こん平チーム
2000年12月24日 年忘れ大喜利大会 圓楽 小遊三 好楽 こん平 歌丸 木久蔵 楽太郎 歌丸チーム こん平チーム
2001年12月23日 年忘れ大喜利大会 圓楽 楽太郎 木久蔵 こん平 歌丸 好楽 小遊三 歌丸チーム こん平チーム
2002年12月29日 年忘れ大喜利大会 圓楽 好楽 木久蔵 こん平 歌丸 楽太郎 小遊三 歌丸チーム こん平チーム
2004年1月4日 不明 圓楽 小遊三 楽太郎 こん平 歌丸 木久蔵 好楽 歌丸チーム こん平チーム
2007年12月30日 年忘れ大喜利大会 歌丸 小遊三 木久扇 好楽 昇太 楽太郎 たい平 おじさんチーム 若手チーム
(ブラック団)

[編集] 歴史

メンバーチェンジについては上記の歴代席順を参照。

  • 1965年 「金曜夜席(笑点の前身)」が放送される。
    • 出演は談志、圓楽、歌丸、小痴楽、柳家きん平、三遊亭円弥(後の三遊亭圓彌)、座布団運びは西〆子。後に円弥が降板し、こん平が加入。
  • 1966年 笑点放送開始(カラー放送)。
    • 直前に自殺したきん平に代わり金遊(後の小圓遊)がレギュラーに。座布団運びは勝松。
  • 1967年 座布団運びが石井に。
  • 1969年 4月、圓楽らレギュラー全員が談志と対立し降板。新メンバーで大喜利を行う。
    • 視聴率が極端に低下したため、11月に司会が前田になり、再びメンバーチェンジを行い、大喜利が八人制となる。座布団運びは笑遊と夢丸。
  • 1970年 6月、メンバーチェンジで大喜利が現在の六人制になり、座布団運びが小野と米助に。秋口から色紋付を毎週着用する様になる。
    • 12月に司会者が三波に。
  • 1971年 座布団運びが松崎に。
  • 1972年 座布団の色がピンク色から現在の紫色になる。
  • 1980年 10月5日に小圓遊が死去。
  • 1982年 12月8日に三波が死去。
  • 1983年 1月2日の正月特番のみ愛川が司会を担当し、翌週1月9日から圓楽が司会として復帰。
  • 1984年 座布団運びが現在の山田に。
  • 1985年 放送回数1000回を突破する。
  • 1996年 4月7日から放送時間が17:30~18:00に短縮。
  • 2006年 1月22日に放送2000回達成したが、圓楽とこん平が療養中のため通常放送。
    • この日で、『笑点』(番組の歴史を写真でたどり、出演者や番組製作に関わった人々のコメントで構成された本)が刊行。番組の直後に宣伝も行われていた。
    • 3月26日に圓楽がオープニングの案内役として復帰するが、大喜利の司会は引続き歌丸が担当。
    • 5月14日の放送開始40周年記念特別番組の放送を最後に圓楽が勇退を表明。翌週から歌丸が正式に第5代目の司会者になる。

[編集] 座布団10枚の豪華賞品

もともと前身番組の「金曜夜席」から座布団10枚の豪華賞品のプレゼントというのは企画されていたが、実際に10枚獲得して賞品を出したのは「笑点」になってからであるという。

最初の10枚達成の賞品は香港に行って餃子が食べられる(放送日不明 1967年)という賞品であり、歌丸と小痴楽が獲得した。当時の番組に香港行きの予算はなかったが、事情を聞いたある船会社から香港までの2名分の船チケットの提供があり、実際に10日間の船旅を楽しんでいる。旅の様子は写真のみで商品を獲得した次の回の大喜利の最初で紹介されている。

だが、番組初期の商品に関するデータはほとんど残っていない(当時は司会者の思いつきで賞品を決め、その場で渡したり、ロケでも上記の例のように写真のみしか残していないため記録が残っていないという)。

以下の内容以前には「石鹸箱ひとつ」「ただ皆で笑うだけ」「先祖を敬う(位牌がプレゼントされた)」「イギリスで本場のダービーが見られる(馬券が買えるわけではなかった)」「富士山頂に自分の像が建てられる」「拍手だけ」「ボーナスがもらえる(棒と茄子)」「アフリカに行って猛獣狩りができる(東京の豊島園にあったアフリカ館に行った)」等があった。

  • 小圓遊が「長良川の鵜飼い」を獲得。(1971年8月1日放送)
  • 小圓遊が「歌手デビュー権」を獲得。レコード「マドモワゼル」を出した。(放送日不明 1972年)
  • 圓楽が胴上げされるが、落とされて足を捻挫した。(放送日不明 1973年)
  • 木久蔵が「花の都の人力車遊び」を獲得。(1973年5月13日放送)
    人力車で東京・銀座の街中を走る木久蔵の様子がニュースや新聞などでも報道されている。
  • 小圓遊が「お伊勢参り」を獲得。(1974年5月19日・26日放送)
  • 小圓遊が「隅田川珍身遊び」を獲得。(1975年5月4日放送)
  • 歌丸が「ギリシャマラソン日記」を獲得。(1975年9月7日・14日放送)
    これは豪華商品史上最も豪華である。松崎と聖火を揚げてアテネ市内を走ったが、使用した聖火はオモチャであり映像もコント仕立てだった。だが、これ以降メンバーたちは何とか座布団10枚を獲得しようと競い合うようになったという。
  • こん平が「美女と遊園地デート」を獲得。(1975年9月14日放送)
    浅草花やしきで幼稚園児の格好をさせられ、師匠三平夫人に振り回されてヘトヘトになる。
  • 木久蔵が「善光寺参り珍道中記」を獲得。(1977年1月23日放送)
  • 司会者の三波が掟破りに「食べ歩きの旅」を強奪するが、歌丸たちの逆襲に遭う。(1977年4月3日放送)
  • 夢之助と楽太郎が「東海道五十三次二人旅」を獲得。東海道中膝栗毛風、弥次喜多コントをさせられた。(1978年3月26日放送)
  • こん平が「落語一席披露権」を獲得。落語「宮戸川」を披露した。(1978年8月13日放送)
  • 夢之助が「湯屋番奮闘記」を獲得。(1978年10月1日放送)
  • 夢之助が「珍佐渡情話」を獲得。こん平がガイド役としてついて来た。(1979年4月22日・29日放送)
  • こん平が「餅つきお大尽」を獲得。楽太郎と九蔵が手水役を務め、こん平が餅をついた。(1979年12月23日放送)
  • 九蔵が「最後の楽園騒動記」を獲得。(1980年6月1日放送)
  • 木久蔵が「徳島・阿波踊り」を獲得。(1980年8月24日放送)
  • こん平が「美女と沖縄バカンス」を獲得。今度はちゃんとしたバカンスを楽しんだ。(1981年4月19日放送)
  • 楽太郎が「上野公園花見の狂宴」を獲得。しかし、場所取り役を推しつけられただけだった。(1982年4月25日放送)
  • 歌丸が「家一軒」を獲得したが、その家とは犬小屋だった。(1983年1月16日放送 圓楽、司会者就任後初の座布団10枚獲得)
  • 歌丸と木久蔵が「皇居一周マラソンに挑戦」を獲得。木久蔵は完走するが、歌丸は担架に乗せられてゴール。(1983年10月23日放送)
  • 歌丸と小遊三が「エアロビクス入門」を獲得。(1986年4月13日放送)
    普段から卓球で体を鍛えている小遊三はフットワークを披露したが、歌丸は早くもヘトヘトになってしまった。
  • 歌丸が「ドッキリ中吊り広告」を獲得(1987年11月22日放送)。都営地下鉄新宿線の車内に、歌丸の中吊り広告が編成中の1両全てに張り出された。
  • こん平が「珍説のさぎ参り」を獲得。(1988年2月21日放送)
  • 才賀が「ゴルフ・イン・ハワイ」を獲得。(1988年3月6日放送 才賀、笑点で最後の座布団10枚獲得)
  • 好楽が「テレホンカード」獲得。(1988年5月22日放送 好楽、復帰後最初の座布団10枚獲得)
  • 木久蔵が「プロ野球入門」を獲得。(1988年9月18日放送)
  • 歌丸が「クィーンエリザベスIIの夕べ」を獲得。
    豪華客船で美女とクルージングだったが、美女の正体は歌丸の恐妻・冨士子夫人だった。(1989年5月21日放送)
  • 木久蔵が「奥の細道を行く」を獲得。だが実際は東京都内の裏路地だった。(1989年11月12日放送)
  • こん平に「黒潮紀行」のセットを獲得。(1990年7月22日放送)
  • 小遊三が「花火指南」を獲得。(1990年11月25日放送)
  • 楽太郎が「カール・ルイスと100M走で対決」を獲得。(1991年6月2日放送)
  • こん平が「徳川家御埋蔵金」を獲得したが、贈られたのは徳川家の雑巾5枚(御埋蔵金)だった。(1991年12月25日放送)。
  • メンバー全員が「岩清水を飲む権」を獲得。(1992年5月10日放送)
    しかし汲んだ岩清水を山田が途中でこぼし、代用として鰯を漬けた水(いわし・水)をメンバーに飲ませた。この事実を知ったメンバーは、これ以降「山田降ろし」ネタを多用するようになった。
  • 小遊三が「つけまつげ」を獲得。(1993年2月28日放送)
  • 好楽が「美女と茶摘」を獲得。小遊三も同行し時代劇コントの脱線もあったが、美女に囲まれながら美味い新茶を摘むことができた。(1993年5月23日放送)
  • 木久蔵が「レイの世界」を体験。(1993年11月14日放送)
    お寺を訪れたが、居たのは怖い和尚だけで、寒空の下、滝に打たれた。その水温は0度(レイ)。番組ブレーンの1人で心霊研究家の新倉イワオが登場し「あなたの知らないレイ度の世界」というコメントを発している。
  • 歌丸が「白樺高原の休日」を獲得。(1994年3月6日放送)
    ワカサギ釣りを満喫した後、歌丸が最も楽しみだった雪見風呂だったが、それはスキー場の真ん中にポツンと立つドラム缶風呂だった。
  • 小遊三が「故郷に錦を飾る」を獲得。(1994年7月10日)
    故郷である山梨県大月市をオープンカーでパレードした。母校からは座布団を贈られた。
  • 楽太郎が「秋の香り満載」を獲得。(1994年10月30日放送)
    秋なので松茸を連想した楽太郎だが、結果は銀杏。これはスタッフが放送前日の明治神宮の銀杏並木で拾い集めてきたもので、笑点での座布団10枚賞品史上、最安価(タダ)。
  • こん平と小遊三が「川中島の決戦」を獲得し対決。(1995年4月16日放送)
    新潟出身のこん平が上杉謙信、山梨出身の小遊三が武田信玄に扮し、座布団10枚の御祝儀をかけて川中島で卓球勝負した。結果は小遊三の勝ちとなったが、こん平の影武者作戦で御祝儀はまんまとこん平のものになってしまった。
  • 木久蔵が「稲刈り奮闘記」を獲得。大苦戦するものの何とか稲刈りをし、収穫した米をおにぎりにした。(1995年10月22日放送)
  • 好楽が「一攫千金を夢見て宝石翡翠取り大作戦」を獲得。(1996年9月15日放送)
    しかしこの時期は翡翠が取れないらしく、結局、圓楽に似た細長い石を持ち帰ることになってしまった。
  • こん平が「長嶋監督におめでとうの座布団を贈る権利」を獲得。(1996年10月13日放送)
  • 楽太郎が「木久蔵に弟子入りできる権利」を獲得。(1997年5月4日放送)
    これは獲得直後、収録会場で実現した。この賞品は木久蔵以外の回答者には非常に不評だったため、“良い答の時は座布団が取られ、悪い答の時に座布団を進呈される”という、普段とは逆の光景が見られた。
  • 木久蔵が「那須トリックアート」を獲得し、木久蔵の絵画が出現。(1997年9月14日放送)
  • 木久蔵が「私が木久蔵です大作戦」を獲得。(1999年1月24日放送)
    圓楽に言われて新幹線に乗ったものの、車窓から見えたのは広大な雪原にポツンと立っている『私が木久蔵です』と書かれた巨大な看板だった。
  • 小遊三が「楽園パラオのバカンス」を獲得。(1999年6月20日・27日放送)
    現地で楽太郎とこん平に本当の目的「パラオに寄席『第2若竹』を作ること」を知らされる。言葉や文化の違いに戸惑ったものの、見事成功し、さらにパラオの人々に落語「桃太郎」 を披露した。
  • 歌丸が「世界の大スターに会える権利」を獲得。しかしその大スターとは山田隆夫で、みかん色の恋を熱唱しながら現れただけだった。(1999年9月5日放送)
  • 木久蔵が「一日幼稚園園長先生」を勤めた(1999年12月12日放送)。元気な園児たちとダンス、お絵描き、お弁当の楽しい時間を過ごし、最後は本業の落語で大爆笑。見事大役を果たす。
  • 歌丸がスーツの他、着物やドレスといった女装姿を含めた写真集を出版する予定だったが、出版してくれる出版社が無かった為、圓楽の自腹で限定10冊を視聴者へプレゼント。(2000年12月3日放送)
  • 木久蔵が「祝・木久蔵ラーメン海外出店」を獲得。番組の特別編として「木久蔵ラーメンinタイ」を放送。(2001年7月8日放送 木久蔵、改名前最後の座布団10枚獲得)
  • 小遊三が「2001年宇宙の旅」を獲得。しかし実際の商品は宇宙旅行ではなく「府中の足袋」(府中市2001円で売っていた足袋)だった。(2001年8月12日放送)
  • 楽太郎が「笑点オリジナルスノーボード」を獲得。(2001年12月16日放送)
    豪快に笑う圓楽のイラストが大きく描かれたスノーボードで、圓楽の弟子である楽太郎は「師匠を足の下に敷くなど滅相もない」という理由で一度も使用していない。
  • こん平が「花見場所取りセット」を獲得。その品々には、圓楽のシール付きオマルまであった。(2002年3月31日放送)
  • 小遊三が「夏草や 兵どもが 夢のあと(松尾芭蕉の句)」を獲得。(2002年8月25日放送)
    くさや(夏、くさや)の本場・新島に行き、くさや作りを体験した。更に魚のくさやを賞味し、最後は色々な魚のくさや干しを食べて、まさにくさや三昧の一日となった。
  • 歌丸が「三顧の礼」を獲得。商品は千円札1枚(3個の0(レイ))。(2003年4月6日放送)
  • こん平が「旅は道連れ世は情け」に引っ掛けて、山田とタヒチ島へ。(2003年8月10日放送)
  • 歌丸が「似たもの夫婦」を獲得したが、商品は煮込みうどん(煮た物フーフー)だった。(2003年12月27日放送)
  • 楽太郎が「古池や 蛙飛び込む 水の音」を獲得し、バリ島へ(こん平と好楽も同行)。(2004年4月18日放送)
  • 歌丸が「濡れ手で粟のひとつかみ」を獲得。(2005年5月8日放送 歌丸、回答者として最後の座布団10枚獲得)
    これはフィリピン紙幣「ペソ」が入っている箱から、現金つかみ取りゲームの要領で1度掴み取る(ひとつかみ)。更にその掴み取ったペソを元手に、「セブ島カジノツアー一攫千金の旅」へ。
    現地で楽太郎を交え、スロットマシンで1000ペソ稼ぎ、ルーレットで一攫千金を狙うが、楽太郎のイメージカラーある『黒』を嫌って赤に賭け続けたが大敗し、成功を予定して組まれた祝賀会の費用を自腹で払う羽目になる。
  • 小遊三が「明日は明日の風が吹く」を獲得(2005年10月16日放送 翌週から圓楽は休演)。
    しかし贈られた商品は、圓楽家の押し入れから出てきたという10年前の扇風機だった。
  • たい平が「少年よ大志を抱け(クラーク博士の名言)」を獲得。(2006年5月7日放送 たい平、初の座布団10枚獲得。歌丸代理司会時代唯一の座布団10枚)
    だがもらったのは、「タイ(の)石を抱け」にちなんだタイの大きな石だった(証拠写真付き)。またこの日は山口県周南市での収録だったため、たい平は重たい石を東京まで持ち帰る羽目になってしまった。なお、たい平の著書によればこの石には大喜利メンバーのサインが入れられ、現在は横浜にぎわい座の演芸資料館に展示されているという。
  • 好楽が「芸は身をたすく」を獲得。(2006年12月24日放送 歌丸正式就任後初の座布団10枚)
    送られたのはレイザーラモンHGの衣装で(ゲイは身をたすける)、上手で着替えて再登場した。
    この回は2006年最後の放送で、歌丸が「10枚獲得者が出なくても1番多い人に賞品を渡す」と明言したが、好楽はしっかり10枚獲得した。
    実はこの直前、昇太が歌丸死去ネタを放ち、爆笑した楽太郎とたい平が自身の座布団を勝手に与え12枚としたが、激怒した歌丸が許すはずもなく全て没収された。これで昇太初の10枚獲得は幻となった。
    このときは通常の紙吹雪ではなく、この日の2問目で「例の物」として出されたクラッカーで祝福を受けていた。
  • 楽太郎が「天災は 忘れたころに やって来る」を獲得。(2007年4月29日放送)
    送られたのは韓国済州島旅行だが、歌丸は「天災が降りかかって二度と日本に戻れないかもしれない」と言っていた。
    木久蔵と好楽も合流し韓国の天才少女ジュニアゴルファーとのゴルフ大会が行われ、結果は楽太郎が惜しくも敗れ、馬乗りの馬になるはめになった。
  • 昇太が「花より団子」を獲得。(2008年3月9日放送 昇太、初の座布団10枚獲得)
    商品として送られたのは、元ボクシングの世界チャンピオンで、現在は団子屋を経営する輪島功一による「花より団子」と書かれた掛け軸だった。
    この間、楽太郎から「座布団10枚の賞金をくすねた」、「何故座布団10枚が出んのだ」などとネタにされ、座布団1枚やることが見られた。

※()内は10枚達成の放送日ではなく、獲得商品の放送日である。ただし、10枚達成直後に贈られたものや、10枚達成のロケーションを行っていないものは、10枚達成をした放送日である。

10枚達成ではないが、1999年12月の最後3回放送分で最も座布団獲得したメンバーにものすごい賞品が送られるというものがあったが、この際は木久蔵がトイレットペーパー1999本を獲得したというものもあった。

現在のキーワードは「耳を澄ませば」である。(2008年3月16日放送分~)

[編集] 出演メンバーのキャラクター

大喜利メンバーは、それぞれのキャラクターを活かして答える。無論、メンバーのキャラクターや罵倒ネタは、全て大喜利の中だけの話である。

[編集] 現在の出演者

[編集] 桂歌丸(司会者)

大喜利メンバー最年長で細身であることから死去ネタが多い。また髪が薄いことからハゲと言われる事がある。
また妻の冨士子を恐妻扱いしたり、落語芸術協会会長の役職から、会長を「怪鳥(怪しい鳥)」と喩えられる。
歌丸のツッコミは鋭く、回答者時代は政治経済社会ネタで毒舌発言も多かった。また自らを東京大学出身であることにするネタもあった(好楽も時々発言したことがある)。
司会者就任後、大喜利の挨拶時は毎週『○○(罵倒ネタ)なメンバーのご挨拶からどうぞ』と発言する。最初に挨拶する小遊三はこれに突っ込みを入れることも多い(主に、禿ネタ・死去ネタなどの歌丸罵倒ネタに使われる言葉が出た場合)。また楽太郎が挨拶で長々と薀蓄を言うとイライラする顔が映ったり、小声で『長げぇなぁ』と言う。
また山田の挨拶では、メンバー紹介で使ったネタと関連したもので『○○な山田君どうぞ』という(時々『○○のご挨拶です』と、一部を省略して発言することもある)。
最近ではメンバーによる独演会などの告知や歌の披露が多いことから、「(大喜利では)歌と告知は禁止」としているが、メンバー(特に好楽、たい平)が守らないと座布団を没収することもある。
お題に対しメンバー(特に昇太)が「笑点を辞める」などと言うと、ほとんどの確率で「どうぞ!」と返す。

[編集] 三遊亭小遊三

犯罪者や窃盗、変態、貧乏(ホームレス)扱いされており、本人自身もネタにしている。また最近は秩父市出身のたい平と挨拶や回答で言い争うこともある。
ホームレスネタでは段ボールの家に住む話が出た。最近ではたい平から「銀杏拾い」というネタが登場した。また窃盗に関するネタを言ったときには、稀に昇太を道連れにして「連れの昇太は捕まった」と言うことがあった。
本人は時折ナルシスト・色男を装っているが、もちろんそうは思われていない。たまにホモと見られる行動に出ることもあり、時にはとんでもない下ネタを言ってメンバーを脱力させたり、座布団を没収されることもある。
また他のメンバーの答えを悪く言うものの、自身も同じような内容の答えを言って歌丸に突っ込まれる。
他のメンバーから本名で呼ばれることが多く、特にブラック団による小遊三罵倒ネタの中でも、小遊三の名前ではなく本名を織り交ぜられることがある。
最近は頭髪が薄くなりかけていることから、「小遊三さんもだいぶ歌丸師匠に近くなってきた」として、「ハゲカケ王子」と呼ばれている(後に歌丸罵倒ネタとしても使われるようになっている)。
2008年に入ると、たい平の出身地(秩父市)や嫁罵倒ネタを増やす傾向にあり、挨拶でも罵倒合戦になることが目立っている。

[編集] 三遊亭好楽

一歩引いて周りを引き立てる存在であったため、長い間自身のキャラクターを強く出してはいなかったが、最近は熟年フリーターや暇人、仕事が無い(おしぼり配りのアルバイト)というキャラクターが付いた(特に小遊三・楽太郎)。時々小遊三に雑用扱いされることもある。また同じ内容の言葉を連発し、座布団を没収されることもある。
持ちネタは今まで通りマイナス思考ネタ・正統派ネタに加えて歌を披露するネタが登場したが、歌詞を知らないと『ラララ~』とごまかして座布団を没収される。ちなみに歌丸からは「歌は禁止!」と言われている。
前名の林家九蔵時代に当時兄弟子であった木久扇に追随した与太郎ネタを多く繰り出していた名残で今でも大ボケのフォローに回ったり、物真似ネタを振ったりと何かと隣に座る木久扇に絡むシーンが目立つ。

[編集] 林家木久扇(以前は林家木久蔵

メンバーから与太郎馬鹿扱いされたり、自身の独演会や一門会、落語会などを批判される。
木久扇を代表するものとして「木久蔵ラーメン」があり、「不味い」などといった散々な罵倒を受けている。また歌丸の司会者就任直後は、後釜として司会を狙っている回答が見られたが、その度に歌丸からは『あんたが司会やったらこの番組めちゃくちゃになっちゃうよ!!』と言われていた。
また他の答えでは単純な駄洒落ばかり言っているため、歌丸や観客に先に答えを言われてしまうことも多い。歌丸が司会に就いてからは、あまりにも駄洒落が多いためお説教を言われてしまうほどである。また持ち歌(いやん、ばか~ん)に持ち込むと山田に突き飛ばされたり(歌丸に突き飛ばされたこともある)、途中で打ち切られることも多い。
時々答えに詰まると「あのね~ぇ」と言ってごまかすが、その際に歌丸は「もう指さない!」や「ちょっと黙っててくれねえか?」といい、木久扇を休ませてしばらく指名しないときがある。
また他のメンバーが答えに詰まり、歌丸が「他に!?」と聞くとすぐに手を上げるので、歌丸はいつも「不安がいっぱい」と言っている。また回答があまりにも馬鹿馬鹿しいものだと、歌丸は「(木久扇を)指した私がバカだった…。」と後悔する仕草を見せる。
さらに新しい漢字を作る問題では、漢字を書かずに絵を描いて答えているため、歌丸に毎週「字を書きなさい!」と言われる。
ただ最近は「いやんばか~ん」の使用頻度や、先に答えを言われる頻度は以前に比べるとかなり少なくなっているが、逆に物真似や駄洒落ネタが増えている。

[編集] 親子ダブル襲名
2007年9月、林家きくおの真打昇進に伴い、初代「林家木久扇」を襲名した。木久扇の芸名は、2007年3月31日まではがき・インターネットで一般公募されていた。
その結果、同年4月28日に芸名が「木久扇(きくおう)」となり、5月6日放送の笑点では、前半の演芸コーナーを使って、芸名を木久扇とした裏話を放送した。これにより、9月23日放送分からは「林家木久扇」として出演している。
なお2007年2月4日の放送では、前半の演芸コーナーを使って「木久蔵の新しい名前の中間発表」として視聴者から応募された名前の一部が紹介され、大喜利メンバーも視聴者から応募された芸名を披露した。
しかし襲名後も冒頭の挨拶で「木久蔵です!」と言ってしまったり、歌丸が「はい、木久蔵さん!」と呼んでも返事をしたりと新しい名前に不慣れだったが、最近は慣れてきたのか、間違いが少なくなっている。ところが最近はこの名前に『飽きた』『毎年改名したい』と言うようになった。

[編集] 春風亭昇太

未だ独身である事や、背が低いことからチビ師匠・子供、さらには芸が伸びないとまで言われた(特に楽太郎)。また昇太自身が独身ネタを言うと、毎回歌丸から『早く嫁貰いなよー』と言われている。最近では小遊三から「窃盗団」、楽太郎から「ブラック団」、山田から「チビッ子団」のメンバーとされているが、いずれも本人は乗り気でない。
加入当初は答えが不発に終わることを揶揄されていたが(特にたい平)、現在は楽太郎と並び、歌丸を罵倒するネタを多用している。また最近は、罵倒するたい平を突き飛ばすことも見られる。
時々、悪い答えのため歌丸の指示で座布団を没収されるときは「持ってかないで~」と言って座布団や山田に必死にしがみつくも、結局は山田に蹴飛ばされて持っていかれる。
挨拶時は、様々な良くない状況を言った後「それじゃダメじゃん!春風亭昇太です」と言う。以前は好楽らが真似しているが、最近は使用する頻度が少なくなっている。
最近は楽太郎又はたい平が歌丸を罵倒したあとに、昇太が歌丸をヨイショするネタを言って座布団をもらう時がある。

[編集] 三遊亭楽太郎

真っ先にイメージとして挙げられるのが腹黒(特に小遊三、昇太、たい平)。他のメンバーに対して最も暴言を吐くのも楽太郎だが、かつては座布団運びの山田までを「一家でタダ食い」と罵倒したため、突き飛ばされた。
また当時メンバーだったこん平の持ちネタである「視聴者参加型挨拶」で行われる「ちゃらーん」を『うるさい!』と言って歌丸と共に耳を塞いだり、挨拶でこん平が「ちゃらーん」を言わないように、また客が一緒になって言わないように牽制していた。
『ここにいらっしゃる知的レベルの高い方々は、まさか客席で『ちゃらーん』などと言うことはないと思いますが』
他のメンバーより時事ネタを多用し、知的な話(政治、経済、社会)を長々と言う持ちネタもある。挨拶でこれをやった場合、次のこん平は必ず『私にはそういう難しいことはよくわかりませんが…』と言っていた。圓楽が司会者だった頃は、長々と喋った末、呆れた圓楽のお開き宣言の後、他のメンバーが挨拶しているにも関わらず、延々と喋り続けたこともある。
他のメンバーが答えに詰まったとき、問題の締めとして最近の社会問題ネタを話し、座布団を貰うことが多い。
歌丸が回答者だった頃から歌丸の罵倒ネタをよく使った。歌丸が司会者になってからはさらにエスカレートし、両隣の昇太・たい平(最近はそれに加えて小遊三が加わることも)を巻き込んで、揃って座布団を没収される事がある(ごく稀にではあるが、歌丸から「取る楽しみが無い」という理由で一枚与えられる事もある)。
2007年に新加入の昇太・たい平と3人で「ブラック団(当初はフレッシュヤングチーム)」を結成したが、2人は乗り気ではない。
さらに挨拶で歌丸を罵倒したとき、『挨拶が気に入らない(=挨拶で歌丸を罵倒)』と、1問目開始前にいきなり座布団を没収されることがある。

[編集] 林家たい平

加入当初は師匠であるこん平にを盛ることで、自らがレギュラーを獲得したというネタをよく使われていた。
持ちネタは外国人パブ(フィリピン)、芸能人(春風亭柳昇滝口順平など)や動物(ニワトリなど)の物真似やバンジージャンプなどのジャスチャーがある。また最近はCDデビューがきっかけで「芝浜ゆらゆら」の歌の披露、自身のDVDや本の宣伝が加わっている。また圓楽が司会だった頃は、圓楽が自分の名前を覚えてくれないことをネタにしていた。ただ最近は、全ての持ちネタが控えめになっている反面、新たに加入した昇太を罵倒して突き飛ばされることがある。
最近で最も山田をいじるのは彼だった(これは師匠こん平から引き継いでいる)。また楽太郎を外国人パブネタで巻き込んだ後、次に指名された楽太郎が、山田に「やれ!」と言ってたい平を突き飛ばさせたこともある。
ちなみに持ちネタである「外国人パブ」は、圓楽がたい平の名前を忘れてしまって「誰だっけ?」と言い、楽太郎に「たい平です」と教えてもらって、再び指名された時に初めて発言した。結果、圓楽は呆れて、たい平の答えを聞かずに『もういいよ』と言っていた(第1971回/2005年6月12日放送)。
最近では挨拶で「(ブラック団)団長から『○○するから××円(大概は3万円)振り込んで』と言われて振り込んだら△△だった。」という、いわゆる振り込め詐欺ネタで挨拶する。
1998年7月に山田が4週間休んだ際、大喜利下克上にてチャンピオンとなり、1週のみ山田の代わりに座布団運びをやったことがある。
2007年下半期の放送以降、小遊三の出身地である大月市罵倒ネタを多用するようになり、「山梨県の東部(頭部)は寂しくなっている」、「バスは1日2本しかない」、「俺らこんな村いやだ(吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」の歌詞より)」、「大月は八甲田より寂しく暗く辛いところ」などとネタにしている。

[編集] 山田隆夫(座布団運び)

座布団運び(稀に答えることも)なので、大喜利の挨拶以外で持ちネタを披露する機会はなく、罵倒ばかり受けている。
主な罵倒内容は歌が下手(声が裏返る)・番組降ろし(クビ・卒業・引退)・子作り・旅番組ネタ(特にたい平、楽太郎)。それに関するネタを言った時、山田が突き飛ばすなどして勝手に持って行くが、歌丸は「(持って行った枚数+1枚)あげなさい」と言うパターンが見られる。
挨拶では必ずと言っていいほど歌を歌うが、時々声が裏返るとメンバーは「下手だな」と言うことがある(特に歌丸、たい平)。現在では、山田は声が裏返る前に歌唱を「あっ!(手拍子は)もういいですよ」といって止めてしまうことが多く、また裏返らずに歌えると『あっ今日も上手く歌えた』と自画自賛する。最近では声が裏返っても無理に自画自賛する。
さらにスキーや海に行ったことを話すときは『○○(場所)でゴザを敷いて子作り』と言ったり、新幹線に乗った時は『いや~最高だったな!僕も(昇太さんも)子供料金で』と言う(地方収録に多い)。
以前では子供キャラがついた昇太と共に「チビッ子団」を結成したがっているが、昇太は乗り気でない。
またメンバーを激しく突き飛ばすこともしばしばある(特にたい平、かつては楽太郎も突き飛ばしたことがある)。
以前この場面は全てカットされており、会場で見ている客だけが知っていたが、1990年代半ばごろから放送でも使われるようになった。稀に飛び蹴りすることもあり、最悪の場合は隣のメンバーも犠牲になってしまうことがある。
またこん平を突き飛ばして座布団を没収しようとした際、避けられて座布団に倒れこみ、1枚も取れなかったことがある。
比較的高齢である木久扇を突き飛ばすこともあり、それが元で行列のできる法律相談所で訴えられたことがある。
ちなみに山田はたい平を突き飛ばした際に小指の靱帯を切ったことがあり、たい平にネタにされたことがある。

[編集] かつての出演者

[編集] 三遊亭圓楽(4代目司会者)

2006年5月14日を最後に笑点から勇退したが、現在でもネタとして取り上げられている。楽太郎が圓楽を罵倒すると、歌丸が「(この事を)後で圓楽さんに電話しておくから」などと付け加える。
大喜利の途中で勝手にお開きをしそうになったことが原因で、笑点の勇退を決断したという。
事の発端は2001年2月11日放送の大喜利にて2問目の終了後、「酒は米の水、水戸様は丸に水、意見する奴は向こう見ず」と言っておひらきを宣言。しかしスタッフの「もう1問あるよ」の声でまだ2問目である事に気づき、「ええ~…と思ったのは早とちりでもう1問あります!」と訂正し、3問目に続けた。
なお、この7年後の2008年2月10日放送分の回で歌丸も同様のこと(楽太郎の腹黒ぶりを延々と述べたあと、そのままお開きにしようとした)をやっており、楽太郎に「あれをね、うちの師匠がやった後ああなったんですよ」といじられている。
他には「顔が大きい、長い」といった顔に関することや競馬場など)、若竹借金、居眠りなどがある。
かつては、圓楽のサイン色紙を鍋敷き代わりに使うというネタを、歌丸と楽太郎が多用していた。
競馬好きの好楽も、「師匠が圓楽ですから、馬の気持ちはよく分かる」とネタにすることがある。

[編集] 林家こん平

本人の故郷である「千谷沢村(チャーザー村)」を肥溜め落っこち・ホラ吹きさせたり、「視聴者参加型挨拶」で行われる「ちゃらーん」を"うるさい"と言われたり、食いしん坊・大食いネタを言われる(特に木久蔵・楽太郎)。
また地方収録では、必ず以下のように挨拶をする。
  • 1週目は『郷土の皆様、お懐かしゅうございます。○○(収録場所)で生まれて新潟で育ったこん平が久方ぶりに帰ってまいりました。』(ちなみに、新潟収録のときは「新潟で生まれ、チャーザー村で育った…」と挨拶していた)
  • 2週目は『ふるさとというのは有難いものでして、先程から友人知人が手に持ちきれないほどのお土産を持って楽屋を訪ねてきてくれております。厚く御礼申し上げます。なお、会場の皆様にお知らせがございます。私の帰りのかばんにはまだ 若干 の余裕がございます!』
また山田いじりが大変多いため、よく突き飛ばされることも有名(弟子のたい平が受け継いでいる)。
2004年に声帯を患い、笑点を降板。弟子のたい平が代わりで出演している。

[編集] 罵倒合戦

一見仲が良さそうに見える笑点メンバーも、大喜利となるとメンバー同士で罵倒ネタ合戦に発展することがよくある。特に歌丸VS楽太郎(ブラック団)、たい平(こん平)VS山田、小遊三VSたい平は、現代のレギュラー同士による罵倒合戦の代表格といっても過言ではない。

大喜利におけるメンバー同士の罵倒合戦の歴史はかなり古く、放送開始の昭和40年代当初は、歌丸VS小圓遊の仁義なき戦いが繰り広げられていた。小圓遊が歌丸を「ハゲてる」と罵倒すると、歌丸が小圓遊を「バケてる(化け物)」と罵り返したりしていたが、やがてお互いの家族親戚をも悪口の対象にするまで発展していった。最初は面白がって見ていた視聴者の中には、大喜利の答えで勝負すべしと言う声もあったくらいであった。1972年8月27日に「和解式」と題して、歌丸と小圓遊のお互いが握手しあう回を放送した事がある。しかし収録後、「バイ菌がうつるといけないから」とそれぞれ別々の手洗い場で石鹸で丹念に手を洗っていたほど、二人のキャラクター作りは徹底していた。その後、大喜利で下火になった罵倒合戦は高座やイベント会場でも続けられ、1980年に小圓遊が死去するまで続いた。

罵倒ネタの中には、罵倒ネタであると同時に本人の持ちネタ(自虐ネタ)であるものも少なくない。また罵倒ネタは本職の落語の高座でも触れられることがある。

但しこれら罵倒ネタは高座上の事であり、プライベートでは関係が悪くない。圓楽/楽太郎師弟と歌丸/楽太郎がその典型であり、あれ程喧嘩をしていた歌丸と小圓遊も、本当は売れない時代に一杯のラーメンやかけそばを分け合って食べたり、空港や列車の中などで談笑するところが目撃されている。(「いつみても波瀾万丈」桂歌丸の回より)。小圓遊の葬儀では、歌丸は友のあまりに早すぎる死に号泣し、初代司会者・立川談志は「キザの小圓遊でやれば良かったのだ」と、死を悔やんでいた。

[編集] 関連項目


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