林家三平
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初代林家 三平(はやしや さんぺい、本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう))、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。社団法人落語協会理事。
東京都台東区根岸出身。旧制明治中学卒業。通称は「根岸」 。出囃子は「祭囃子」。
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[編集] 家族
東宝専属7代目林家正蔵の実子で長男。長女海老名美どり(俳優峰竜太の妻)、次女泰葉(春風亭小朝の元妻)、長男は9代目林家正蔵(前名・林家こぶ平)、次男林家いっ平(2009年春に2代目林家三平を襲名予定)。 妻は海老名香葉子(教育再生会議委員)。義兄は釣竿職人の中根喜三郎(妻・香葉子の兄)、孫は下嶋兄(海老名美どりの息子)。
[編集] 来歴
- 1925年11月30日、7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)(海老名竹三郎)の長男として東京根岸に生まれる。海老名榮三郎(えびな・えいざぶろう)と名づけられる。
- 1943年 明治大学付属明治中学校・高等学校(旧制では中学)を卒業
- 医師になるべく医大進学を目指す
- 1945年3月 陸軍に徴兵される
- 1945年10月 敗戦により除隊
- 1945年 復員後、本名を海老名泰一郎(やすいちろう)に改名。
- 1946年2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。この名を生涯名乗り続けることになる。
- 現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。
- 1946年4月、初高座。
- 1947年 秋、東宝名人会において二つ目に昇進。
- 1949年10月20日 父正蔵死去。芸界の孤児となる。
- 1949年 嘗て父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。二つ目である事実は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。
- 1950年4月22日、5代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。
- 1951年3月、二つ目昇進。(古今東西落語家辞典では、この時圓蔵に入門とあるがそれは誤りと思われる)
- 1952年、香葉子と結婚。仲人は3代目三遊亭金馬(東宝の父正蔵の同僚で、香葉子の育ての親)。
- 1952年、病気で一か月の入院生活
- 1952年、父正蔵から相続した土地を半分手放す。
- 1953年2月14日、第一子・美どり生まれる。
- 1954年、文化放送「浪曲学校」司会。
- 1955年、出口一雄により、KRテレビ『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢される。三平大ブームが巻き起こる。
経済的に苦しい生活からテレビ界の寵児に一夜にして変身。以後、死ぬまで大スターであり続ける。
- 1957年10月中席、上野鈴本演芸場で、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る。
- 1958年10月、真打昇進(初代林家三平として)。口上は大師匠8代目桂文楽が務める。なおこの真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、生涯初代林家三平の名を貫く。
- 1961年1月17日、第二子泰葉生まれる。
- 1962年12月1日、9代目林家正蔵生まれる。
- 1965年、日本テレビ「踊って歌って大合戦」司会。
- 1967年、日本テレビ「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以後1979年まで不定期に出演。
- 1968年 落語協会(6代目三遊亭圓生会長)理事就任。終世、同職に。
- 1967年、家を新築。
- 1970年12月11日、4人兄弟の末っ子林家いっ平生まれる。
- 1978年5月、落語協会分裂騒動。師匠圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。
- 1979年正月、脳溢血で倒れる。一週間の昏睡の後、右半身が麻痺し、言語障害が生じたがリハビリを重ね、10月に奇跡の復帰。
- 1980年9月7日、上野鈴本演芸場が最後の高座になった。
- 1980年9月18日、肝臓癌で入院。
- 1980年 9月20日、逝去、54歳没。法名は、志道院釋誠泰。
同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子5代目月の家圓鏡(現8代目橘家圓蔵)、7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)らがいる。
[編集] 名前
[編集] 海老名榮三郎
海老名榮三郎は本名の初名。長男なのに「榮三郎」と名付けられたのは父正蔵の本名が海老名竹三郎だから。
しかし大人になった時に長男らしい名の泰一郎と改名している。
自らの子供達の名には「泰」の字をつけている。
[編集] 林家甘蔵
多くの資料ではこれを彼の初名としている。父正蔵が「こいつ(三平)は根が甘ちゃんだから甘蔵にするか」としてつけたという。しかし公式プロフィールではこの名を実際に名乗ったという事実はないとされる。
[編集] 林家三平
[編集] 代数
父正蔵は前座時代に「柳家三平」だったことがある。また、春風亭枝女好という落語家も三平を名乗っていた事から、本項の三平は「三平」として3代目という説もある。また上方において、初代露の五郎が前名として「林屋三平」を名乗っていた。
本人は当初名前に重みを持たすために3代目三平として名乗ったという。[1]しかし、公式プロフィールでは、生前から現在まで、本項の「林家三平」を初代といっている。この名を前座名から真打名、大看板にのし上げたからである。また、海老名家先祖代々の墓に自身の銘を刻む際、自身を「初代三平」としている。
[編集] 林家三平を名乗り続けた理由
父正蔵は元々柳派で、前名は7代目柳家小三治であるが、師匠初代柳家三語楼が東京落語協会(現:落語協会)脱退で協会側は「小三治の名を返せ」と迫られ、その間に師匠三語楼の弟弟子柳家小ゑんが8代目小三治襲名した事から、2人小三治が発生してしまい、同協会前会長5代目柳亭左楽の差配で、父正蔵は柳派の傍ら7代目林家正蔵を襲名する事で、騒動を落着させた。
従って、父正蔵は本来は林家ではない。小三治は戦後に落語家を廃業、落語協会事務員に転向した為、4代目柳家小さんの7番弟子小きんが9代目小三治襲名。これが後の5代目柳家小さんである。
三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっており、それの真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要を考えなければならなかった。小さんは、自らの前名で、父正蔵の前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。小三治は柳派の出世名である。これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束したようなものである。
一方、師匠7代目橘家圓蔵もまた、自らの前名「月の家圓鏡」を三平に名乗らせたいという意向を持ち、様々な画策を行った。圓蔵は圓蔵で三平を橘家のホープ、そして自らの後継としたかったのである。
三平は師匠圓蔵案を一貫して拒み続けた。しかも小さん案も受け入れず、結局どの名跡も襲名する事は無く「林家三平」のままで真打となったのである(5代目柳家小さん『咄も剣も自然体』)。そして、三平の名を『永久欠番の芸人』とまで称されるほどの大看板に自ら一代で育て上げる事になる。
結局5代目圓鏡は弟弟子橘家舛蔵が襲名した。三平がテレビで人気を博していた頃、主にラジオのトーク術で人気を博し、三平同様演芸界のスターダムにのし上がってゆく事になる。現在の8代目橘家圓蔵である。
[編集] 未来の林家三平
三平と海老名香葉子の次男林家いっ平は、2009年春に2代目林家三平を襲名予定である。
[編集] 林家正蔵の名跡
父正蔵没後6ヶ月後の1950年4月22日、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。
5代目柳家小さんの名跡をめぐり、兄弟子5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)と弟弟子9代目柳家小三治が争い、馬楽が負けたからである。
小さんの名跡争いで馬楽が負けた原因は、小三治が三平の大師匠で実力者8代目桂文楽の預かり弟子であり強力な後援を受けていた事と、元々馬楽が三遊派から柳派に移籍した「外様」であったことが影響している。
当然、馬楽は不満である。4代目柳家小さんは4代目馬楽襲名後に4代目小さん襲名した経緯から、馬楽を名乗った後は小さんになるのが通例であったが、襲名があっても香盤は変わらないので、馬楽が小さんより格下となる「ねじれ現象」を生じてしまう。これでは差し障りがあった。
小三治には4代目小さん未亡人や文楽が後盾になっており、また折角の好機でもある為馬楽に譲ろうとはせず、寧ろ馬楽に自分より格上(又は同等)の名跡を襲名するように促す。
一方馬楽は空席の名跡を探していた時、怪談噺を得意とする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、急遽「一代限り」の約束で父同様5代目左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、8代目林家正蔵を襲名した。
父正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかった事は、当時の三平の境遇をよく表している。名跡は貸与しただけであり、勿論馬楽が三平の後見となってくれるというような事は一切なかった。一方、8代目正蔵側から見れば、7代目正蔵襲名に至る経緯を知っている為に、この名跡の「貸与」扱いは釈然としなかったらしい(前項「林家三平を名乗り続けた理由」参照)。
なお、三平が正蔵を名乗る事は遂に叶わず、8代目正蔵よりも先に死去してしまう。三平没後、8代目正蔵は自ら「正蔵」の名跡を海老名家に返上し、「彦六」に改名した。
ここまでの経緯は新宿末廣亭元席亭・北村銀太郎の説明によるものであるが、8代目正蔵よりも小さんを可愛がった北村の証言だけに、幾分かは割り引いて聞く必要もあろう。
実際、8代目正蔵は自伝『正蔵一代』で、生前三平に正蔵を返上したところ、三平から「師匠の宜しい(亡くなる)まで(正蔵を)お名乗り下さい」と説得された事を明かしている。また、8代目正蔵は、自らの弟子の真打昇進時には、亭号を「林家」から他のものに変更させ、三平への配慮を見せていた。なお、8代目正蔵の4番弟子初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は、三平に気に入られていた事からその肝入りもあって亭号を変える事は無かった。また、三平生存中に亭号を変更しなかった弟子に3番弟子林家枝二(現:7代目春風亭栄枝)がいる。
[編集] 師匠
[編集] 初めの師匠
初めの師匠は、東宝専属の父正蔵である。
[編集] 父正蔵の死
父正蔵の死後、父正蔵と同じく東宝専属で、東宝名人会のみに出演していた初代柳家権太楼に入門する話が進んでいた。
[編集] 7代目橘家圓蔵に入門した理由
7代目橘家圓蔵は、師匠8代目桂文楽に破門された後、7代目林家正蔵一門に弟子入りし、2年間を過ごし、その後社会の最底辺で職業を転々とする文字通りの「てんてん人生」に甘んじた。圓蔵は、生涯を通じて落語が下手で、後世の評価でも三平の下手を遥かに下回るといわれている。
しかし、三平と母・うたは、丸きり他人の権太楼に入門するよりは、関係が多少でもある圓蔵のところに入門した方が良い扱いを受けるだろうと考えた。
だがその実、圓蔵は師匠正蔵にかなり冷遇された身であった。しかも最後は破門されており、正蔵に対し恨みを強く残していたのである。その為か、東宝名人会における三平の前座経験と二つ目昇進を圓蔵は全く考慮しなかった[2]ので、落語協会で前座をやり直す事になった。
従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として別段悪い道ともいえなかった。一応、公式な出世コースの道となる落語協会の落語家としてデビューできたこと[3]、そして大師匠文楽がTBSの専属であり、文楽に心酔していた出口一雄によってチャンスを与えられ、レギュラー番組を射止めたことで、飛躍するチャンスを得られたとも言える。
加えて、晩年の権太楼は凋落が著しかったので、その弟子になっていたら出世の可能性は相当に狭められていたであろうと考えられている。
[編集] 芸風・エピソード
テレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役かつ中心的存在であり、また「爆笑王」の異名をほしいままにした(今は当然のように在京のテレビ局ではそのように呼ばれているが、存命時はそれほど飛びぬけていたわけではない。当初爆笑王と呼んだことには何らかの意図がうかがわれる。)[4][5]。演芸ファンからは同時期に活躍した長嶋茂雄や石原裕次郎と並び称される事も多く、「永久欠番の芸人」とも言われる。
売れる前は父・正蔵と同じく古典落語を演じていたものの、絶句するわ、登場人物の名を忘れるわで、仲間内から大変下手な奴、鷹が生んだ鳶、などと馬鹿にされていた。だが3代目三遊亭金馬だけはその素質を感じ、「あいつはいつか大化けする」と将来の大成を予言していた。
時事ネタを中心に、「よし子さん」「どうもすいません」「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」などの数々のギャグと仕種で一気にたたみかける爆笑落語で人気を博した。そして、「――このネタのどこが面白いかと言いますと……」と現在でいう「スベリ芸」を先駆けるネタも用いたことでも知られている。因みに「どうもすいません」、額にゲンコツをかざす仕草は、元々は父の7代正蔵が客いじりで使用し、息子たちも時折見せる、海老名家のお家芸とも言える由緒あるポーズである。
持ち時間制限が厳しいテレビでの露出が目立ったという事情もあり、小話を繋いだ漫談風落語が一般の印象に強く、本格的な古典は苦手と受け取られがちである。しかし、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っている噺家であり、弟子入りした長男の泰孝[6]は、古典の稽古をつけてもらった際、噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたという。これを見ていた次男の泰助[7]が、「兄ちゃんはゲンコツばかり受けて、こぶばっかりだね」と言ったため、泰孝は「林家こぶ平」と名付けられてしまう。
なお、このエピソードなどを挙げてこぶ平改め9代目正蔵は、「うちの親父は弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している。実際、種子島出身だから林家種平、北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い。もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しておりインパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった。
この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、しかし、江戸落語の噺家として粋を大変に重んじる人物であった。服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで済ませる様な事はしなかった。洋装でも高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなした。いい加減な服装・普段着での登場を客前やテレビで見せたことはないという、カラーテレビ本格普及以降の芸能界で活躍した芸人としては希有な存在であった。
また、そのネタやトークにおいても、品位に欠ける下ネタに分類されるものが一切無かった事も大きな特徴である。下ネタを「外道の芸」「芸を腐らせる」として徹底的に嫌う芸人としても有名であった。
[編集] 三平一門の結束と矜持
三平一門の結束は固い事で知られる。師匠が死去すると一門が解散するのが通例の落語の世界において、林家こん平を中心人物として、一門は三平の死後も解散していない。落語家以外にも林家ペー・林家パー子や林家ライス・林家カレー子といった漫談家も育てているが、何れも三平門下である事をいまだ大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。
また、三平の「下ネタは芸を腐らせるもの」という考え方は、門下にも伝統として受け継がれている。三平の没後久しい現在でも、三平門下は元より孫弟子に当たる者達まで三平系列に属する芸人の殆どが、『三平一門の不文律』として下ネタを避けている事は芸能界でも有名である。実際、このために9代正蔵(当時こぶ平)はWAHAHA本舗の旗揚げ公演時のメンバーでありながら、早々に脱退する事になった[8]。
テレビの漫談では、ニコリとも笑わないアコーディオン弾きの小倉義雄との対比的なコンビが特に人気を博した。また、弟子の林家ペー・パー子夫妻と共に数々の珍芸を披露。ペーは一時期三平のバックギタリストとして高座を共に務めていた事がある。
[編集] 私生活
売れ始めた当初は、遊びが過ぎて家に殆ど金を入れず、妻香葉子は内職に追われていたという。内職片手に子供に授乳する為、左乳のみが垂れてしまったという逸話もある。
同時期に活躍した石原裕次郎とは親交が大変深く、その付き合いは家族ぐるみのものであった。三平・裕次郎が共に没した後もその親交は続いており、長男こぶ平の9代正蔵襲名披露に際しても、石原軍団による全面的なバックアップが行われ、大変に豪華なものとなった。
1971年、7代目立川談志が参議院選挙に立候補した時の応援演説は、「ご町内の皆様、おはようございます。林家三平がご挨拶にあがりました。奥さんどうもすいません、三平です。こうやったら笑って下さい(と、額にゲンコツをかざす)。皆さん、ここにいる圓歌さんは、十年に一人出るか出ないかという芸人です。この談志さんは五十年に一人。この私、三平は百年に一人の芸人と、文化放送の大友プロデューサーが言ってくれました。そして、こちらの円鏡さんは一年に一人という……」という、誰が立候補したのかわからないような無茶苦茶なものだったという。
かような応援演説のせいで勘違いした者がおり、この選挙で「林家三平」と書かれた無効票が、圓歌によれば24票入っていたという(5代目鈴々舎馬風は28票という数字を挙げている)。いずれにしても選挙で無効票の個別内容とその票数までもが詳細に公開されることはあり得ないので、これらは噺家たちによるネタと見るべきものである。とはいえ、三平の応援演説が原因で、実際にこのような「事故」が多少なりとも発生したであろうことは想像に難くない。
[編集] 晩年
1978年、6代目三遊亭圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動の際には、師匠圓蔵は三平も含む一門ごと新団体に参加する予定で、新団体旗揚げの場には圓蔵が三平を連れて来る手筈であったと言われている。当代1番人気の噺家であり落語界きってのテレビスターでもある三平が新団体に参加すれば、彼こそが新団体にとって最大の切り札となるはずであった。
だが、赤坂プリンスホテルで行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを扱下ろしていた実態[9]を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところでロクな事にはならないと[10]、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは揺らぐ事は無かった。
なお、三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所なら何処までもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったと専らの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードである。
また、興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとって、三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させた事は相当の痛手になったと言われている。
落語の世界では芸がこれから円熟すると言われる五十代半ばで肝臓癌によって早世し、惜しまれた三平ではあるが、周囲の証言によればその最期もネタできっちり締めたという。
三平は垂死の床にあって意識が混濁していた。そこに、医師が呼び掛けた。
医師「しっかりして下さい。あなたのお名前は?」
三平「加山雄三です」
[編集] ネタ
寄席での演目名は必ず『××月の唄』となっていた。××月のところには上演の月が入る。そして、何月だろうが関係なく、何時も同じく、小噺を羅列するだけで終わってしまうのだった。
落語は物語(ストーリー)から成り立つ、という固定観念を持つ者には、理解できないどころか耐えられないのが三平落語で、ストーリーもシチュエーションもない。三平落語ははなから物語を捨てている。
落語家は高座で「つかみ込み」をやるのは絶対的禁忌とされている。三平は他のジャンル(歌謡界(西城秀樹……)などから「つかみ込む」ことはあっても他の落語家のギャグをパクることはなかった。つかみ込みを禁ずる理由は同業者からの剽窃を防止することにあるので、三平は最低限のルールを守っていたのである。
多くの小噺・ギャグは、実は自作ではなく、以下の人たちをライターとして起用し作成したとされている。
- 三笑亭笑三(ほぼ同期の落語家、存命)
- はかま満緒(脱線問答)
- 小島貞二(『定本・艶笑落語』編纂者)
- 能見正比古(血液型占い創始者。『定本・艶笑落語』編纂者)
- 神津友好(『笑伝 林家三平』作者)
- 相良順
- 柊達雄
他にも存在する可能性があるが、これらのギャグは三平のために新たに書かれたもので、その意味ではオリジナルであるといってよい。
持ちネタは『有楽町で会いましょう』『源平盛衰記』『源氏物語』などであるとされるが、『有楽町~』はともかく、『源氏物語』もひどい(三平らしい)もので、話を全く進ませようとせず、いつものたわいのない小噺で時間を埋め尽くすのであった。よく演じた古典ネタは「湯屋番」「たらちね」のほか「浮世床」などで、ところどころに彼独自のカラーが見られるが、全編を通してきっちりと演じていた。
三平は全盛時代から「歌謡曲やコントばっかりやってないで、古典落語をやったらどう?」とからかわれるのが常であったが、死ぬまで堂々と三平流を押し通した。
[編集] 『源平盛衰記』
『源平盛衰記』は講談で知られた軍記で、父正蔵が落語に取り入れた。取り入れた、とはいえ大胆な改作で、何しろ常盤御前がカフェー(現在のカフェとは意味が異なる)の女給として接待をするというもの。時代を現代(といっても昭和初期)に合わせ、昭和初期の風俗(円タク、コーヒー、カツレツなど洋食)を描き切るというものだった。これら流行の最先端にいた人は軍記とのギャップが可笑しさとなり、和服で昔ながらの生活をしていた人(当時そういう人はかなりいた)には(その人にとって)未知の未来構図を垣間見ることが出来るという、かなり秀逸なものだった。
なお義経のひよどり越えを「日傭取り越え」(費用取り越えではない)のギャグは父正蔵が始めたもの。また、後年の三平のアコーディオン落語と同じく、父正蔵も洋楽バンドによるバックミュージックをつけていた。もっともこれを最初にやったのは、父正蔵の弟弟子柳家金語楼の「ジャズ落語」である。
三平以外に源平盛衰記を演じたのは7代目立川談志で、こちらは、ストーリーを全く進めずに、全編を当時(昭和40年代)の社会風刺として演ずる。これはこれで一つのスタイルである。
一方、三平は、父のギャグを部分的に取り入れるも、出てきた内容はいつもと同じで小話の羅列である。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」から話が展開しない。それでも観客は爆笑していた。
[編集] CM
[編集] 一門弟子
※弟子の多くは三平死後、林家こん平門下に移籍。
- 林家珍平
- 林家こん平
- 林家大平
- 林家ぎん平
- 林家源平
- 林家種平
- 林家かん平
- 9代目林家正蔵
- 林家鉄平
- 林家しん平
- 林家錦平
- 林家のん平
- 林家とんでん平
- 8代目三升家小勝(元は6代目三升家小勝の弟子だが師匠小勝死去に伴い、三平一門に移籍した)
[編集] 戦争
本人は戦時中には陸軍に徴兵されている。この軍隊経験については本人は黙して語らなかったが、相当いじめられたようである。
この史実を後年の高座で取り上げた落語家曰く、
また、夢だった医大への進学も敗戦を機にあきらめざるを得なかった。
妻・香葉子は、著書・講演等で再三強調されるように、1945年の東京大空襲で一家のほぼ全員を失っている。以降は金馬によって育てられた。戦争が無ければ三平との出会いもない。
[編集] 林家三平を描いたドラマ・舞台等
- スネークマンショー(TBSラジオ) のちにレコード(CD)化 イエローマジックオーケストラ『増殖』に収録 [1]
- 金曜劇場「ことしの牡丹はよいぼたん」(フジテレビ、1983年) 三平役:穂積隆信
- FMシアター「さよなら林家三平」(ラジオドラマ、NHK-FM・1985年) 尾藤イサオ(声)
- 花王ファミリースペシャル「林家三平夫人物語 どうもすいません!」(関西テレビ・1993年) 三平役:渡辺徹
- コロッケ芸能生活25周年記念公演「笑われたかった男」(舞台・新宿コマ劇場 2005年10月公演) 三平役:コロッケ [2]
- 昭和の爆笑王ドラマスペシャル「林家三平ものがたり おかしな夫婦でどうもすいませーん!」(テレビ東京・国際放映、2006年8月20日) 三平役:山口達也(TOKIO)[3]
- DVDはタキコーポレーションから発売
[編集] 三平ストア
かつて新宿駅中央口前にあった大食堂「三平食堂」、浅草や新宿スタジオアルタ裏などに店舗がある三平ストアは、レストラン「はやしや」も経営しているなどしているが、林家三平ともその親族とも無関係である。「三平」は、初代経営者の名前「平三」を逆にした物という。
[編集] 公式資料館「ねぎし三平堂」
根岸にある実家の一部が、現在遺品などを展示する「ねぎし三平堂」という資料館となっている。テレビなどで活躍し、昭和の爆笑王とまで言われた故人のゆかりの品々は、戦後日本の演芸史の一部と言えるかもしれない。また、資料館内には高座もあり、定期的に落語会も開かれている。色々ユニークな部分もあり、三平ファンならずとも楽しめる作りとなっている。
- 開堂日(開館日)水・土・日の各曜日のみ(ドー(土)もスイ(水)ませんというシャレから来ている)
- 時間:午前11時から午後5時
- 入堂料(入場料)600円
- 堂長(館長):林家いっ平
- アクセスなど:山手線鶯谷駅より徒歩5分
- 普段は、林家三平の家族らが住んでいる所でもある。
(2005年12月現在)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 出典・脚注
- ^ ZAKZAK『いっ平「二代目」はウソ? 三平襲名で暗躍するアノ人』2007年11月11日
- ^ 圓蔵はこの時の三平を前座見習にもなっていない男と認識していた。
- ^ 東宝は既存の落語家を出演させる場であり、前座をどれだけ長く続けようとも舞台に上がれないシステムとなっていた
- ^ 昭和の爆笑王と専ら呼ばれる様になったのは、没後しばらく経ってからからの事である。
- ^ 戦後に「爆笑王」と呼ばれた存在として三平に先立つ者には3代目三遊亭歌笑がいるが、この歌笑はテレビ時代の到来を前に交通事故で夭逝している。
- ^ 後の9代目林家正蔵
- ^ 当時はまだ小学生で噺家になっていなかったが、後にこん平門下となり林家いっ平となる
- ^ 希有な例外として、こん平が笑点の大喜利で時折出していた「肥溜めにおちた」などの肥溜めネタがある。だが、これについては「こん平=田舎者」という大喜利でのキャラクター要素の一つの象徴としての田舎者ネタとしての意味合いが強く、下ネタとは方向性や意図が大きく異なるものといえる
- ^ 自他共に認める正統派古典落語家権威主義者の圓生と、爆笑型テレビスターの三平は、最初の落語観からして全く異なる完全な対極的存在であり、特に圓生は三平とその一門を日頃から嫌悪・誹謗する発言をしていた。
- ^ 落語協会会長時代の圓生は、真打昇進の基準として自身の古典絶対主義の落語観を強力に用いた為、新作落語や爆笑落語を専門分野とする若手の真打昇進をほとんど認めなかった。この実例を鑑みれば、圓生が健在である限り、新団体では三平の弟子たちが昇進すらままならなくなる事は、火を見るより明らかであった。