橘家圓蔵 (7代目)
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7代目橘家圓蔵(7だいめ たちばなや えんぞう、1902年3月23日 - 1980年5月11日)は、落語家。生前は落語協会所属。本名・市川虎之助。
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[編集] 人物像
横浜市生まれ。4歳で父が亡くなりはその後はあちこちを転々とした。1912年に奉公してからも職を次々と変えた。
1923年7月に8代目桂文楽に入門し桂文雀を名乗るが、師匠文楽の金を日常的に盗んでいた事と、落語家達の間で広まっていた師匠文楽の妻の悪い噂を師匠文楽に伝えた事から破門され、1924年、5年頃に4代目鈴々舎馬風の紹介で7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)一門に移籍し柳家治助を名乗るが、師匠小三治に冷遇され、2年後に破門され、一時噺家を辞め、寄席で奇術の手伝いや吉原、名古屋、大阪で幇間など様々な職に就いた。1930年頃に再び噺家に戻り、文楽一門に復帰した。再び名古屋で桜川三平の名で幇間したが戦争で幇間が出来なくなり1941年に二つ目で再度文楽一門で出直した。
1946年3月に4代目月の家圓鏡襲名し、真打昇進。1953年3月に7代目橘家圓蔵襲名。1978年5月、6代目三遊亭圓生が引き起こした落語協会分裂騒動で圓生一門、3代目古今亭志ん朝一門と圓蔵一門と弟子の5代目月の家圓鏡(現8代目橘家圓蔵)一門と共に落語協会を脱退するが、後に圓生一門を除いて落語協会に復帰した。
7代目林家正蔵に冷遇されていた事を強く恨んでいた為、正蔵没後に圓蔵一門に移籍してきた正蔵の実子林家三平が、東宝名人会で二つ目昇進していたにも関わらず、圓蔵は三平を落語協会の前座から再度やり直しさせるなど、三平はかなり冷遇される事になった。だが、文楽の縁から三平がテレビに出演する機会を得てたちまち大スターになると、今度は三平を橘家のホープ扱いして、真打昇進に際して自らの前名である「月の家圓鏡」を名乗らせようと画策するなど、節操の無い所を見せて失笑を買ったという。
圓蔵襲名は、圓生が5代目古今亭志ん生と共に満州巡業中に留守中であった圓生の家族の世話を焼いた事から、圓生の肝入りで決まったものである。その為、圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動における落語協会脱退は圓生への義理立てもあったが、落語三遊協会設立記者会見では副会長職が与えられた事もあって有頂天となって喜色満面であった。だが、立ち上げた新団体の所属では高座に上がれぬ事が明らかになるなど形勢不利となるや否や、当初から協会残留の方針を貫いていた弟子三平の説得を受ける形で降参、復帰後は落語協会関係者に土下座して謝罪するなど、やはりその無節操降りは相変わらずで、憫笑を受ける羽目になった。
噺家としては名人の名をほしいままにした師匠文楽や先代圓蔵である圓生と比べれば遠く及ばず、歴代圓蔵を見ても下の方、かろうじて圓蔵の名を守り通したとすら言われる程の評価で、三平や8代目圓蔵などの弟子の落語の評価にも及ばないとされる。また昭和後期の演芸史を語る際に避けては通れないテレビの爆笑王三平とラジオの爆笑王圓鏡(8代目圓蔵)の師匠であるが、上述した通り、三平にしても出世の糸口は圓蔵ではなく大師匠の文楽の縁から掴み、圓鏡にしても落語一本ではなくラジオスターとしてスターダムにのし上がるなど、弟子運にも恵まれている感がある。
さらに、最晩年の落語協会分裂騒動のドタバタの中で見せた醜態などの印象は根強く、またそれで低下したタレントとしてのイメージを立て直しきれない内に没しており、さらには、林家三平が死後『昭和の爆笑王』として各種マスコミに伝説的な存在に祀り挙げられるに及んで、「三平を冷遇した鬼師匠」というイメージばかりが付いて回る様になった結果、20世紀後半という比較的近い時代に活動した落語家ながらも、現在では語られる事も少なくなっている。
[編集] 演目
得意演目は圓鏡時代は新作落語主体で、『女中志願』『国訛り』など。
[編集] 一門弟子
- 初代林家三平(元は実父7代目林家正蔵の弟子だが、実父正蔵死去に伴い、圓蔵一門に移籍)
- 8代目橘家圓蔵(存命当時は5代目月の家圓鏡)
- 9代目桂文楽(元は師匠文楽の弟子だが、師匠文楽死去に伴い、圓蔵一門に移籍)
- 橘家圓平
- 6代目柳亭左楽(元は師匠文楽の弟子だが、師匠文楽死去に伴い、圓蔵一門に移籍し、圓蔵没後は8代目圓蔵一門に移籍)
- 橘家三蔵
- 橘家二三蔵(元は師匠文楽の弟子だが、師匠文楽死去に伴い、圓蔵一門に移籍)
- 橘家竹蔵(圓蔵死去後は8代目圓蔵一門に移籍)
- 林家かん平(死後三平一門から、林家こん平一門に移籍)
- 橘家米蔵(内輪で一門に入る)
[編集] 演じた俳優
[編集] 参考文献
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X