柳家小三治
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柳家 小三治(やなぎや こさんじ)は、落語家の名跡。当代は10代目。
小三治の名跡は、廃業した者もいれば柳派の総帥になった者もいるため、「五厘(寄席の事務員)にも小さんにもなれる名跡」と言われる。名跡のランクは長らく中堅であったが、当代の活動が評価され、上昇傾向にある。
- 初代柳家小三治 - 後の3代目柳家小さん。本名、豊嶋銀之助。
- 2代目柳家小三治 - 後の2代目談洲楼燕枝。本名、町田銀次郎。
- 3代目柳家小三治 - 後の3代目古今亭今輔。本名、村田政次郎。
- 4代目柳家小三治 - 後の2代目柳家つばめ。本名、浦出祭次郎。
- 5代目柳家小三治 - 後の4代目柳家小さん。本名、平山菊松。
- 6代目柳家小三治 - (1896年8月19日 - 大正半ば頃)本名、内田留次郎。1914年、5年3代目柳家小さん門下で柳家小志んを名乗り、1917年2月に柳家小きんを経て、翌年3月に小三治となった。将来の名人の期待もされたが酒に溺れて早死した。俗に「留っ子」や「坊やの小三治」と言われた。
- 7代目柳家小三治 - 後の7代目林家正蔵。本名、海老名竹三郎。
- 8代目柳家小三治 - (1902年6月30日 - 1977年11月27日)本名、高橋栄次郎。自宅の近所に4代目橘家圓喬が住んでいたのでよく子供の頃から可愛がられたという。最初3代目柳家小さんの門で柳家小ゑん、7代目小三治がいたにもかかわらず1929年3月に真打昇進で小三治襲名、2人小三治状態になる。(7代目小三治が師匠初代柳家三語楼と共に東京落語協会を脱会したのに対し、4代目小さん一門が小三治側に名跡を返せと迫ったが、これに応じなかった為、4代目小さん一門側は新たな小三治を誕生させた)これは7代目小三治が7代目林家正蔵襲名で解消した。出世も期待されたが折しも戦争が激化、終戦の混乱と持病の蓄膿症などもあり4代目小さんの勧めで落語協会事務員となる。1977年5月落語界から完全引退した。
- 9代目柳家小三治 - 後の5代目柳家小さん。本名、小林盛夫。
- 10代目柳家小三治 - 本項にて詳述。
10代目 柳家 小三治(やなぎや こさんじ、本名:郡山 剛蔵(こおりやま たけぞう)、1939年12月17日 - )は、東京都新宿区出身の落語家。落語協会所属の同協会理事。出囃子は『二上りかっこ』。
40代まではバイクを趣味にしていたが、腱鞘炎を起こし乗らなくなった。古典落語のほか、「玉子かけ御飯」や「ニューヨーク一人旅」などのエッセイ風の落語(随談)もこなす。
1979年より、『象印クイズ ヒントでピント』に出演、翌1980年秋まで男性軍レギュラーを務めた。その後1994年番組700回記念大会にもOBチームメンバーとして佐藤陽子とペアで出演した。
師匠小さん没後、6代目柳家小さん襲名の最有力であったが、小三治は小さんを継がないとした為、6代目柳家小さんは師匠小さんの長男3代目柳家三語楼が襲名した。
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[編集] 略歴
- 1958年 - 東京都立青山高等学校卒業。
- 1959年3月 - 5代目柳家小さんに入門。前座名は小たけ。
- 1963年4月 - 二つ目昇進し、さん治に改名。
- 1969年9月 - 17人抜きの抜擢で真打昇進 10代目柳家小三治襲名。
- 1976年 - 放送演芸大賞受賞。
- 1981年 - 芸術選奨文部大臣新人賞受賞。
- 2004年 - 芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
- 2005年 - 紫綬褒章受章。
[編集] 著書
- 『噺家カミサン繁盛記』(講談社)※執筆は和世夫人。
[編集] 弟子
[編集] 参考文献
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X
[編集] 外部リンク
- 落語協会によるプロフィール[[Category:落語の名跡]