日本の電気式気動車
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電気式気動車(でんきしききどうしゃ)は、自車に搭載したディーゼルエンジン等の内燃機関で発電機を駆動し、その発生電力で台車の電動機を駆動して走行する気動車である。「ガス・エレクトリッック」、あるいは、「ディーゼル・エレクトリック方式」とも呼ばれる。
日本の鉄道は狭軌が主体で、線路や路盤も脆弱であったことから、重量が大きくなりがちな電気式気動車の導入には不利で、その類例はきわめて少なく、1950年代までで廃れていた。しかし、近年の技術開発によりハイブリッド型気動車という新しい形態で復活し、再認識されるようになっている。
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[編集] 機械式気動車の問題
日本の気動車は、1920年代に登場して以来、あくまでローカル線の小規模輸送に限定されるかたちで使用されてきた。
これは、動力伝達の手段が総括制御(リモートコントロール)の不能な「機械式」に限られ、2両以上の気動車を先頭車の運転士一人で制御できなかったことに起因する。
機械式気動車で2両編成以上を組む場合は、各車両に運転士を一人ずつ乗せ、先頭車運転士が鳴らす汽笛に合わせて、後続車運転士が変速やアクセル操作を行っていた。タイミングを合わせるのが大変難しい上、1両に一人の運転士が必要では合理化に逆行し、3両編成程度が実用の限界だった。機械式で4両編成を組んだ私鉄の例もあるが、その場合1両はトレーラー扱いのことが多かった。
これでは高速運転も、輸送力のある長大編成も実現できず、結果としてローカル用にしか適さなかったのである[1]。
[編集] 戦前の電気式気動車
エンジンで発電機を回し、その電力でモーターを駆動して走行する「電気式(発電式)」気動車・ディーゼル機関車は、欧米で1920年代から登場し、高速列車の分野でも成績を収めていた。この方式は基本的にエンジンの回転数調節だけで速度調節ができ、総括制御も簡単だった。
欧米での成功に刺激されて、日本でも以下のような試みが行われている。
[編集] 鉄道省キハニ36450形
鉄道省が1930年(昭和5年)に2両を試作した20m級の大型ガソリンカーで、日本初の電気式気動車である。1920年代にアメリカの鉄道に出現していた、「ガス・エレクトリック」もしくは「ドゥードゥルバグ」と呼ばれた電気式ガソリンカーを国鉄流に模したものであった(ただし、ドゥードゥルバグは機械式気動車の場合もある)。
片側の運転台直後を機関室として、その床上に艦船用の発電エンジンを転用した池貝製作所製の直列6気筒、排気量24.376l、連続定格出力200HP/1250rpmのガソリンエンジンを搭載して芝浦製作所製の135kW/750Vの発電機を直結駆動、その発生電力で、客室側の2軸ボギー台車(TR14類似のこの形式専用のもの)に装備した三菱電機製の80kW/600VのMT26モーター2個を駆動するシステムである。機関室側の付随台車は3軸ボギー式(TR72類似の専用のもの)で5kW電動機での強制通風ラジエーターを屋上装備するなど、極めて独特な外見の車両であった。機械室には暖房用に小型ボイラーを据え付け、荷重1tの荷物室を持つなどフル装備であった。
36450が日本車輌製造で、36451が川崎車輛でそれぞれ製造され、1931年から東海道・北陸線の彦根-長浜間区間列車として運転を開始し、これにあわせて、この区間内に2両編成分の長さのホームを持つ坂田と田村の2駅が新設された。また、1936年には木造電車改造の制御車(キクハ16800形)と編成を組み、総括制御を実現している。
本形式は電気式であることによる重量増に加え、製作費の関係で車体に客車用の共通部品を使用したり、外板厚も当時の電車と同じ2.6mmとしたため、自重が49.1t、運転整備重量が50tときわめて重いものとなった。結果、性能は平坦線では75km/h(キクハ牽引で68km/h)、12.5‰の勾配で40km/h(同26km/h)と(キハニ5000の平坦線での55km/hよりは高いものの)十分といえるものではなく、重軸重(付随台車で10.159~10.439t)であったこともありローカル線での使用という本来の目的を達することはできなかったが、故障は少なかったとされている。
結局、鉄道省は一時電気式をやめ、機械式の軽量ガソリンカー(キハ41000形など)の開発に重点を置くようになる。本形式は電車に改造される計画もあったが、太平洋戦争中に休車となり、動力系を撤去して国鉄工場職員の短距離通勤輸送の客車代用や大井工場事務室代用に用いられた時期もあったが1949年に廃車、のち解体された。なお、2軸台車が北陸鉄道ED301に、モーターが東武鉄道日光軌道線ED611に転用された。
[編集] 満鉄ジテ1形
日本の資本・技術によって運営されていた南満州鉄道(満鉄)が、1935年に日本車輌で製作した電気式の流線型ディーゼル列車である。ジテは編成中の手荷物重油動車の形式であるが、編成を指した通称としても用いられている。同社はこれ以前から主として機械式の気動車を導入しており、電気式気動車としては1931年に重油動車ジハ1形2両と監査用ガソリン動車スペキ1形1両を自社工場において製作・使用した実績があった。
編成一端の手荷物重油動車床上に中速型の500HP級ディーゼル発電機を搭載し、編成の両端台車に駆動用モーターを装架したもので総括制御可能、客車は連接構造であった。ジテ1+ロハフ1+ハフ1+ハフセ1の4両で編成され、合計6編成が製造された。4編成はスイス・ズルツァー (Sulzer) 社の6VL25型予燃焼室式エンジン、2編成は新潟鐵工所のK6D型直噴式エンジンを搭載した。カタログスペックはほぼ同等だったが、新潟製は約3割重量が重く、ズルツァーの方が実際の成績も良かったようである。
総重量に比して低出力ではあったが、平坦で駅間距離の長い満鉄線では致命的な問題とはならなかった。大連近郊の近距離・中距離普通列車に用いられた。設計時よりハフセを省いて2編成を連結する配慮がされており、1943年にはこの編成でノンストップ高速試験運転を行って奉天・新京間 (304.8km) を2時間58分で走破した。
本形式は新中国成立後、他の満鉄動車と共に電車に改造されて撫順炭鉱の通勤列車に転用された。現在も時折運転される。
[編集] 相模鉄道キハ1000形
日本の私鉄史上唯一の電気式気動車であり、戦前の私鉄では数少なかったディーゼル動車の一つである。相模鉄道が汽車製造会社との共同で1935年に開発した。
側面から見ると「完全な台形」の奇抜な形状を持つ13m級2ドアの小型気動車で、床下にはドイツ・ユンカース社の水平型120HPディーゼルエンジン(5-4TV形、2ストロークユニフロータイプ)を搭載。342V・70kWの発電機を駆動し、発生電力で永久直列に配線された52kW主電動機2個を駆動した(電装部品は東洋電機製造製)。総括制御可能である。
ユニークなのは抵抗器を車載して強力な発電ブレーキを常用していたことで、なおかつその廃熱を車内暖房にも利用するというアイデアを日本で初採用している。この抵抗器暖房のアイデアは1950年代に一部私鉄電車で再び用いられたが、発熱量の調整が難しく、すぐに廃れた。
この形式は小形軽量化構造の車体で自重17.5tと大きさの割に高出力で俊足でもあり、非常に優秀な成績を上げた。キハ4両のほか1938年に付随車サハ1100形1両も増備され、2~3両編成を組んで鉄道省横浜線八王子駅へ乗り入れた実績もある。
旧・相模鉄道は1944年に運輸通信省により戦時買収を受けるがキハ4両は買収対象にならず、1943年に合併していた旧・神中鉄道の区間へ転属した。サハについては書類上省籍を得ているが実車はキハ同様転属したとされる。戦中・戦後の混乱期に600V電化区間用の電車に改造されたが、時期は諸説ある。東京急行電鉄経営委託期間に同線が全線1500V化されたため東横線に転属した。新車割当の代替供出として1948年に日立電鉄に譲渡され、改装を受けつつ長く使用されたが1997年までに廃車となった。
[編集] 鉄道省キハ43000形
鉄道省が、アメリカやドイツの電気式気動車による高速列車に刺激を受け、1937年に試作した流線型気動車。メーカーは川崎車輌である。
流麗な車体形状の3両編成で、水平シリンダ形の240PSディーゼルエンジン「DMF31H形」を床下搭載した20m車のキハ43000形が、17mの付随車キサハ43500形を挟み込む構成である。エンジンは新潟鐵工所、池貝鐵工所、三菱重工業が各1台製造したうちからキハに各1台を搭載し、キハには各車2個ずつの80kWモーターを台車搭載していた。鉄道省では幹線の都市間連絡列車に用いることを想定していたといわれる。
本形式は総括制御可能であるのみならず、常に3両編成で運転することを前提に設計されていた。小型の自動式重油ボイラーをキサハ43500に搭載し、3両すべての暖房をまかなう構造だったのである。またキサハには、国鉄気動車初のトイレも設けられていた。
意欲作であったが、当時としては大型のエンジンに部品破損などのトラブルが頻出して十分な成績を収められず、量産はされなかった。ほどなく戦時体制下に入り、燃料供給にも問題が生じたため、休車となった。
本形式は1945年、浜松工場で米軍機の爆撃により被災し、キハ43000形2両が復旧しないまま廃車された。キサハ43500形のみ電車・気動車の付随車として戦後も使用されたが、1960年代に廃車された。
このように太平洋戦争以前、まとまった両数の電気式気動車を営業運転に供したのは、南満州鉄道と相模鉄道だけであった。
1938年以降の戦時体制下では燃料不足によって気動車そのものの運行が困難となり、電気式気動車の開発も十分な成果を見ないままに頓挫した。
しかしこの間にもディーゼルエンジンの研究は進められており、1935年から開発が行われた鉄道省の気動車用150ps級ディーゼルエンジンは、1942年に設計を完了している。このエンジンは、のちにDMH17形と呼ばれることになる。
[編集] 国鉄における戦後の展開
戦後も燃料事情の悪さから気動車の活用はままならなかったが、これが改善された1950年以降、戦前の気動車の再生措置や、新規の気動車製造が、本格的に開始される。だがこれらはすべて機械式気動車であった。
日本国有鉄道は1950年に80系電車を開発して東海道本線に投入、従来機関車牽引の客車列車が主力であった中・長距離列車の分野について、電車で代替できることを証明した。電車に代表される動力分散方式は、加減速性能や線路への悪影響の少なさで、機関車方式より有利であり、80系電車は戦後の国鉄近代化の尖兵となった。
しかし、当時の日本では鉄道の電化区間自体が少なく、多くの路線は主要幹線も含めて、蒸気機関車がほとんどすべての列車を牽引していた。このような非電化路線の近代化には、ディーゼル動力の採用が不可欠だった。
蒸気機関車を排除してディーゼル動力に切り替える「無煙化」は、乗客・乗員や沿線への煙害を無くすと共に、列車速度の向上、エネルギー効率の改善、保守・点検の効率化等、鉄道の抜本的な体質改善に寄与するものである。
だが1950年代初頭の日本では、鉄道用ディーゼルエンジン技術が十分な発達を見ていなかった。ことに大型蒸気機関車を代替できるような大型ディーゼル機関車の開発は、大出力エンジンの開発困難によって阻害されており、本格的な大出力機関車は1960年代まで出現しなかった。
一方で気動車用のディーゼルエンジンとしては、DMH17形(150ps/1500rpm)が1951年より量産され、機械式気動車に搭載されて好成績を収めていた。
この情勢下、非電化区間における80系電車的なスタンスで、かつてのキハ43000系気動車の延長線上に、総括制御可能な電気式気動車を開発しようという機運が生まれる。エンジンにはDMH17形が使用されることになった。
[編集] 国鉄キハ44000形
[編集] 試作車
電気式気動車の試作車として1952年に44000~44003の4両が製作された。1両では営業運転できない片運転台車であり、2両以上で総括制御を行うことを前提とした設計である。
[編集] 外観
片運転台、ステップ付片開き3ドアの20m車である。
正面形状は80系電車に酷似した2枚窓の「湘南形」であるが、運転台直後ドアのステップから前面全周まで外板が回り込んでおり、やや面長な容貌であった。のちにこの「顎」の部分を切り落としている。
軽量化のため、車幅は通常の国鉄車両より20cm近く狭い2.6m級で、屋根も浅い。これはそれ以前の気動車と同様で、軽量化技術が未発達だった時期のやむを得ない重量削減策であった。
側窓は80系電車風の1段上昇式で、窓下にはウインドウシル(補強帯)が通されている。
[編集] 車内設備
車内は車幅が狭いためあまりゆとりはなかった。座席は軽量化のため、華奢な骨組みにビニール地を張った粗末なもので、座り心地は良くなかったという。また暖房装置も簡易なもので、十分な性能ではなかった。
[編集] 台車
台車は新開発の軽量台車DT18形である。プレスした鋼板部材を溶接して組み立てる近代的な構造で、軸バネも先進的なウイングバネであった。
しかし、本来十分な柔らかさが必要な枕バネに、軽量化・単純化のため防震ゴムブロックを採用した。そのあまりの硬さに、乗り心地は惨憺たるものとなった。特にブレーキ作動時の振動はすさまじかったという。このゴムブロック枕バネは、後続の液体式気動車用台車DT19形でも踏襲され、欠陥もそのまま引き継がれてしまった。
[編集] 動力装置・駆動装置
DMH17A形エンジン(150ps/1500rpm)で直結したDM42形直流発電機(300V・100kW)を駆動し、発生した電力で後位側台車に架装したMT45形モーター(45kW)2個を駆動した。
このMT45形は、日本初の実用カルダン駆動方式である(直角カルダン駆動方式)。
当時カルダン駆動電車は、私鉄各社でも開発途上であり、「『電車』ですらない」キハ44000形への採用は、通常では考えられない異例の措置であった。この背景には、試作車としての技術試験の意味合いと、軽量化の一手段としての面があったと推定される。
なお、国鉄はその後の在来線電車では中空軸平行カルダン駆動を標準とし、新幹線ではWNカルダン駆動を採用したので、直角カルダンの国鉄制式モーターはMT45形が唯一である。
エンジンの回転は電磁弁で遠隔操作が可能であるため、総括制御が実現された。
[編集] 増備形
キハ44000形試作車は川越線等で試験運転され、一定の成績を収めた。
この結果をもとに、翌1953年、キハ44004~44014の11両が増備された。基本は試作形に準じているが、側窓が当時のバスで流行していた「バス窓」となった。これは上段窓をH断面のゴムで支持した固定式とし、下段を上昇式とした、2段窓の一種である。採光と車体強度確保両立の一手段であるが、キハ44000形の場合は強度確保よりも当時の流行に合わせたという感が強い。
キハ44000形は当初、主に房総地区の路線で普通列車に使用された。
[編集] 国鉄キハ44100形・キハ44200形
キハ44000形増備形の兄弟形式と言うべきグループである。1953年に3両編成5本15両が製造された。
44100形の外観・性能は、44000形増備車と共通のバス窓タイプだが、中央扉を廃して2ドアとなっている。44200形は44100形と同型だが運転台なし中間車でトイレを設置しており、44100-44200-44100の3両編成を組んだ。
登場当初、鹿児島本線の門司港-久留米間で主に快速列車に用いられた。
[編集] 電気式気動車のその後
電気式は総括制御が容易という長所はあったが、低出力エンジンとの組み合わせでは電気機器の重量がかさみ、必ずしも効率が良くなかった。これは150psで30t超級のキハ44000系にも当てはまる弱点であった。急勾配にも弱く、当初重点配備された房総地区においては、房総東線大網 - 土気間の上り勾配において時速が 10 キロメートルを下回り、多客時には自然に停車してしまうことすらあったという[2]。
電気式は元来、大型大出力エンジンを搭載する重量級車両に適した方式であった。日本の鉄道の線路規格が低かったことと、日本におけるディーゼルエンジン技術の未発達とが、電気式を使いこなし得なかった原因とも言える。
一方国鉄は、キハ44000系の後を追うように液体式試作気動車キハ44500形を開発する。
液体式は、レイアウト自体は機械式気動車の変速機のみをトルクコンバータ式に置き換えたような構造である。絶対的な動力伝達効率は電気式に劣るものの、低出力車の場合は電気式より低コストかつ軽量に仕上がり、総合的には効率が良い。総括制御も可能である。
このため、日本で気動車に使用する場合はむしろ液体式の方が適しているという判断が為され、1953年後半からはキハ45000系(のちのキハ10系)が液体式気動車の量産形式として大量に増備されるに至った。
少数派となったキハ44000系電気式気動車は、のち液体式化されるなどして以下のような経緯をたどり、最終的にはキハ10系液体式気動車の傍系グループに吸収されることになる。
これらの液体式化改造の際に、台車をDT19形に換装したものと、DT18形からモーターをおろし、逆転器を装備して流用したものとがある。またエンジンも、DMH17B(160ps)かDMH17C(180ps)となった。
[編集] キハ44000形(15両)
1957年4月の気動車形式称号改正によりキハ09形(初代)1~15となるが、同年から翌1958年にかけて液体式化され、運転台側の車体半分を郵便室・荷物室に改造して、キハユニ15形1~15となった。
1、4、11、14の4両は、後に運転台側を貫通型に改造している。
[編集] キハ44100形(10両)
1956年末から1957年初頭にかけて液体式化され、運転台側の車体半分を郵便室・荷物室に改造して、キハユニ44100形44100~44109となった。
1957年4月の称号改正でキハユニ16形1~10に改番された。3は後に貫通型に改造された。4は1971年に601に再改造され、アコーディオンカーテンを車内に設けて簡易荷物室部分を拡大した。
1、5、6、9の4両は、1965年と1970年の2度にわたり再改造され、客室を廃した郵便荷物車キユニ16形1~3、10となった。
- キユニ16形1、2(元キハユニ16形1、2) 1965年改造。前半分を郵便室、後部を荷物室とし、便所を設置。
- キユニ16形3(元キハユニ16形6) 1970年改造。便所付だが1、2とは郵便室・荷物室の配置が逆。
- キユニ16形10(元キハユニ16形10) 1965年改造。1、2に準ずるが便所はない。
[編集] キハ44200形(5両)
1956年から1957年にかけて中間車のまま液体式化された。1957年4月の称号改正でキハ19形1~5となった。
1964年には常磐線の荷物輸送に充当する目的で、1、3~5が片運転台全室荷物車のキニ16形1~4に改造された。しかし、電化路線で列車密度の高い常磐線では、停車頻度の多い荷物列車運用は、1個エンジン気動車では性能不足であった。故にすぐに運用を外れ、翌1965年には4両すべてが郵便荷物合造車のキユニ19形1~4に再々改造されて、房総地区に転用された。
唯1両残ったキハ19形2は、1966年にキニ19形1に改造され、四国で使用された。キニ16形とは、後位側への事務室新設などの差異がある。
これらの元電気式気動車30両は、1970年代に入ると老朽廃車が始まり、1980年までにすべて廃車された。
[編集] 電気式の将来(ハイブリッド気動車)
東日本旅客鉄道(JR東日本)は鉄道総合技術研究所(JR総研)と共同で2003年(平成15年)、シリーズ方式ハイブリッド気動車キヤE991形を試作した。「NEトレイン」と称する[3]。
システム的には電気式気動車に回生電力吸収用の蓄電池を設けた構造であり、日本における半世紀ぶりの電気式気動車とも言える。
ブレーキ時にはモーターから回生させた電力を蓄電池に充電する。発進・加速時や登坂時には蓄電池の電力を併用することでエンジンの負荷を抑え、燃費節減や排気ガス削減を図っている。
従来の気動車では不可能だった「走行エネルギーの回収・再利用」を実現したという点では画期的な車両である。
蓄電池は容量10kWh(当初)のものを屋根上に搭載し、マンガン系の正極を使ったリチウムイオン二次電池を採用したことも特徴である。発電用エンジンは出力331kW/2100rpmの国際的な鉄道の排ガス規制に対応したもので、発電機は180kWの3相誘導発電機DM927である。電機品はE231系のものをベースにした日立製作所製であり、主電動機はMT73に電圧変更対応を施した95kWのMT936、主変換装置もE231系のVVVFインバータ制御装置をベースにDC340Vのインバータ・コンバータとしたCT905で、ここの制御装置部が蓄電池、エンジンも制御するハイブリッドシステム統括制御装置となっている。台車はDT959/TR918で、これもE231系のものをベースとしている。
基本的には駅停車時や低速走行時にはエンジンを極力停止させることとし(サービス電源は蓄電池から供給)、蓄電池で発車後25km/hでエンジンが始動する。この時はエンジンは最高効率域での発電となり、蓄電池からの電力も併せて使用するが、長い上り坂などではエンジンを最高出力で発電させ、エンジン発電のみで走行する。ブレーキは回生・発電併用電気指令式空気ブレーキで、回生時は主電動機の発電で蓄電池を充電するが、抑速時はエンジンの排気ブレーキも使用される。エネルギー消費については自動車のハイブリッド車と同様に長い勾配がある線区では重量が重いためかえって燃費が悪くなることがわかっており、駅間の長い線区でも従来の気動車と大きな差は出ないため、将来的にも使用線区は限定されるものと思われる[要出典]。
キヤE991形は、小型高出力ディーゼルエンジン、ステンレス製の軽量車体、効率的なパワーエレクトロニクスという有利な条件を具備しており、将来性を期待しうる車両であり、将来の燃料電池導入もシリーズ式採用の理由の一つになっており、実際2006年7月以降水素燃料による燃料電池(65kW2台)を搭載して試験を実施する予定である。プレスリリース
キヤE991形による試験の後、JR東日本によって世界初の営業用ハイブリッド気動車キハE200形が製造されることになり、2007年夏より小海線に3両を投入し、営業運転を行いながら長期試験を行う予定である。プレスリリース
これらとE231系電車の開発・導入によって、JR東日本は「省エネ車両の継続的導入と世界初のハイブリッド鉄道車両の開発・導入」という理由により、第16回地球環境大賞の文部科学大臣賞を受賞した。
一方、2007年10月、JR北海道はモータアシスト方式ハイブリッド気動車の試作車として、同社キハ160形気動車を改造した。
長時間の駅停車時や低速走行時にはエンジンを極力停止させることとし(サービス電源は蓄電池から供給)、蓄電池で発車後45km/hでエンジンが始動する。エンジン始動後の加速は、モータとエンジン両方の動力によって行い、走行中のアイドリング時とブレーキ時にはモーターから回生させた電力を蓄電池に充電する。こちらも、今までの気動車では不可能であった「走行エネルギーの回収・再利用」を実現している。また、既存気動車をモータアシスト方式ハイブリッド気動車に改造することも可能であり、実際、当該試作車も既存気動車を改造したものである。
ただし、このハイブリッド駆動システムの根幹をなすのは電子制御による機械式変速機であり、その意味ではこれは機械式気動車の復権とも言える。
JR北海道のモータアシスト方式ハイブリッド気動車試作車は、2007年11月から2008年1月頃まで営業線での試験運転を行う予定である。 プレスリリース
[編集] 脚注
- ^ 近年、海外では電子制御による機械式変速機を搭載した気動車が開発されつつある。流体式に比べ伝達効率が高いため、エネルギーの損失が少ないという特徴を発揮しつつある。デンマークでは実用化に向け時速200kmでの試験走行も行われている。国内においても、2007年11月以降、電子制御による機械式変速機を搭載したモータアシスト方式のハイブリッド気動車の試験走行が行われる予定である。
- ^ 白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』、崙書房、105 頁
- ^ 参考までに、日本ではないが、営業用でない(試作車・デモンストレーション車)ハイブリッド気動車では、2000年にアルストムなどが製作した、ドイツ鉄道の618型気動車「コラディア・リレックス」(Coradia LIREX)の事例が存在する。こちらは電池ではなく、フライホイールにエネルギーを蓄えるシステムである。また、燃料電池の搭載も可能としている。2000年に開催された鉄道技術見本市「イノトランス」で実車が出展された。
- 日本国有鉄道(鉄道省)の気動車 ■Template ■ノート