国鉄キハ181系気動車
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国鉄キハ181系気動車 | |
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「やくも」 1982年 岡山駅
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最高速度 | 120km/h |
最大寸法 (長/幅/高) |
21,300mm×2,903mm×3,955mm |
質量 | 44.2t→44.6t |
定員 | 52(席) |
機関出力 | 500PS/1600rpm(DML30HSC) |
駆動方式 | 液体式 |
変速段 | 変速1段・直結1段 (DW4C→DW4F) |
台車形式 | DT36B/TR205B→DT40B/TR219B |
ブレーキ方式 | 電磁自動ブレーキ(CLE) 機関ブレーキ |
保安装置 | 非常時交互点滅灯、ATS |
備考 | キハ181(新製時) |
国鉄キハ181系気動車(こくてつキハ181けいきどうしゃ)[1]とは、日本国有鉄道(国鉄)が開発・製造・保有した特急形気動車の1系列である。1968年から1972年までに158両が製造された。
目次 |
概要
特急形気動車として先行するキハ80系の設計コンセプトを踏襲しつつ、キハ90系試作車での成果を踏まえ、国鉄の量産気動車としては初の500PS級大出力エンジン搭載車となった。大出力を利して主に電化前の中央西線や奥羽本線、伯備線、あるいは土讃線などの山岳線区に特急用として投入された。
開発経緯
本系列登場以前は、非電化区間特急列車用としてDMH17H系ディーゼルエンジンを搭載するキハ80系が投入され、電化区間とほぼ同等の快適な特急サービスを日本全国に幅広く提供して好評を博していた。だが、キハ80系には快適な客室設備とは裏腹に、搭載機関が旧式でかつ非力であったこと、およびサービス電源用の発電エンジン搭載とのかねあいで編成全体の走行用エンジン出力が不足したことから、最高速度と勾配線区での均衡速度を高く取れず、沿線から特急運転の要望があっても勾配区間が連続する山岳線区への投入が困難である、という問題があった。
そもそも、このキハ80系は計画開始当初の段階では、DMF31HS系ディーゼルエンジンと新型の変速機を搭載する大出力ディーゼルカーとして計画されたものであった。旧式かつ非力なDMH17H系機関の搭載は1960年に合計3両が試作されたキハ60系における、DMF31HSAとDW1と呼称される直結2段・変速1段構成の新型液体変速機の組み合わせでの実用試験が失敗に終わったことから、やむなく選択されたものであり、キハ80系量産開始後も国鉄内部では単一機関による大出力ディーゼルカー開発の道が模索され続けていた。
そうした中、1964年度に至り、ようやく新型大出力ディーゼルエンジンと、これに適合する新型液体変速機の実用化に目処が付くことになった。
1気筒当たりの排気量が過大で気動車用横置き機関として使用するのが困難であったキハ60系用DMF31HSA[2]の反省から、DMH17系[3]を基本にシリンダ径を10mm拡大し、過給器の付加を前提に直列6気筒あるいは水平対向[4]12気筒構成として所定の出力を確保したそれらの新型機関は、当時の国鉄の命名基準に従って6気筒モデルがDMF15HZA、12気筒モデルがDML30HSAと付番され、前者は過給器に加えて中間冷却器の追加で300PS、後者は過給器のみの付加で500PSを発揮した。これらは1966年に試作されたキハ90・91形に搭載されて評価試験が実施され、新型気動車の走行用機関としては出力に余裕があり、冷房用電源のための床下スペース捻出も容易なDML30HSAが採用されることになった。
この決定を受け、1967年夏にはDML30HSAに小改良を施したDML30HSBを搭載するキハ91系量産試作車が落成し、同年秋の中央西線での性能試験以降、中央西線の急行「しなの」などでの大出力新系列気動車の長期実用試験が開始された。しかしながら、この実用試験完了を待っていては当時国鉄が進めていたいわゆる「ヨンサントオ」と呼ばれる1968年10月実施予定の白紙ダイヤ改正に伴う列車高速化計画に間に合わないことは明らかであった。そのため、既に一定の実用性が立証されているキハ91系の走行機器とキハ80系の車体構造を折衷する形で、キハ91系による試験結果を待たずに新型特急形気動車の設計が開始された。
こうして1968年に完成したのがキハ181系である。
新製形式
新製車は以下の4形式で構成される。
- キハ181形(1~49)
- 先頭車。定員52名。機器室がキハ82形より長くなり、定員の確保と軽量化のため便所と洗面所は設置されていない。そのため、営業運転では原則として最低3両編成以上で運用する必要がある。
- キハ180形(1~79)
- 中間車。定員はキハ80形より4名多い76名。出入台付近に和式トイレと洗面所を設けた。本系列では先頭車両には行先表示器が設置されていないために、中間車に行先が表示されることとなる。
- キロ180形(0番台:1~13、100番台:101~104)
- 中間グリーン車。定員48名。キロ80形にあった荷物保管室は廃止となり、代わりに乗務員室を設置した。車掌室内にはラジオ受信器を搭載している。0番台でのトイレは出入台側に洋式、反対側車端部に和式をそれぞれ1カ所、洗面所は2カ所に設けた。行先表示器はそれぞれの車端部に計4台設置されている。
- 100番台は1972年に四国特急用として登場したもので、定員は0番台と同じく48名。四国特急では食堂車は連結しないため、0番台の洋式トイレ・洗面所のスペースを車販準備室とした。
- キサシ180形(1~13)
- 食堂車。食堂定員40名。室内のレイアウトは583系電車サシ581形に準じており、前位寄から車販準備室・休憩室・食堂・料理室が設けられている。行先表示器はない。側窓は複層式磨きガラスの間にベネシャンブラインドを内蔵し、カーテンは廃止された。調理用電源はキハ181形から供給を受ける。
車体
キハ181系はキハ80系の外観と接客設備を踏襲しているが、以下の相違点が見られる。
車体構造
151系「こだま形」特急電車に始まる、準張殻構造、複層ガラス、客室設備、それに特急色などの要素は受継がれた。ただし、機関出力の増大、屋根上への自然放熱式冷却器の搭載、冷房装置の強化に伴う重量増などの対策のための構体補強などにより自重は増加している。また、台車が仮想心皿方式となり枕ばねとして車体直結型空気ばねが採用されたため、客用扉が位置的にこれと干渉することから引き戸にすることができず、2枚折戸に変更された。加えて同時期製造の特急電車などと同様に、側面行先表示器を採用し便・洗面所をデッキ外に配置している。
車体寸法
キハ80系固有の21mから、新世代の客車・気動車標準の21.3m(いずれも連結面間)に拡大された。
前面デザイン
好評であったキハ82形の貫通形デザインを踏襲した。ただし、ライトケースがキハ82形の丸みを帯びたものから角張ったものに、ヘッドマークが逆台形のものからに長方形に変更され、尾灯とタイフォン(警笛)が一体型のケースにまとめられた。また塗装の羽型飾り帯の意匠が一部変更されている。
空調機器
キノコ型キセ付きのAU12系[5]から、14系座席客車でも採用された、1ユニットずつ独立した分散型のAU13S[6]へ変更された。なお485系電車後期型や183系電車などで採用されたAU13Eとは、形式名も形状も似ているものの、互換性は無い。
主要機器
走行用エンジン
走行用エンジンとして、当初はキハ91形2 - 8に搭載されたDML30HSBを改良した DML30HSC[7]を付随車であるキサシ180形以外の各形式について各1基搭載し、以後増備の度に順次改良されてDML30HSD・E・Fがそれぞれ搭載されたが、その基本設計に変更はない。
車載用ディーゼル機関の開発趨勢として、世界的に直噴式が一般化しつつあった時期に設計された旧式な予燃焼室式機関であり、燃費が悪く高発熱、しかも重量過大、と開発当時の日本の鉄道車両用内燃機関設計技術がいかに立ち後れていたかを如実に示す存在[8]であった。
発電用エンジン
キハ80系では走行用のDMH17Hを発電用に転用したDMH17H-Gを先頭車と食堂車に各1基搭載して編成の電力をまかなったが、本系列ではキハ90形で走行用として試験されたDMF15Hをデチューンの上で発電用に変更したDMF15HS-G[9]をキハ181形に各1基搭載する。
これにより、キハ80系では発電セット1セット当たり三相交流440V/125kVAであった給電能力が、キハ181系量産車では発電用機関の出力向上から三相交流440V/180kVAに増強され、1セットで5両分のサービス電源供給[10]が可能となった[11]。
変速機
キハ91形の設計を踏襲し、1段3要素形液体式変速機であるDW4C - E[12]を搭載する。
これは直結1段・変速1段構成で、大出力による空転を防ぐために1台車2軸駆動を実施する関係上、従来は台車枠から吊り下げられる最終減速機と一体であった逆転機が変速機内装に変更されているという特徴がある。もっとも、この変更に当たっては強大な機関のカウンタートルクで最終減速機と台車枠を結ぶリンク機構をねじ切ってしまう恐れがあったことから、反力軸と呼ばれる反力吸収用の軸を推進軸と平行する形で変速機から出して、これで動力台車の内側寄り最終減速機を支持する、という対策が講じられている。
従来のTC2・DF115系の場合は45km/hで変速-直結の手動切替を行っていたが、DW4系は大馬力エンジンによる太いトルクで空転が多発するのを防止するため、低速ではすべりが大きく中高速での効率をより重視した構成となっており、85km/h程度まで変速段で加速を行い、回転数を検知して直結段に自動変速する。このため、勾配線区で常用される速度域が効率の悪い変速段で占められることになり、屋根上放熱器による冷却システムが、低速域では通風量の不足から冷却効率が著しく低下することもあって、機関に大きな負担をかける結果となった。
もっとも、その一方で85km/h以上での高速走行時には、通風量の増大で冷却システムが有効に機能し、直結段で機関本来の性能がフルに発揮可能であるため、本系列はむしろ平坦線において85~120km/hの速度域で電車に伍して走行するのに適しているとされる。
冷却システム
中間車(動力車)については、急勾配用ということもあって冷却ファン駆動による走行用機関の馬力損失と騒音・振動を嫌い、また車両製造コストの削減を狙って、自然通風式を採用した。このため、大型の放熱素子を並べた巨大な自然通風式ラジエーターを屋根上ほぼ車体全長に渡って搭載している。
もっともこのシステムは先行採用したキハ90系で冷却能力不足が解決できていなかった[13]にもかかわらず、しかも夏場の高温下での運用試験が未了であったにもかかわらず、見切り発車で採用されており、後述するように本系列が夏場を中心に急勾配線区で不具合を頻発する一因となった。
この冷却器は構造単純でかつ廉価であったが、その反面、重量の増加と重心が高くなるという問題があった。また低速・強トルク状態での連続運転を強いられた山岳線区、中でも放熱に不利な小断面トンネルが連続する中央本線のような線区での運用時においては、通風量の不足と前述の変速段常用に起因する機関の発熱過大から、致命的な冷却能力不足と、これに起因する機関故障等が頻繁に発生した。このため、総合的にはこのシステムは失敗であったと見られている[14]。
それゆえ、冷却系にまつわるトラブル多発が発覚して以降に製造された中間車については、冷却系の能力改善が特に強く要求された。これに対し国鉄技術陣は基本設計に抜本的な変更を加えず、不足する冷却能力の強化を目的として床下にオイルポンプによる強制通風式ラジエーターを追加搭載[15]することで問題の解決を図った。これにより冷却能力不足については一定の改善が見られたが、オイルポンプ駆動に伴って機関出力損失が発生し、また自重も増大した。なお、故障が頻発した初期製造車についても、後日同様に補助冷却機構の追加搭載が実施され、以後は冷却系に起因する不具合が減少した。
これに対し、キハ181形は発電装置を搭載するため、軸重の制限から重量面で不利な自然通風式が採用できなかった。このため、走行・発電の2基のエンジンのラジエーターをまとめて運転台後部の車体両側面に装備し、屋根上の2基の静油圧駆動ファンによる強制通風を行った。こちらはトラブルが頻発して場当たり的な補助冷却器の追加を強いられた中間車とは異なり、冷却系の性能不足に起因するトラブルはほとんど発生せず、量産先行車から最終増備車まで仕様変更なしに推移している。
台車
キハ90・91形で新規開発された延長リンク+ウィングバネ複合軸箱支持方式を採用する、DT36・TR205[16]仮想心皿方式空気ばね台車が引き続き採用された。
これらは片側台車2軸駆動のために設計されたものであり、トランサム中央を推進軸が貫通している。このため揺れ枕吊りとボルスタを廃して推進軸との干渉を回避し、荷重は左右の側枠中央直上に車体直結のダイアフラム式空気バネを載せてここで受け止め、台車の首振りおよび牽引力の伝達は空気バネの剛性とZリンクによる仮想心皿方式を用いることで代替している。また、逆転機は変速機内装とされたため、動台車側には減速機のギアボックスのみが各軸に搭載されている。
制御系
主幹制御器は専用品(固有形式名なし)を搭載する。
これはキハ90系の設計を踏襲しており、電車と同等の自動進段を行うため、その制御信号は他の気動車各系列との互換性がなく併結して総括制御を行えない。しかも、急行形として在来型気動車との併結の可能性を考慮せざるを得なかったキハ90系とは異なり、運用上キハ80系を含む在来型気動車との併結を一切考慮しないため、制御信号の読替装置も搭載していない。
これを受けて、編成内の引き通し線の接続はキハ90系と共通の密着自動連結器下に取り付けられた専用の電気連結器のみを用いており、増解結などによる編成組み替えが容易になっている。
なお、本系列の制御信号および電気連結器はキハ90系のそれと互換性があり、混用も可能であった。
ブレーキ
常用ブレーキシステムは、同時期の国鉄電車で標準採用されていた応答性に優れたSED系電磁直通ブレーキではなく、軽量化を目的として機器構成が簡素な三圧力式制御弁を用いるCLE系電磁自動空気ブレーキを搭載する。
また、常用補助制動装置として機関ブレーキを備える。
量産先行車では踏面ブレーキを採用したが、本格的な量産車として製造された2次車(キロ180-3~・キハ181-5~・キハ180-7~・キサシ180-3~)以降は高速運転時のフラット対策として、基礎ブレーキ装置を踏面ブレーキから油圧式ディスクブレーキに変更している。
改造車
比較的改造の少なかったキハ80系に対し、本系列は国鉄末期以降の短編成化の進行もあって改造の頻度が高く、また台車枠の新製交換という、車両としての基本的な部分の欠陥是正工事があったことが知られている。
国鉄時代の改造車
キロ180形150番台
1975年3月と1977年3月の四国特急の増発に際しては、所要車両は名古屋と尾久からの転属によってまかなわれたが、このうちキロ180形について、100番台にあわせて洋式トイレ・洗面所を撤去して車販準備室とした車両で、1975年と1977年に合計2両が施工された。1988年に2両ともキロハ180形に改造され区分消滅している。
- キロ180-1・7→キロ180-151・152
キハ180形(車掌室取付改造車)
1976年10月1日に特急「おき」はキハ82系からキハ181系に置換えられたが、キロ180形の不足にともない、3往復中1往復はモノクラス編成で運転されることになった。
さらに、1985年3月14日ダイヤ改正以降、3~4両の短編成の特急列車が増発されるに及び、キハ180形に車掌室の設置を行った。定員は76名から68名に減少している。
- キハ180-10・14・17・18・23・24(番号変更はなし)
※23・24は後述のキロ180形200番台に改造され、それ以外の車両も現在は全車廃車され、区分消滅した。
キロ180形200番台
1986年11月1日のダイヤ改正で、四国内の特急列車を短編成化して増発するにあたり、不足するグリーン車をキハ180形をキロ180形に改造して充当することとした。
種車は改造費を抑える目的から車掌室を増設していたキハ180-23・24(前述)が充てられた。改造内容は腰掛を他系列の廃車発生品のグリーン車用リクライニングシートに交換し、後位側に車販準備室を新設した。この種の改造車の常として、座席と窓のピッチは合っていない。1988年に2両ともキロハ180形に改造され区分消滅している。
- キハ180-23・24→キロ180-201・202
キハ181形100番台
国鉄の全体的な短編成化方針によって不足した先頭車と余剰となった中間車という関係上誕生した区分番台。国鉄時代に3両、国鉄分割民営化後四国旅客鉄道(JR四国)で2両が改造された。中間車両からの改造のために便所・洗面所のスペースはそのまま残されたが、四国の改造車両は便所は業務用としてふさがれ、洗面所は撤去された。座席配置もキハ180形に準ずるものとなっている。外見は前面ガラスが金具押さえ支持になって、機械室が若干短くなり、その後ろの小さな窓がなくなっていることが特徴。また101・102・103は行先表示器は窓だけが残り、便・洗面所の窓はふさがれた。104・105は行先表示器窓がふさがれ、トイレ、洗面所窓跡が残った。定員は0番台車より4名少ない48名。電源装置はキハ183系のものと同じDMF15HSA-Gである。なお、キハ181-101の装置はキハ184-901をキロ184-901に改造した際の発生品を流用した。末期はトイレがある関係で座席数が少ないため「おき」「くにびき」の自由席車両に限って使用されたが、「おき」の定期ラストランにも用いられていた。
102・103はアコモ改良として他系列の廃車発生品の簡易リクライニングシートに交換し、洗面所跡に100円硬貨専用の公衆電話を設置して出場したが、キロハ180形に同様の公衆電話が設置されたため、JR四国色になって座席が再度交換されたときに撤去されている。104・105はJR四国色で出場した。現在では5両とも廃車となっている。
- キハ180-7・69・70・68・73→キハ181-101 - 105
台車枠交換工事
製造後10年前後で、台車枠に金属疲労で亀裂が入る不具合が相次いで発生したため、特修工事として当時在籍していたキハ181系のすべて[17]の台車枠について新製交換を実施した。この際、軸箱支持機構を従来の平行リンク・ウィングばね複合式からウイングばね式に変更している[18]。なお、新旧台車形式の対応は下記の通り。
- DT36B→DT36C、DT40→DT40B、TR205B→TR205D、TR205C→TR205E、TR219→TR219D、TR219A→TR219E
JR四国の改造車
キロハ180形
キハ185系が営業運転を開始した1986年11月のダイヤ改正で、特急の増発と短編成化を実施した。その後キハ185系に比べて見劣りする車内設備をキハ185系並に改良する際、乗車率の悪いグリーン車を見直すことになり、キロ180形を半室グリーン車に改造し、キロハ180形とした。外装はJR四国のコーポレートカラーに変更し、車内は車両中央部にブロンズガラス製の空気式自動引戸付の仕切を設け、仕切の普通室側に100円硬貨専用の公衆電話を設けた電話室を設置した。この関係で7・8は窓が一部埋められて小型のものに変更されている。車内の化粧板や床敷物、仕切扉も交換されてグリーン室側は窓の巻上げカーテンを横引カーテンに交換した。1 - 6のグリーン室側は座席モケットを緑色のものに交換し、7・8のグリーン室側は座席をキロ180形からの発生品に交換し、1 - 6と同じ座席になった。普通室側は座席を普通車用のリクライニングシートに交換したが、座席の前後間隔はグリーン車時代と同じ1,160mmのままであった。定員はグリーン室24名、普通室18名。
この改造は1987年から翌年にかけて多度津車両所で施工され、これによりJR四国ではキロ180形が形式消滅となった。
- キロ180-101 - 104・151・152・201・202→キロハ180-1 - 8(番号順)
普通車のアコモデーション改造
国鉄末期より普通車の回転クロスシートをキハ185系に準じた[19]背面テーブル付リクライニングシートへの交換、車内の床敷物、側面化粧板、仕切扉の交換、巻上げカーテンの交換などのアコモデーション改良を実施した。また1987年から翌年にかけて全車がJR四国のコーポレートカラーに変更している。さらに一部の車両は2000系導入後モケットを交換している。この改造で発生した回転クロスシートはキハ58・28に転用されたものもある(現存せず)。
JR西日本の改造車
西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継された車両は、ATS-SW形が装備されている。グリーン車の座席モケット交換、普通車の回転クロスシートを485系のアコモデーション改良車と同様な背面テーブル付リクライニングシートへの交換、車内の床敷物、化粧板、仕切扉の交換、巻上げカーテンの交換などのアコモデーション改良を実施した。
1994年12月3日のダイヤ改正で、キハ181系で運行される智頭急行線経由の「はくと」1往復が新設されたが、車両不足が予想されたため、当初はJR四国で廃車になった車両を購入して復活させる予定だったが、実現しなかった[要出典]。智頭急行線では自動列車停止装置にATS-Pを採用したため、京都総合運転所所属車両のうち同時に1往復減便された「はまかぜ」から捻出された車両の一部にATS-P対応機器の追加取り付け改造を行い、充当した。
1996年3月16日のダイヤ改正で「はくと」が増発され、「あさしお」の廃止に伴い捻出された車両にATS-P形の追加取付改造を行い充当した。後に、京阪神地区についても自動列車停止装置にATS-Pが採用されたため、京都総合運転所所属の「はくと」・「はまかぜ」用の車両についてはATS-P対応機器の追加取付け改造を行った。
運用
1968年に竣工した、キハ181系第1陣となる量産先行試作車は早速中央西線の特急「しなの」[20]に投入され、最高速度は95km/hのままながら大出力を利した加速性能の引き上げで大幅な所要時間短縮を実現した[21]。もっとも、特に初年度は中間車に補助冷却器が追加搭載されていなかったためもあって、気温が上昇する夏場にオーバーヒートに起因する車両故障が頻発し、予備車が製造されていなかったため、一時は制御信号が共通で走行性能も同一のキハ91形を編成に組み込んで急場をしのぐことさえ行われる有様[22]であった。
キハ80系と比較して最高速度・加速・勾配での均衡速度を向上させ[23]、奥羽本線の特急「つばさ」など耐寒・耐雪装備を持たないために運用が困難な北海道を除く日本各地の山岳線区を中心に投入されたが、未成熟な新しいメカニズムを採用していたにもかかわらず、高効率ダイヤの下で酷使を重ねた結果、故障が多発した[24]。特に「つばさ」運用[25]においては、当初は速度種別の査定通り板谷峠での単独登坂運行を行っていたが、屋根上の自然放熱式冷却器が長時間にわたる高速運転による過熱状態[26]で、しかも通風量が不足し冷却能力が著しく低下する奥羽本線の勾配区間に入ってなお、機関の定格出力運転が実施された結果、排気管の過熱発火→焼損等といった冷却力不足に起因する故障が頻発し、一時は故障車続出で定時運行はおろか列車運行の維持そのものが危ぶまれる状況に追い込まれた。このため運用の見直しが実施され、過熱による排気管や機関のトラブルの原因となっていた変速6ノッチの取扱について連続最大5分の使用可能時間制限が設けられ、加えてキハ80系時代と同様にEF71形の補機に牽引されて板谷峠を登るように改められた[27]。
中央西線・奥羽本線など本系列が投入された山岳線区での電化の進展後は、山陰本線系統および四国島内での運用が中心となった。1976年の時点では山陰本線系統では「やくも」「おき」、四国島内では「しおかぜ」「南風」の4系統の列車に使用され、「やくも」は食堂車キサシ180形を含む基本8両+付属3両の11両編成で、気動車唯一のエル特急に相応しい設備と輸送力を備えていた。
しかし、1982年には伯備線電化に伴う381系電車化により「やくも」からは撤退、食堂車キサシ180形は経年が浅かったことなどから米子で長期間留置されていたが、後にそのまま廃車となり形式消滅となった。残る「やくも」用車両は陳腐化の進行しつつあったキハ80系で運用されていた「あさしお」「はまかぜ」[28]「まつかぜ」[29]を置換えたが、1986年には福知山線・山陰本線城崎電化完成に伴う特急の運転系統分割で「まつかぜ」が廃止となった。
国鉄分割民営化に伴い、本系列は西日本旅客鉄道(JR西日本)および四国旅客鉄道(JR四国)に承継された。
四国における変遷
1972年3月の山陽新幹線岡山開業で四国に初めて特急「しおかぜ」3往復、「南風」1往復が設定された。これにあわせてキハ181系の最終新製車26両が高松運転所に配置された。
1975年3月には「しなの」の全面電車化による余剰車8両が転入し、キロ180-1がキロ180-151に改造されて「南風」2往復が増発された。同年11月、「つばさ」電車化に伴う余剰車8両が転入し、キロ180-7がキロ180-152に改造されて1977年に「しおかぜ」1往復が増発された。
1986年には、後に改造グリーン車になる車掌室付キハ180形2両が転入、配置車両は44両となった。同年11月のダイヤ改正でキハ185系がデビューし、「しおかぜ」が大増発された。予讃本線多度津以西の速度向上により高松 - 松山間の最高運転速度は95km/hとなった。またキハ181系の編成は7両、6両から5両に短縮された。キハ180形からの改造でキハ181-102・103、キロ180-201・202が登場した。
1987年3月のダイヤ改正で高松 - 松山間の最高運転速度は110km/hとなり、所要時間が最速で2時間40分台から2時間30分台に短縮された。キハ180形から改造されたキハ181-104・105が登場し、キロハ180形やアコモ改良車も翌年にかけて順次登場していった。
1988年4月には本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業し、「しおかぜ」、「南風」は岡山発着となり、島内運行の列車は「いしづち」、「しまんと」となった。この瀬戸大橋線開業で「しおかぜ」と「南風」の需要は激増したため編成の増結が実施され、車両の不足分については1990年までの繁忙期にはJR西日本からキハ180形を最大3両借り受けて対応した。
1989年3月、瀬戸大橋上の一部区間で減速運転[30]が開始される一方で、瀬戸大橋線児島 - 宇多津間と土讃線多度津 - 阿波池田間の最高運転速度が120km/hとなった。また、同時期に2000系「TSE」が営業運転を開始した。同年7月に土讃線阿波池田 - 高知間の最高運転速度が120km/hとなり、「南風」の所要時間が約10分短縮された。
1990年11月、「宇和海」、「あしずり」を新設し「南風」の運用がなくなる。2000系量産車が落成し、予讃線高松 - 宇和島間の最高運転速度は120km/h(一部は110km/h)、土讃線高知 - 窪川間の最高運転速度は110km/h(一部は120km/h)となった。またこの頃から繁忙期に「しおかぜ」、「いしづち」で8両編成中4両(1両目と6~8両目)がキハ181形、2両がキロハ180形(2・3両目か3・4両目)という編成が見られるようになる。
1991年11月、2000系の増備で余剰となったキハ180形2両が廃車された。キハ181系が使用される「しまんと」、「あしずり」は時刻表上では3両編成になっていたが、全ての運用でキハ180形1両の増結が実施されたため、実際には3両で運転されたことはなかった。
1993年3月、予讃線高松 - 松山 - 伊予市間の電化完成で定期運用がなくなり、普通車のみの5両編成2本、計10両を残して廃車となった。同年10月21日から11月9日にかけて香川・徳島両県で開催された東四国国体秋季大会開催時期に臨時運用で、高徳線高松 - 徳島間「うずしお」の定期列車2往復が7両もしくは5両で運転された。この臨時運用で運転された「うずしお」がJR四国所有のキハ181系の特急列車としての最終運行であった[31]。同年11月14日、団体列車「どんぐり号」に使用され、これがJR四国所属のキハ181系によるラストランとなった。これらの車両も国体終了後の1993年内に全車廃車となったが、その後トップナンバーであるキハ181-1とキハ180-1が「しなの」ゆかりの東海旅客鉄道(JR東海)に引取られ、このうちキハ181-1は佐久間レールパークに静態保存され、キハ180-1は美濃太田車両区にて保存されている。
JR西日本所属車両の変遷
1994年以降は、本系列はJR西日本のみに在籍している。
1994年から智頭急行線経由で新設された特急「はくと」に投入されたが、1997年11月29日のダイヤ改正でHOT7000系気動車の増備により特急「はくと」の定期運用から撤退したため、捻出した車両のうち3両編成3本9両(キハ181-12・17・20・22・24・47 キハ180-31・41・42)が鳥取鉄道部西鳥取車両支部に転属し、同時に新設された智頭急行線経由の特急「いなば」3往復に充当した。
また、山陰本線園部 - 福知山間電化により特急ネットワークが再編されて1996年に「あさしお」が廃止となり、急速に定期運用が減少していった。1996年からは鳥取 - 米子間の「いなば」に投入され、翌1997年からは岡山 - 鳥取間の「いなば」になった。
2001年7月7日のダイヤ改正でキハ187系気動車の増備により特急「おき」・「くにびき」の定期運用から撤退し、「いそかぜ」の運転区間が短縮されたため、後藤総合車両所所属の車両のうち、引き続き特急「いそかぜ」で運用するのに必要な3両編成2本6両(キハ181-8・28・31・32 キハ180-10・17)が下関地域鉄道部下関車両管理室に転属し、それ以外の車両が廃車となった。なお、これに伴ってキハ181系を利用したリバイバルトレインも多く企画されることになった。また、下関の車両は広島~下関間の臨時快速列車「下関ふくフク号」、「関門・MUSASHI号」にそれぞれ専用ラッピングを施し使用された。
2002年春より姫路方面から伊勢市・鳥羽方面への修学旅行列車がキハ58系より京都総合運転所所属のキハ181系6両に変更されている。また、この年にキハ181系を使用した初のリバイバル企画として「リバイバルやくも」が運行された。これに続いて同年6月にはJR四国で初のリバイバルトレイン「南風」(高松 - 高知間)、「しおかぜ」(高松 - 松山間)に使用され、さらに11月には「うずしお」(高松 - 徳島間)、「いしづち」(徳島 - 阿波池田 - 多度津 - 松山間)、「しおかぜ」(松山 - 高松間・高松 - 宇和島間)、「I LOVE しまんと」(宇和島 - 高知間)、「南風」(高知 - 高松間下り1本・上り2本)がキハ181系で運行され四国一周運行した。
2003年10月1日のダイヤ改正でキハ187系気動車の増備により特急「いなば」の定期運用から撤退したため、鳥取鉄道部西鳥取車両支部所属の3両編成3本9両のうち5両(キハ181-12・22・47 キハ180-41・42)が京都総合運転所に転属し、残り4両(キハ181-17・20・24、キハ180-31)が廃車となった。
2005年3月1日のダイヤ改正で特急「いそかぜ」が廃止となったため、下関地域鉄道部下関車両管理室所属の3両編成2本6両が予備車となり、のちに全て廃車となった。
定期運用は特急「はまかぜ」のみとなり、京都総合運転所所属のキハ58系の全廃に伴い、団体臨時列車等にも充当されている。このため、前述した関西方面から伊勢方面の修学旅行臨で参宮線にも入線するなど、すでに両数的には系列として消滅寸前の状況であるが、運用範囲は今なお広がり続けている。
2007年現在は、京都総合運転所に26両が在籍するのみとなっている。これら残存車両はいわゆる国鉄特急色ではなく、全車JR西日本のオリジナルカラーに変更されている。
「リバイバルやくも」 |
脚注
- ^ 系列を持つ国鉄初の新系列気動車として3桁表示の付番となり、新性能電車同様にハイフンが与えられた。系列名は「181系」である。ただ、慣例的なものや、181系電車との混同を防ぐため、一般には「キハ181系」と呼ばれることが多い。
- ^ シリンダ径180mm、行程200mm。
- ^ シリンダ径130mm、行程160mm。
- ^ 対向シリンダのクランク軸とコネクティングロッドの組み付け状態から、厳密にはいわゆるボクサーではなくバンク角180°のV型となる。
- ^ 冷凍能力4,000 - 5,000kcal/h。
- ^ 冷凍能力5,500kcal/h。
- ^ 水平対向12気筒 予燃焼室式水冷4ストロークディーゼルエンジン ターボチャージャー付 連続定格500PS/1,600rpm、最大出力590PS/2,000rpm。
- ^ 予燃焼室式機関の問題点についてはDML30系エンジンを参照のこと。
- ^ 横置直列6気筒 予燃焼室式水冷4ストロークディーゼルエンジンターボチャージャー付230PS/1,500rpm。ただし、量産先行車(キハ181-1~4)はターボなしのDMF15H-G 180PS/1,500rpmで、その分発電能力が低下する。
- ^ 発電用エンジン出力の相違から、キハ181形量産先行車では1セットで4両分の給電能力となる、
- ^ ただし、キサシ180形は電子レンジなどの厨房機器の関係で、それぞれ2両分の電力を消費する。
- ^ DW4Cは爪クラッチ、DW4Eは湿式多板クラッチで、DML30HSC搭載車はDW4C搭載で竣工したが、途中で改良や検査時の部材プールの関係でDW4D・Eへ改修・交換されている。
- ^ このため冷房搭載の試験車となったキハ91 8を除くキハ91形量産試作車では、屋根上放熱フィンの間に送風ファンを追加して速度による通風量変動を一定の範囲に収めるという、その採用理由と相矛盾する対策が採られた。これに対し、本系列ではキハ91 8と同様ここに発熱の大きな冷房装置が搭載されたため、冷房装置からの排熱がラジエーターに吹き付けることになり、夏場の冷却状況は悪化していた。
- ^ この問題は機関出力の減少を嫌って同じく自然通風式冷却器を搭載した、キハ40000形でもやはり勾配線区での走行時に発生して問題となったことが知られている。本系列の開発が進められていた当時、同形式の設計開発に携わりその失敗の経緯を良く知っていた北畠顕正が、国鉄の車両全般について責任を負う車両担当副技師長であったことを考えれば、わずか5 - 10馬力程度の機関出力損失を忌避してそのメリットを遙かに上回る損害をもたらした、このシステムの採用決定プロセスには疑問が残る。
- ^ もっとも、名目上は「補助」冷却器であるが、実際にはこの強制通風式冷却器のみを常時使用し、機関の冷却水温が70℃を超過する場合に限って屋根上ラジエーターを併用するように設計変更されており、名目はともかく実態は主従関係が完全に逆転している。
- ^ 2次車からはディスクブレーキ付きのDT40・TR219への改良が実施された。
- ^ 駆動システムを搭載しないキサシ180形を含む。
- ^ 181系電車をはじめ、1950年代後半から1960年代にかけて国鉄が設計した特急形車両では、連日の高速運転による酷使もあって、軽量化が過ぎた台車枠の強度不足による変形や亀裂の発生で台車交換となった例が多い。だが、それらの大半は板材の増厚などで対処されており、本系列のように軸箱支持機構の変更による全面的な設計変更を伴い、かつ無条件に全車に対して施工されたものは他にない。このことから本系列が採用した平行リンク・ウィングばね複合式支持機構に何らかの問題があったことが見て取れる。
- ^ モケットの色はキハ185系のものと同じだが、肘掛側面がモケット張りである、灰皿が肘掛上面にある、テーブルに丸い穴があるなどの相違点があった。
- ^ 急行「しなの」を格上げ。
- ^ 新製配置の際に120km/hでの性能試験が実施されているが、初期故障対応や地上設備の問題などから最高95km/hのまま営業運転が開始されている。なお、本系列の120km/hでの営業運転は1970年秋のダイヤ改正にともなう特急「つばさ」での東北本線上での運用が最初である。
- ^ 量産先行試作車は7両編成2本分のみ製造された。ただしこれはシステムが共通で車両数に余裕が持たせてあったキハ90系を予備車として、あるいは編成単位での同一ダイヤによる代走に起用可能であることを念頭に置いて計画されたものと考えられる。
- ^ 速度種別は全動力車でA32、動力車11両+キサシでA31、動力車8両+キサシでA27と設定されており、最高速度がキハ80系の100km/hから120km/hへと向上している。これらの速度種別は485系電車を概ね凌ぐ数字であった。また、後年の出力是正後もA28(全動力車)が指定されており、気動車ならではの起動加速度と当時の電車並かそれ以上の高速走行性能を備えていた。もっとも、速度種別そのものは電車を凌駕したが、特に中~高速域での加速性能は電車のそれに及ばず、自重過大もあって実質的な走行性能は同時期の電車を必ずしも上回るものではなかった。そもそも、停車駅数の少ない優等列車では、起動加速度の高さはほとんど寄与せず、むしろ速度制限区間通過後の再加速などで多用される中速域での加速性能の低さの方がダイヤ編成上制約となったのである。また、速度種別設定の上限ぎりぎりでのダイヤ設定は機関および冷却系に多大な負担をかけ、初期故障が収まった後もトラブルが完全には解決しなかった。
- ^ こういったトラブルは、電車・機関車等でも当時の国鉄においては日常的に発生していた。ことさら本系列の不具合が目立つのは、新システムであったことと故障時に代走できる車両がキハ90系以外に存在しなかったこと、それにキハ90系で長期実用試験のデータが揃わない時点で見切り発車的に本格設計を開始し、同系列の設計が内包していた機関・変速機・冷却系に関する根本的な問題点が最終的に正されないままに量産が強行されたためである。
- ^ 上野から福島まで最高120km/hでの高速走行を実施した直後に最大33パーミルの板谷峠を擁する連続急勾配区間に入るという、極めて過酷な使用条件であった。
- ^ しかも、故障車のエンジンカットも頻繁に実施されており(このことから本系列の平坦線での高速運転性能には、ある程度の余裕があったことが見て取れる)、実質的な負担が規定以上という状態が恒常化していた。また、福島以北の区間での遅れを取り戻すための回復運転も実施されており、機関出力が製造上のばらつきで規定値以上を発揮していたことも手伝って、実際には120km/h以上で運転されていたとの証言(本系列の速度計は120km/h上限となっており、それが振り切れていたという)もあり、東北本線上での機関の酷使は著しいものであったという。
- ^ この形態での運用は1975年の奥羽本線電化完成に伴う485系電車への全面置き換えまで継続されている。
- ^ この「はまかぜ」はキハ80系時代の運用を踏襲して新大阪始発であったため、新大阪 - 姫路間の東海道・山陽本線上を後発の新快速電車に追われながら最高120km/hで走破する、本系列としては久々の高速運用となった。
- ^ 当初1往復、1985年に全列車キハ181系化を実施。
- ^ 瀬戸大橋線開通当初から騒音問題があったが、特に人家が近い下津井瀬戸大橋直下の地区での騒音問題は深刻になり、1988年中に本系列より車重が軽いキハ185系が瀬戸大橋線を多く通る運用に変更されたが、騒音自体は両系列ともほとんど変わりなかったため、対策として瀬戸大橋上の減速区間では65km/hに制限された。
- ^ これにより当時運転されていたJR四国の特急列車すべてについて運用実績が残される結果となった。
外部リンク
関連項目
- 日本国有鉄道(鉄道省)の気動車 ■Template ■ノート