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靖国神社問題 - Wikipedia

靖国神社問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

靖国神社
靖国神社

靖国神社問題(やすくにじんじゃもんだい)は、靖国神社をめぐってしばしば議論の対象となる各種の問題を指す。日本のマスメディアでは「靖国問題」と略称することが多い。

目次

[編集] 概要

靖国神社(の前身東京招魂社)は、明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために明治2年に創建された。後に、1853年(嘉永6年)の米国海将ペリーの浦賀来航からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10)の西南戦争後は、日本国を守護するために斃れた戦歿者を慰霊追悼・顕彰するための、中心的施設及びシンボルとなっている。

「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見があり、議論が起きている。終戦記念日である8月15日の参拝は日中戦争大東亜戦争太平洋戦争)の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。

特に、首相の参拝については大日本帝国時代に日本軍によって被害を蒙りあるいは植民地となっていた国、中華人民共和国大韓民国朝鮮民主主義人民共和国の3カ国が激しく反発しており、外交上の問題にもなっている。また、当時日本領であった台湾(中華民国)からも徴兵による戦死者が多数でており、一部で批判がある。(台湾人日本兵高砂義勇隊の項を参照)。

一般に保守系言論人は中韓以外には靖国参拝への反発はないとしている。だが、華僑出身のいわゆる中国系のシンガポール首相が不快感を表明した。アメリカ合衆国の在郷軍人会のなかにも批判があるといわれている。

[編集] 論点

具体的な論点としては以下の三つに大きくまとめることができるだろう。

  1. 政教分離に関する問題
    靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとすること、政府・地方自治体が公費支出によって玉串奉納すること、次いで内閣総理大臣国会議員都道府県知事など公職にある者が公的もしくは私的に靖国神社に参拝することに関して、日本国憲法第20条が定める政教分離原則に照らし違憲であるとする問題。
  2. 歴史認識・植民地支配に関する問題
    1と同じく、公職者の参拝に端を発して議論されることが多いが、靖国神社に参拝することが戦死者を英霊としてあがめることで戦争自体を肯定的にとらえる神社の歴史観(神社付属の博物館「遊就館」の展示内容と説明も含む)を認め、これによって日本軍が戦場とし、あるいは台湾・朝鮮半島等戦争当時の植民地として支配していた諸国民に不快感を与え外交的な摩擦も生んでいることに関する問題で、植民地から徴兵され戦死した人々の合祀への遺族の異議も含まれる。また、極東国際軍事裁判戦争犯罪人として裁かれた人々の合祀を認めるか否かを中心とする国内外の戦争責任認識の問題。
  3. 戦死者・戦没者慰霊の問題
    アジア太平洋戦争における日本軍の軍人・軍属の戦死者(戦病死者戦傷死者を含む)を慰霊する国家レベルの施設が無く、戦前から引継がれる神道形式によって祭る靖国神社が実態として担っている問題。また、クリスチャン等宗教的に相容れない遺族からの合祀拒否の問題もある。さらに、広く戦没者を国全体で慰霊する施設が無いことも問題となっている。

[編集] 政教分離

靖国神社は日本陸軍省・海軍省が共管する、戦争遂行の精神的支柱の一つとした国家神道最重要の拠点であったため、終戦後直ちに廃絶の議論が起きた。このことについては日本を打ち破り占領した連合国でもかねてから施設自体の棄却も視野に入れて問題視されていたが、GHQは安定的に占領を続けるために必要との判断から1945年10月に存続を決定。同年12月15日に神道指令を発して国家神道を廃止し靖国神社の国家護持を禁じたことで、神社自体の存立に関わる政教分離が成立した。また、1946年に制定された宗教法人法に基づき、靖国神社は同年9月に宗教法人となったことで自ら国家護持体制からの離脱を明確にした。

1947年に施行された日本国憲法では第20条において信教の自由を保障し、政教分離原則を掲げている。

日本国憲法第20条
  1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
  2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

1951年のサンフランシスコ平和条約締結・翌1952年の発効によって連合国占領が終わって日本は独立し、連合国占領期間中は実質的に封印された状態となっていた靖国神社に冠する議論は憲法の合憲・違憲を巡る問題へと移行し、主に第1項および第3項に基づいた問題点が賛否両面から指摘されていくこととなる。(なお、占領下の1949年に出された国公立小中学校の靖国神社訪問などを禁じた文部事務次官通達について、2008年3月27日の参議院文教科学委員会で渡海紀三朗文部科学相は同通達が「既に失効している」と明言し、今後第2項を巡る問題が発生する可能性がでてきている。)

靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとする靖国神社法案が1969年に議員立法案として自由民主党から提出されたことで議論が神社の政教分離に関する議論が再燃した。以降毎年の法案提出と廃案を繰り返した後、1973年に提出された法案が審議凍結などを経て1974年に衆議院で可決されたものの参議院で審議未了の廃案となり、これを最後とする自由民主党による法案上程が止むまで靖国神社法案が靖国神社問題における政教分離の課題で最大のものとなった。

詳細は靖国神社法案を参照

この後、政府・地方自治体による靖国神社への公費支出を伴う玉串奉納と、首相をはじめとする政府閣僚や地方自治体首長らの参拝が日本国憲法による政教分離原則に抵触するか否かへと議論の焦点が移っていく。

[編集] 信教の自由

政治家は国の機関であり、参拝は同条3項の国の機関による宗教的活動に該当すると主張、政治家が靖国神社に参拝することは憲法違反であるという説を採る。また、政治家が参拝することが、間接的な靖国神社への特権となるという説を採る考え方がある。 しかし一部の人々は、「何人に対しても」これを保障するとされているため、政治家であっても宗教および思想について制限を加えることができないとする考え方がある。

[編集] 宗教性

日本では、宗教性の有無に関して「参拝は宗教的行為ではなく、習俗的行為であるから政教分離原則には抵触しない」とする説と、「参拝は宗教的行為であるから問題である」とする説が対立している。首相の公式参拝について、神道形式に則った参拝が「憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」という認識は1980年(昭和55年)の政府見解でも確認されたが、後の1985年(昭和60年)中曽根康弘内閣当時に発足した「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」は「宗教色を薄めた独自の参拝形式をとる事により公式参拝は可能」と判断、その方法であれば「首相の参拝は宗教的意義を持たないと解釈できる」とし、「憲法が禁止する宗教的活動に該当しない」と政府見解が出された[1]。首相の参拝行為の宗教性について幾つかの裁判で争われているが、各裁判の判決は参拝の際に玉串料などを公費で支出したことについてのみに合憲・違憲の判断をしており、このことに関して裁判による明快な判断は未だなされていない。

[編集] 公人における公私の区別

公人においても公私を区別するべきだという論点がある。これは第66代総理であった三木武夫1975年8月15日、総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った以降、特に論じられるようになったものである。靖国神社に対して玉串料などを公費で支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による1985年の参拝が訴訟の対象となり(後述)、1992年の2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされており、これ以降の議論は「私人」としての参拝が許容されるものであるかどうかを巡っての解釈の問題となっている。

「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。これは、公人であっても人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。「米国のように政教分離をうたっていながら、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つにあげられている。

一方、「公用車を用い、側近・護衛官を従え、閣僚が連れ立って参拝し、職業欄に『内閣総理大臣』などと記帳するという行為は公人としてのそれであり、政教分離原則に抵触する」という意見がある。こちらは、実効的な観点を重く取り上げ、「首相が在職中に行う行為は私的であっても、多少の差はあれ、全て政治的実効性を持つため、私的参拝であっても靖国神社に実質的に利益を与えるものだ」として問題があるとしている。

第87~89代総理・小泉純一郎は、2001(平成13)年8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心をこめて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。

[編集] 利益均衡

靖国神社問題の裁判における判決などに見られる、明確な判断のつけやすい利益均衡の考えから靖国神社問題を判断しようという考えもある。利益均衡の考えとは、参拝行為が誰にどれだけ利益や不利益を齎し、それが政教分離の観点から許容できるか否かを、程度を判断した上で計量的に示そうとするものである。

参拝によって政府が、特定の宗教を差別的に優遇しているか否について、もし優遇しているとすれば、それは他宗教の信者や、その宗教を信じていない者を差別していることになり、その判断としては、参拝によってその宗教が利益を得るか、という基準が挙げられる。

例えば、首相や大臣が参拝する事によって、その宗教の好ましい社会的認知が広がり、布教に有利という見方ができる。この見方によれば、首相や大臣の参拝行為は靖国神社や伊勢神宮という個別の宗教法人にとって信者獲得の利益に繋がり、もし参拝が無かったら他の宗教団体へ入信したかもしれない人々を誘導した可能性を上げ、これは差別的優遇に該当すると解釈できるとする一部の意見もある。実際に、小泉純一郎首相による靖国神社への参拝が始まって以降、参拝客が急増している。この現象については、靖国神社問題に関するマスコミ報道が大きく影響しているとの意見もある[2]

また、特定の宗教施設において、すべての戦没者を慰霊する事自体が、信教の自由に対する侵害であるとする意見もある。

更に宗教的問題から離れて純粋に利益均衡で見ると、小泉純一郎首相による靖国神社への参拝によって、過去に日本の侵略を受けた中国韓国との関係が悪化しており、経済や対北朝鮮政策(特に拉致問題)において少なからず損失を招いているという問題もある。とりわけ、中国がA級戦犯合祀を問題としていることが、利益均衡論議の焦点となっている。

[編集] 首相公式参拝・玉串料公費支出の訴訟

この問題を取り上げた主要な訴訟をあげる。

玉串料公費支出については、岩手県靖国神社訴訟における1991年の仙台高裁の判決理由傍論として示した違憲言及の後、愛媛県靖国神社玉串訴訟にける1997年の最高裁判決で違憲が確定した。

中曽根康弘の首相公式参拝には違憲判決がなされた。一方、小泉純一郎の首相参拝には合憲判決がなされている。ただし、傍論として違憲言及をされた合憲判決がある。

[編集] 岩手県の首相公式参拝要請陳情、玉串料訴訟

詳細は岩手県靖国神社訴訟を参照

1979年12月19日、岩手県議会が国に靖国神社公式参拝を実現するよう意見書を採択し、政府に陳情書を届けたことと、1962年から靖国神社の要請で玉串料や献灯料を支出していたことは、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが求めた訴訟である。

盛岡地裁は1987年3月5日、いずれも合憲の判断を示し、住民らの訴えを全面的に退けた。住民側の控訴に対して仙台高裁は1991年1月10日、判決主文によって被告の岩手県への公費返還請求を棄却したもの、傍論として公式参拝・玉ぐし料公費支出は違憲であるという判断を示した[3]。傍論とはいえ政教分離原則で違憲であるという判断がされたのはこの判決が始めてである。

傍論とはいえ「違憲判断」が示されたのは不利益で、最高裁で判断をあおぐ必要があると県は主張、上告したが仙台高裁は不適法として却下、県は高裁の決定を不服として特別抗告したが、最高裁第2小法廷は「抗告の理由がない」として抗告の却下決定を行った[3]

[編集] 愛媛県の玉串料訴訟

詳細は愛媛県靖国神社玉串訴訟を参照

愛媛県靖国神社玉串訴訟(えひめけんやすくにじんじゃたまぐしそしょう)とは愛媛県知事が靖国神社に対し玉串料を「戦没者の遺族の援護行政ために」毎年支出した事に対し、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが求めた訴訟である。

1審の松山地裁は違憲判断、2審の高松高裁は「公金支出は社会的儀礼の範囲に収まる小額であり、遺族援護行政の一環であり宗教的活動に当たらない」として合憲判断を示した。最高裁は政教分離原則のひとつとなった目的効果基準が違憲判決を出した訴訟である。

[編集] 中曽根首相公式参拝訴訟

中曽根康弘が首相在任中の1985年8月15日に公式参拝したことに対する訴訟。中曽根康弘は首相在任中に10回にわたり参拝しているが、1985年8月14日に、正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しないとこれまでの政府統一見解を変更したこと[1]を受けて、1985年の参拝で閣僚を引き連れて玉串料を公費から支出する首相公式参拝に踏み切ったため、とりわけて問題とされた。(これをきっかけに、信仰上の相違と靖国神社法案に反対する立場から日本遺族会に属していない、あるいは脱会していた遺族が「平和遺族会全国連絡会」を結成するにいたった[4]。)

九州靖国神社公式参拝違憲訴訟における1992年2月28日福岡高裁判決では、公式参拝の継続が靖国神社への援助、助長、促進となり違憲と判示[5]。関西靖国公式参拝訴訟における1992年7月30日大阪高裁判決では、公式参拝は一般人に与える効果、影響、社会通念から考えると宗教的活動に該当し、違憲の疑いありと判示[6]。いずれも確定判決となり、玉串料を公費から支出する首相公式参拝は憲法の政教分離原則に反する違憲が確定した。

中曽根は1985年8月15日を最後に首相在任中の参拝を止めたが、これは訴訟を理由とするものではなく、翌1986年の終戦記念日前日の8月14日の官房長官談話によれば、公式参拝が日本による戦争の惨禍を蒙った近隣諸国民の日本に対する不信を招くためとしている[7]。中曽根は後に、自身の靖国参拝により中国共産党内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出そうだという示唆があり、「胡耀邦さんと私とは非常に仲が良かった。」「それで胡耀邦さんを守らなければいけないと思った。」と述べている[8][9]

[編集] 小泉首相参拝訴訟

小泉純一郎が首相在任中に参拝したことに対する訴訟。

2004年4月7日
合憲判決(傍論として違憲言及)福岡地方裁判所で合憲判決がなされるとともに、傍論として違憲言及がなされた。主文に於いては原告の損害賠償請求を棄却した。一方、裁判長の亀川清長は小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)について、政教分離違反で違憲と言う見解を示した。総理大臣の公式参拝を違憲としたのは、1991年の仙台高裁判決に次いで二例目で、現職の総理大臣による参拝を違憲と判断した初の例となった。亀川裁判長は憲法判断に踏みこんだ理由として、「裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高いというべきであリ、当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え、前記のとおり(違憲と)判示する」とした。小泉首相は少なくとも16回、記者団の前で「違憲の意味がわからない。参拝は続ける」旨、繰り返し表明した[10]
2004年10月21日
前述の福岡地裁判決において、主文に於いて原告の損害賠償請求を棄却した一方で、傍論で「参拝は違憲である」とする「ねじれ判決」を出したことに対し、国民運動団体「英霊にこたえる会」(会長:堀江正夫元参院議員)が国会の裁判官訴追委員会に裁判を担当した亀川清長裁判長ら3裁判官の罷免を求める訴追請求状6036通を提出した。請求状によれば、訴追理由について、「判決は(形式上勝訴で控訴が封じられ)被告の憲法第32条『裁判を受ける権利』を奪うもので憲法違反」「政治的目的で判決を書くことは越権行為。司法の中立性、独立を危うくした」としている。(参照:弾劾裁判
2004年11月25日
合憲判決)千葉地方裁判所(裁判長:安藤裕子)は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)について、参拝は公務と認定した上で、原告の慰謝料請求を棄却した。その理由として、安藤裁判長は、公用車を使用したり、内閣総理大臣の肩書きを用いたりしているため、参拝は客観的に見て職務であると認定し、その上で公務員個人には国家賠償法における責任はないとした。また、「信教の自由や、静かな宗教的な環境で信仰生活を送るという宗教的人格権を侵害された」として慰謝料の支払いを求めた原告側に対し、判決は「信仰の具体的な強制、干渉や不利益な扱いを受けた事実はなく、信教の自由の侵害はない。宗教的人格権は法的に具体的に保護されたものではない」として退けた。
2005年9月29日
合憲判決)「靖国訴訟」東京高裁(浜野惺(しずか)裁判長)は1審の千葉地裁判決を支持、原告側控訴を棄却。
小泉首相は、2001年8月13日、秘書官同行の上公用車で同神社を訪れ「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳、献花代3万円を納め参拝した。これに対し、千葉県内の戦没者遺族や宗教家ら39人からなる訴訟原告は、この参拝は総理大臣の職務行為として行なわれており、政教分離を定めた憲法に違反すると主張。小泉首相と国に1人当たり10万円の損害賠償を求めていた。
判決要旨:1審判決は、首相の参拝を「職務行為」と認定したが、今回の2審判決では、参拝は小泉首相の「個人的な行為」と認定。また、参拝は職務行為ではないため、原告側主張は前提を欠くとして合憲判断を示した。
  1. 神社本殿での拝礼は、個人的信条に基づく宗教上の行為、私的行為として首相個人が憲法20条1項で保障される信教の自由の範囲。故に礼拝行為が内閣総理大臣の職務行為とは言えない。
  2. 献花代は私費負担。献花一対を本殿に供えた行為は、私的宗教行為ないし個人の儀礼上の行為。いずれも個人の行為の域を出ず、首相の職務行為とは認められない。
  3. 「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳した行為は、個人の肩書を付したに過ぎない。
  4. 神社参拝の往復に公用車を用い、秘書官とSPを同行させた点。総理大臣の地位にある者が、公務完了前に私的行為を行う場合に必要な措置。これをもって一連の参拝行為を職務行為と評価することは困難。
  5. 閣議決定(1982年4月17日)により、毎年8月15日が「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされ、2001年8月15日も全国戦没者追悼式が実施。しかし参拝は13日であり、政府追悼式と一体性を有さない。
※控訴棄却後の首相談話:「私は総理大臣の職務として参拝しているものではないと申しているわけですから。どういう判決かまだ見てないですけど」
2005年9月29日付け 東奥日報掲載「靖国訴訟判決要旨」(共同通信配信)に加筆修正。
2005年9月30日
合憲判決(傍論として違憲言及))(1)参拝は、首相就任前の公約の実行で、(2)参拝を私的なものと明言せず、公的立場での参拝を否定もせず、(3)発言などから参拝の動機、目的は政治的なもの――と指摘したうえで「総理大臣の職務としてなされたもの」と認定。「国が靖国神社を特別に支援し、他の宗教団体と異なるとの印象を与え、特定の宗教に対する助長、促進になると認められる」と違憲であることを言及した。高裁で初めて違憲の言及がなされた。ただし、この違憲言及はあくまで傍論によるものである。裁判自体は賠償の請求を退け国側の勝訴となった。
小泉総理は、この判決について同日の衆議院予算会議で「私の靖国参拝が憲法違反だとは思っていない。首相の職務として参拝しているのではない。それがどうして憲法違反なのか、理解に苦しむ」とし、「(今後の参拝に与える影響は、)ま、ないですね、(判決自体は)勝訴でしょ」と述べた。10月1日付産経新聞社説など、ねじれ裁判と批判する声も出た。
大沢孝征弁護士は、TBSテレビ『みのもんたのサタデーずばッと』(2005年10月1日放送)出演中、この判決について以下のようなコメントをした。
「まったく同じ行為をですね、東京高裁は私的行為だといってんですよ、職務行為では無くまったくの私的行為だと。だから憲法判断しないということで、原告の請求を棄却している。今回の場合は、大阪高裁はその翌日なんですけれども、これは職務行為で、憲法違反に当たると、しかし信教の自由を侵害していないから賠償は認めないと、こういう判断をしているわけですね。と、どうなるかと言うと、国側は勝訴したわけです。だから(国側は)上告できない。となると、原告側が、(今回の判決は)憲法判断していないからと、上告しない限り(原告側が上告しなければ)、最高裁に行く事は無いんですよ。つまり(大阪)高裁の判決は確定してしまう。そうするとね、ちょっとやや、違和感があるのはね、本来ストレートに判断すべきなのは、信教の自由を犯したかどうかという憲法判断すれば、請求は棄却されちゃって、それで済んじゃう訳でしょ。でも、その前の職務行為を憲法違反と言った以上は、もう1つの方(職務行為を憲法違反とした判断)もね、賠償を認めないとね、それを正面から認めて、最高裁の判断を仰げば良いと、僕は思うんです。そうしないで、そっちの方は認めないという事になると、(大阪高裁の判事が)自分の判断だけを確定させようとしたのかなって、言うような余計な勘繰りを与えて、本来司法っていうのは、政治的判断は好ましくない場所なんで、それをしたのではないかという批判を(今回の大阪高裁の判決は)招きかねないんですよ。だから高裁の判断として、あそこを憲法違反と言った以上は、最後まで憲法違反で、賠償を認めるべきだったんではないか。そうしたらもう、東京高裁(の判決と)とまさにストレートにあたりますから。」(括弧内の言葉を加筆)

[編集] 天皇の参拝

昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度(1945年、1952年、1954年、1957年、1959年、1965年、1969年、1975年)靖国神社に参拝したが、1975年11月21日を最後に参拝が行われなくなった。この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたから等の意見があったものの具体的な物証は見つかっていなかったが、宮内庁長官であった富田朝彦による富田メモに、これに符合する記述が発見された。

ちなみに昭和天皇の子・孫を含む天皇家全体もA級戦犯の合祀以降の参拝を止めており、平成の今上天皇になっても参拝中止は続いている。なお、天皇家以外の宮家皇族の参拝は現在でもある。

[編集] 推測される原因1:A級戦犯合祀

詳細はA級戦犯合祀問題を参照

1988年当時の宮内庁長官であった富田朝彦が昭和天皇の発言・会話を手帳にメモしていた[11]。この富田メモは、富田朝彦の遺族が保管していた手帳に貼り付けたものである。昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことが明確に記されている。そのメモの記述の該当部分を以下に示す。

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ

日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は、富田メモを調査の上、「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。

[編集] 推測される原因2:三木首相の「私人」発言

戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していたが、1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相(当時)は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言。同年を最後に、それまで隔年で行なわれていた天皇の参拝が行なわれなくなったのは、この三木の発言が原因であると言われていた。

桜井よしこら保守論客の多くが主張していたものであるが、一方では、昭和天皇最後の参拝が三木首相参拝の3ヵ月後の同年11月であり、三木発言の後に昭和天皇が参拝したことと矛盾するため、当時から原因とはならないと指摘されていたが、富田メモの発見により等閑視されるにいたった。

[編集] 合祀の問題

#霊璽簿も参照

[編集] 日本人遺族の合祀への異議

日本人遺族の中で合祀に賛同していない者おり、靖国神社に対して霊璽簿から氏名を削除し合祀を取り消すよう求めている。

しかし、靖国神社は、いったん合祀した霊魂は一体不可分となるので特定の霊のみを廃祀することは不可能であり、分祀(分遷)しても元々の社殿から消えはしないので無意味であると主張し、これに応じていない(A級戦犯に関しても同様)。

[編集] A級戦犯合祀問題

詳細はA級戦犯合祀問題を参照

アジア・太平洋戦争後の極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)において処刑された人々(特にA級戦犯)が、1978年10月17日に国家の犠牲者『昭和殉難者』として合祀されている。「国策を誤り、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人びとに対して多大の損害と苦痛を与えた」とした1995年(平成7年)8月15日の社会党の村山富市首相談話に基づいた政府見解に反するとして問題視する意見がある。(なお、各地の軍事法廷BC級戦犯とされた者の内の刑死者も1959年に二度にわたり合祀されたが、このことについては問題視されていない。)

[編集] 旧日本植民地出身の軍人軍属の合祀

第二次大戦期に日本兵として戦った朝鮮台湾出身の元軍人軍属も多数祀られているが、中には生存者が含まれていたり、遺族の一部からは反発も出ている。

例えば、2001年6月29日、韓国や台湾の元軍人軍属の一部遺族計252名が、日本に対し戦争で受けた被害として24億円余の賠償金を求めた裁判(原告敗訴)があり、原告の内55人は「戦死した親族の靖国神社への合祀(ごうし)は自らの意思に反し、人格権の侵害である」として、合祀の取り消しを求めた。2003年2月17日には、小泉靖国参拝・高砂義勇隊合祀反対訴訟の原告団長として高金素梅・台湾立法委員が代表となり訴訟を起こした。(なお、合祀に対する台湾人内部の見解の相違については、台湾国内の微妙な政治的問題も相俟っているとの指摘もなされている。)

「親族の意に反した合祀は日本によるアジア侵略の象徴である」との批判がある一方、「英霊として日本人と分け隔てなく祀ることは日本だけでなく台湾や朝鮮の元軍人軍属への最大級の敬意の現れであり、日本の台湾や韓国における統治政策が欧州各国による東南アジア植民地政策とは一線を画していたことを示すものだ」とする意見もある。また、合祀しなかった場合、日本人は台湾・韓国人元軍人軍属を平等に扱わなかったと別の面で批判されるとの指摘もある。

[編集] 解決への模索

「日本の立場を説明し、近隣三国の理解を求める事が望ましい」という従来からの意見と、長年理解を得られずに参拝するなという要求が繰り返される事から、「そもそも内政干渉であるから日本はその立場を貫くべき」という意見があり、(後者の立場からは妥協策として)以下のように様々な解決策が模索されている。

[編集] A級戦犯の分祀

  • 分祀賛成派の意見
A級戦犯合祀問題を解消するため、A級戦犯のみを分祀するという案が挙げられることがあるが、祭神の宗教的位置づけや、靖国神社には戦没者の霊魂を取り扱う「位牌(物質的象徴)」がなく、分祀の対象(実物としての位牌)が存在しないため、そもそも分ける事ができないといった理由から、靖国神社が分祀を受け入れることはないと考えられている。[要出典]しかし、それは分祀したくないものたちが、本来A級戦犯を廃祀したうえで別に祭ればよいという意味で分祀できるとする分祀意見[12]字面だけを曲解したものでしかないうえに、遺品や遺骨は存在しないが名簿は存在しており、分祀とは「祀る対象から外す」ことであり可能だという意見もある[13]。事実過去に徳川幕府による豊国大明神廃祀など多くの神社において政治的廃祀は実行されてきた歴史的事実がある。豊臣秀吉は豊国大明神の号を与えられ日本国中の主要な神社に合祀されたが徳川幕府によって尽く廃祀されている[14]。すなわち個別廃祀は可能である。
  • 分祀反対派の意見
神道の原理原則において、祭神として一つに纏められて祀られた神は、一つの統合された抽象的な神と見なされる。遺品や遺骨が祀られているわけでもない。よって祭神の切り分けは不可能である。いわゆる分祀とは、全国に同じ名前を冠する神社があちらこちらにあるように、ある神社から勧請されて同じ神霊をお分けする事をいう。つまり元の祭神と同一のものがまた別に出来上がる。靖国神社の場合も同一であり、分祀をすればA級戦犯も混じった祭神が、同様にまた別に出来上がる事になる。
さらには、韓国政府が主張したように、A級戦犯を例え外す事が出来たとしても、それでも政治問題化が続くのであれば、それは日本の総理大臣や天皇陛下が参拝、親拝する事に対する障害であり続ける点では変わらず、問題の解決にはならない[15]。さらに言えば、そもそも靖国神社は一宗教法人であり、そこに国家が介入して祭神の分祀を迫るのは単なる宗教弾圧でしかない。

[編集] 国立慰霊施設の設置

[編集] 設置賛成派の意見

政教分離に関わる憲法問題やA級戦犯合祀問題をともに回避するため、靖国神社でなく、アメリカのアーリントン国立墓地のような、「特定の宗教に拠らない、首相をふくめ何人でもわだかまりなく追悼できる」とする無宗派の国立の追悼施設の設立が公明党などから提案されている。千鳥ケ淵戦没者墓苑は無名戦没者を追悼する施設であり、全ての戦没者を追悼する施設ではないので新たに建設すべきである。

アーリントン国立墓地は、敷地内に複数のキリスト教会が在るものの、国家によって選ばれた人物について、埋葬の際にはキリスト教に限らずどの宗教でも、あるいは無宗教でも自由に選択できる。

[編集] 設置反対派の意見

『慰霊』や『追悼』といった行為が、すでに宗教的な観念であり、無宗教の『慰霊』や『追悼』は不可能である。そのような施設としてはすでに千鳥ケ淵戦没者墓苑があり、今さら新たに建設する必要はない。また、そもそも靖国神社とは、全ての戦没者を追悼する為の施設ではなく、アーリントン国立墓地のように国の為に戦い、または殉じた者に敬意を表する為の施設である。諸外国の首脳は戦士の墓苑等に儀礼上、参拝する義務があるが、単なる戦争犠牲者の追悼施設への参拝義務は生じない。

日本の神道とは、過去に仏教との神仏習合があったように、宗派の対立を生じさせないものであり、経典を定めて縛りを掛けているわけでもない。よってあらゆる宗教、宗派の参拝を是とする為、最善の方法として選ばれた施設である。また日本古来からの伝統宗教が外来宗教よりも重視されるのは諸外国においても当然とされ、特に問題ないといえる。また靖国神社は戦前、戦中は陸海軍省から、戦後は厚生省から戦死者名簿を預かり、祭神に祀っているので一方的な選定とは言えない。

[編集] 霊璽簿

[編集] 霊璽簿の性格

靖国神社では、戦没者としていったん合祀されたものの後になって生存していることが明らかになった場合、祭神簿に「生存確認」との注釈を付けるにとどめ、霊璽簿は削除・訂正しない。この処置は、横井庄一小野田寛郎、そして韓国など海外の生存者についても同様である[16]。また、この記事によれば、「死亡していない以上、もともと合祀されておらず、魂もここには来ていない」と靖国神社は説明している。言い換えれば、とりあえず死ぬのを待ってそれから改めてお祀りする、ということでもある。そういう状態を、A級戦犯の分祀の項目で例示した「廃祀」と見なすことができるかどうか。

霊璽簿を一切変更せずただ名前を追加するのみという靖国神社の態度は、生存者だけでなく内外の遺族の削除要求に対しても一貫している。いきおい、極東アジアの軍人軍属の合祀の項目で述べたような「合祀反対者に選択の自由が与えられる」可能性は、全く無いと言える。

[編集] 霊璽簿に今後追加される可能性

朝鮮戦争#日本特別掃海隊を参照

2006年9月2日付けの各紙報道によれば、朝鮮戦争中の1950年10月に米軍の要請で北朝鮮元山沖で掃海作業中、乗船していた掃海艇が機雷に触れ爆発、殉職した海上保安庁職員(当時21)の男性遺族(79)が、靖国神社合祀を申請していたが、神社側が合祀要請を拒否していたことが明らかになった。神社側は、8月25日付回答書で「時代ごとの基準によって国が『戦没者』と認め、名前が判明した方をお祀りしてきた」、「協議の結果、朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外」とした。海上保安庁は、日本国憲法が発効していたことから、遺族に口外を禁じ、事故記録も廃棄されたという。男性遺族は「戦後の『戦死者』第1号であり、神社には再考を求めたい」と話している[17]。なお、この職員には、戦没者叙勲はされたものの、恩給は支給されていない。

特攻作戦に関与した海軍中枢部の将官のうち、終戦直後の8月15日に「オレも後から必ず行く(死ぬこと)」と言ってそれを実行した宇垣纏は、靖国神社に祀られていない。終戦直後に部下と共に特攻した(特別攻撃隊#宇垣纏)行為が、停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法31条に抵触するものであり、また、無駄に部下を道連れにしたことが非難されてもおり、部下も含め戦死者(あるいは受難者)とは認められていない。しかし、特攻作戦の命令を下した人物として自決により責任を取った、と評価する有識者の中からは、靖国神社に合祀すべきとの意見が出ている。そのため郷里である岡山県護国神社の境内には、彼と部下十七勇士の「菊水慰霊碑」が建立されている。

[編集] その他の問題点

[編集] 神道における教義上の問題

戦後折口信夫は、神道における人物神は、特に政治的な問題について、志を遂げることなく恨みを抱きながら亡くなった死者を慰めるために祀ったものであり(所謂御霊信仰を指す)、「護国の英雄」のように死後賞賛の対象となるような人物神を祭祀することは神道教学上問題がある、と述べている。

[編集] 祭神となる基準はどこにあるか

靖国神社#祭神の内訳も参照

戊辰戦争明治維新の戦死者では新政府軍側のみが祭られ、賊軍とされた旧幕府軍(彰義隊新撰組を含む)や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外。西南戦争においても政府軍側のみが祭られ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外。戊辰戦争で賊軍とされて戦死者が靖国神社に祭られていない会津藩士の末裔で戦後右翼の大物だった田中清玄は、「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と述べている[18]

軍人・軍属の戦死者・戦病死者が対象で、戦闘に巻き込まれたり空襲で亡くなった文民・民間人は対象外。また、戦後のいわゆる東京裁判などの軍事法廷判決による刑死者と勾留・服役中に死亡した者が合祀され、合祀された者の中に文民が含まれた。

[編集] 首相の参拝に対する各界の態度

[編集] 賛成派と反対派の一覧

賛成派
宇野精一小堀桂一郎中西輝政堺屋太一佐々淳行宮崎哲弥中嶋嶺雄児玉清諸井虔西尾幹二岸田秀、林原健、ひろさちや俵孝太郎入江隆則井沢元彦、吉富勝、水谷研治、竹内宏、加藤寛岡田英弘小川和久平川祐弘竹内久美子加瀬英明篠沢秀夫岡野雅行、赤塚行雄、佐瀬昌盛谷沢永一江森陽弘橋爪大三郎日下公人上坂冬子石堂淑郎古森義久徳岡孝夫三宅久之屋山太郎立川談志河上和雄神谷不二岡崎久彦渡部昇一小田晋養老孟司
反対派
渡邉恒雄村山富市、中江要介、衛藤瀋吉、矢吹晋、田原総一朗内田樹、近藤誠、堀田力森田実加藤尚武田口ランディ斎藤精一郎、金森久雄、大谷昭宏山内昌之池部良保阪正康小林信彦森毅平松守彦小谷野敦小林カツ代山口二郎、上田耕一朗、江坂彰、平野貞夫川勝平太大野晋阿刀田高石田衣良
文藝春秋』2005年7月号掲載アンケートより。

なお、小林よしのりをはじめとした保守派の中には、「とにかく参拝さえすればいいというものではない」といった批判も出ている。

[編集] 日本遺族会

2005年6月11日、日本遺族会会長で自由民主党の古賀誠ら幹部が、「首相の靖国神社参拝は有り難いが、近隣諸国への配慮、気配りが必要」との見解を纏める。

2005年6月17日、6月11日の古賀らの見解以後、遺族会会員から「方針転換し、参拝中止を求めるものではないか」と懸念の声が相次いだのを受け、「今後も総理大臣の靖国神社参拝継続を求め、靖国神社に代わる新たな追悼施設は認めない。A級戦犯の分祀は靖国神社自身の問題だ」とし、「総理は中韓両国首脳の理解を得るよう努力するべきだ。」という従来通りの方針を確認した。


[編集] 経済界

[編集] 関西経済同友会

2006年4月18日、関西経済同友会は、「歴史を知り、歴史を超え、歴史を創る」と題した提言を発表[4]。いわゆる歴史認識問題は、中韓両政権が国内体制維持に反日感情を利用している一方、日本側は、政府高官を含め、日本人自身が歴史を知らず、生煮えの歴史対話となっていると指摘。日本は、中韓両国とのより良き関係構築の観点から毅然とした態度で外交交渉に臨むことが肝要と述べ、靖国神社問題に関しては、日中国交正常化の原則に則り、相互内政不干渉とすべきで、この点は日韓間でも同様であると述べた。

[編集] 経済同友会

2006年5月9日、経済同友会は、「今後の日中関係への提言」を発表[5]。日中両国首脳の交流再開の障害に小泉首相の靖国参拝があると指摘し、参拝の再考を求めた。これに対し首相は「商売のことを考えて行ってくれるなという声もたくさんあったが、それと政治は別だとはっきり断っている」と述べた。公明党の神崎武法代表は10日、経済の現場に悪影響が出始めたとの危機感を表明したが、小泉首相は10日夜「日中間の経済関係は今までになく拡大しているし、交流も深まっている」と参拝による影響を明確に否定した。2005年度の日中の貿易額は七年連続で増加し、過去最高になっており、記録を更新中と伝えられた(2006年4月)矢先のことであった。

[編集] 諸外国の反応

[編集] 中国、韓国との外交

これら2国が「問題」としているのは、A級戦犯が合祀されている宗教施設に首相が公式参拝することである、と要約することもできる。

近隣3国のうち、中国に関しては、靖国神社問題は特殊である。中国では20世紀末期から21世紀初頭にかけて脱社会主義化が進んできており、中国共産党も同時に求心力を失うことを懸念していた。そのため日本を敵視することで支配の正統性を確保し、政権を維持しようとしているという指摘がある。すなわち、中国政府は靖国神社問題を政治的プロパガンダとして利用しているという解釈である。この意味において、日本国首相が靖国神社参拝をやめないことは、中国政府にとっては好都合であるという見方もできる。他方、日本にとって、一見すると靖国参拝は外交上意味のあることではないように思えるが、日米同盟と中国という構図があることを考えると、実は靖国神社参拝はアメリカを意識した外交であるということに注意すべきであろう。中国にとっては日米同盟が強固なものとなるのはあまり面白くないはずであり、その意味からすると靖国参拝をやめよという中国の主張はなんら政治的裏の無い言葉のように思える。このように、靖国問題は中国政府にとってメリット、デメリットをもたらすものであり、また日本にとってもアメリカとの外交上中国を牽制することが必要であるという政治的な難しい問題を内包しており、単純に解決は難しい問題である。

しかしながらサンフランシスコ講和条約第25条によれば、「…第21条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権限又は利益を与えるものではない。…」と定め、その第21条には、「この条約の第25条の規定にかかわらず、中国は、第10条及び第14条 (a) 2 の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する。」とある。

日本や韓国は法治国家なので感情論で法を曲げることは本来許されないが、靖国神社について超法規的処置を中国や韓国から求められ続けている(靖国神社の「戦犯」分祀・廃社など)。

また中国、韓国では、靖国神社付属の博物館「遊就館」の展示内容と説明が軍国主義の名残であるとして問題視する意見もある。中国、韓国だけでなく、欧米の一部では“War shrine”(戦争神社)や“Military shrine”(軍事神社)と揶揄され、特に遊就館の展示が「恥知らずにも戦争を美化している」と批判されることがある(USA Today、Financial Timesなど)。 なお、韓国政府は2006年、A級戦犯の分祀だけでは靖国問題の解決にはならないとの認識を、政府方針として確定している。

[編集] 台湾の反応

[編集] 肯定的意見
  • 李登輝前総統:「国のために命を亡くした英霊をお参りするのは当たり前の事。外国が口を差し挟むべきことではない」[19](自身の戦死した兄が祭られており、訪日時に参拝している。)
  • 陳水扁総統:「理念を堅持し、自分が正しいと思うことを行っている」として、中国の反発にもかかわらず靖国神社参拝を繰り返す小泉首相の姿勢を評価した[20]


[編集] 否定的意見

前述の李登輝前総統の意見に対する批判。以下は全て中国情報局ニュースの2001/08/10(金)のこの記事より。

  • 国民党の潘維剛議員:「民進党は自らの意見を明らかにしていないが、わが国民党はいち早くこれに対する反対の立場を断固取るべき」中央常任委員会にて。台湾の中央通信社からの重引。
  • 国民党党史会前主委の陳鵬仁議員:「李前総統は恥知らず。国家、民族という観念が少しも無い」。
  • 国民党の陳学聖議員:「李前総統の発言は、戦争の歴史を歪曲するものだ」
  • 親民党の周錫ウェイ(ウェイ=王へんに韋)議員:「李前総統の発言は「台湾に対する反逆」であり、人民の不快感を募らせる」。「李前総統は総統時代の10数年間に従軍慰安婦、釣魚台などの問題を積極的に処理してきたにも関わらず、今回こうして小泉首相の靖国神社参拝を支持とは、彼自身が政治家としての責任を忘れている」
  • 民進党の林濁水議員:「李前総統の亡兄、李登欽氏の遺骨が未だに靖国神社にあることについて、「不適当」であり、遺骨は台湾に持ち帰るべき」。「靖国神社内で一般国民の犠牲者と戦犯とを合祀すべきでない。日本はドイツのように戦争責任について十分な説明をしておらず、このように問題がはっきりしていない状態で李前総統が小泉首相の靖国神社参拝を支持したのは不適切な発言だ」

[編集] アメリカの反応

シーファー駐日大使の発言のように、アメリカ政府は、日本の靖国参拝に干渉することはない。ただし、個人では賛否両論の意見がなされている。以下に主な発言を説明する。

[編集] 肯定的意見

  • マイケル・グリーンアメリカ国家安全保障会議上級アジア部長:「参拝の中止要求は悪い間違い」、「日本が歴史を忘れ、戦前のような好戦性に回帰しているという議論は全く的はずれだ」[21]
  • リチャード・アーミテージ:「中国は靖国問題に言及するべきではない。日本は戦後60年間、模範的な市民である」[22][23]
  • ジョン・トーマス・シーファー駐日大使:「アメリカ政府は日本の靖国参拝に干渉することはない」[24]
  • ドナルド・ラムズフェルド国防長官:「中国は日本の靖国参拝への干渉を自制すべき」[21]
  • ラリー・ウォーツェル米中経済安保調査委員長:「小泉純一郎首相あるいはその後継首相は中国からの圧力で靖国神社参拝を中止するようなことがあってはならない」[25]。他にもジョン・タシック 元国務省情報調査局中国分析部長や、ロバート・サター ジョージタウン大学教授の分析が日経BPの記事で紹介されている[25]。両名とも肯定的な意見である。
  • トーマス・スニッチ:「中国には日本の戦没者追悼に対し一定の方法を命令する権利はない」[26]
  • アーサー・ウォルドロンペンシルベニア大学教授:「中国にとって靖国は将棋の駒の一つ」としたうえで、小泉首相やその後継首相は靖国問題で中国の高圧的な要求に屈しないことを提唱した[23]

[編集] 否定的意見

日米同盟を重視する小泉政権の靖国参拝に対してこれまで米国政府は靖国問題に対するあえて強気の姿勢は避けてきた。ただし連邦政府・大統領府とも公式には言及しないものの、議会の“戦中派”議員からは批判の声が上がっている。

  • 「A級戦犯が合祀された靖国神社への参拝は、ドイツのヒムラーヘスゲーリングの墓に花輪を手向けるのに等しい」「戦犯に敬意を払うのはモラルの崩壊であり、日本のような偉大な国家には相応しくない」(ラントス下院議員、民主党)
  • 「日本がアジアを西欧の帝国主義支配から解放したと若者に教えている。戦争を経験した世代として困惑している」「この博物館(=遊就館)で教えられている歴史は事実に基づかない。修正されるべきだ」(ハイド下院外交委員長、共和党)

以上、下院外交委員会の公聴会にて。

ハイド委員長は「(アジアの)対話が阻害されるとしたら残念だ」との書簡を駐米大使に送っている。小泉首相が下院で演説する際には「靖国参拝をしないと自ら表明する必要がある」との書簡をハスタート下院議長に送っている。

[編集] シンガポールの反応

シンガポールからは繰り返し参拝批判の声が上がっている。

首相、リー・シェンロンは「同神社には(第2次大戦の)戦争犯罪人が祭られており、シンガポールを含む多くの国の人々に不幸な記憶を呼び起こす。戦犯をあがめる対象にすべきではない」と発言している。[27]

同じく上級相ゴー・チョクトンも「日本の指導者は靖国神社への参拝をやめ、戦没者を祭る別の方法を探るべきだ」と述べた。[28]

またシンガポール外務省は小泉首相の2006年度の参拝を受けて、「小泉首相の靖国神社参拝を遺憾に思う。シンガポール政府は靖国問題に関する立場を繰り返し表明してきたが、それに変化はない」、「東アジア域内で緊密な連携関係を築くという大局的な共通利益に助けとはならない」と批判した[29]

ただし、リー・クァンユー元首相のように「靖国問題は中国が心理的なプレッシャーをかけているだけで、日中友好の底流は変わらない」[30]と述べるものもいる。

[編集] マレーシアの反応

マレーシアの前首相で東アジアサミットの提唱者でもあるマハティールは毎日新聞の取材に対し、「首相の靖国神社参拝は、中国だけでなく、韓国も怒らせてしまう。日本が行ういくつかの行為は、日米同盟を継続するのに役立っているのだろうが、米国の支援者である韓国を敵に回すことになってしまう」、「首相である限り、自分を公的な自分と個人である自分を分けることはできない」[31]と述べたり、他所でも「日本は戦争で傷ついた近隣諸国の感情を考慮するべき」、「死者を弔うのはどこでもできる。近隣国の不安をかきたてない方法があるはず」[32]と述べたりした。

[編集] その他の国々の反応

[編集] 肯定的意見

  • カンボジアフン・セン首相:「戦没者の霊を弔うことは当然のこと」小泉首相の靖国参拝に理解[33]
  • インドネシアユドヨノ大統領:「国のために戦った兵士のためにお参り、当然」靖国参拝に理解。大統領来日時、安倍晋三・自民党幹事長代理(当時)との会談で[34]
  • インドネシアのプリモ外務省アジア・太平洋アフリカ局長:小泉首相(当時)の靖国参拝は「特別な出来事ではない」[35]
  • パラオのレメンゲサウ大統領:靖国参拝に「すべての人のために祈るのは正しいこと」と支持を表明[36]
  • ソロモン諸島のケマケザ首相:「日本とソロモン諸島の共通の文化は先祖に感謝すること。英霊が祭られている場所を拝見したい」[37]


[編集] 否定的意見

  • ポーランドのゲレメク元外相:「小泉首相の歴史認識には、ヨーロッパ人として疑問がある」、「日本が第2次大戦で果たした役割は変えることができない。その点をヨーロッパは重視してきたんです」[38]
  • イギリスのジェレミー・ハント議員(保守党、日英議員連盟メンバー):「靖国参拝にこだわるのはばかげています。なぜなら、中国はその点を利用していますから」、「日本ほど成熟した国なら、靖国参拝は国内で議論できます」[38]
  • ドイツのシュミット元首相:東京で演説した際靖国問題に触れ、「日本は過去の戦争責任を曖昧にしている。そのため、国際社会において、真の友人がきわめて少ない」と述べた[39]
  • オーストラリアのダウナー外相:「小泉首相には、豪州はA級戦犯がまつられていることを憂慮しているし、地域の人々の居心地を悪くしていると伝えたのだが……」[40]

新聞ではアメリカのワシントン・ポストニューヨーク・タイムズUSAトゥデーロサンゼルス・タイムズクリスチャン・サイエンス・モニター、イギリスのフィナンシャル・タイムズガーディアン、フランスのル・モンド、ベトナム・ハノイのアンニン・トゥドー、タイの英字紙バンコク・ポストなどで批判されている。世界は靖国をどう見ているか(靖国神社問題関連資料)より(個人サイト)。その他批判的意見は同サイトに詳しい。

[編集] 靖国神社問題の歴史

靖国神社問題にまつわる歴史を以下に取り上げる。訴訟となった事件については「#首相公式参拝・玉串料公費支出の訴訟」の節を参照。

1945年12月15日
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の国家神道の廃止方針「神道指令」で、靖国神社は一宗教法人に。
1946年9月
宗教法人靖国神社の登記を完了。
1947年5月3日
日本国憲法施行(政教分離を規定)。
1951年10月18日
第49代内閣総理大臣・吉田茂以下、閣僚、衆参両院議長が揃って、靖国神社が宗教法人になって初めて挙行した秋季例大祭に公式参拝。首相の参拝は6年ぶり。この公式参拝は、同年9月8日の対日講和条約(いわゆるサンフランシスコ講和条約)の調印にともなうとされている。
1952年4月28日
サンフランシスコ講和条約発効。
1955年11月17日
政府統一見解「政府としては従来から、内閣総理大臣その他の国務大臣が国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫してきている」。「そこで政府としては従来から事柄の性質上慎重な立場をとり、国務大臣として靖国神社に参拝することは差し控えることを一貫した方針としてきたところである」。
1959年3月28日
国立・千鳥ケ淵戦没者墓苑が竣工。
1964年8月15日
靖国神社境内で政府主催戦没者追悼式を開催。
1969年6月30日
自民党、初めて靖国神社法案を国会に提出。(審議未了廃案)
1970年4月14日
靖国神社法案、2度目の提出。(5月13日、廃案)
1971年1月21日
靖国神社法案、3度目の提出。(5月24日、提案理由説明の後廃案)
1972年5月22日
靖国神社法案、4度目の提出。(6月16日、廃案)
1973年4月27日
靖国神社法案、5度目の提出。(衆院内閣委で継続審議・審議凍結)
1973年12月20日
衆議院議長・前尾繁三郎、靖国神社法案の審議凍結解除。
1974年5月25日
靖国神社法案を衆院本会議で可決。(6月3日、参議院で廃案)
1975年8月15日
第66代総理・三木武夫が参拝。「私人」としての参拝(私的参拝4条件=公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)と明言。総理による終戦記念日での参拝は初めて。
1978年8月15日
第67代総理・福田赳夫が参拝。公用車の使用、公職者の随行のうえ「内閣総理大臣」と記帳しながらも、私的参拝を主張。
1978年10月17日
極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)におけるA級戦犯14人を国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀(翌1979年4月19日に新聞報道により一般に知られることとなる)。 首相・三木の「私的参拝四条件」(1975年)を政府統一見解として認めたことがないと内閣法制局が言明(参議院内閣委員会)。 合祀されたのは、死刑に処された東條英機広田弘毅松井石根土肥原賢二板垣征四郎木村兵太郎武藤章の7人と、勾留・服役中に死亡した梅津美治郎小磯国昭平沼騏一郎東郷茂徳白鳥敏夫松岡洋右永野修身の7人の計14人。
1979年4月21日
キリスト教徒の第68代総理・大平正芳が春期例大祭で参拝(A級戦犯合祀報道の2日後)。
1980年8月15日
第70代総理・鈴木善幸とともに閣僚が大挙して参拝。
1980年11月17日
「私人」参拝を認める官房長官・宮沢喜一が、衆議院における答弁(政府統一見解)「政府は首相その他の国務大臣がその資格で参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫している。違憲とも合憲とも断定していないが、違憲ではないかとの疑いをなお否定できない。そこで政府は、国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは差し控えることを一貫した方針としてきたところである」[41]
1981年3月18日
「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が結成される。
1981年8月15日
鈴木善幸が参拝。
1982年8月15日
鈴木善幸が参拝。マスコミの「私人」か「公人」かの質問に答えず。
1984年1月5日
第72代総理・中曽根康弘が参拝。質問に「内閣総理大臣たる中曽根康弘」と答える。現職首相の年頭参拝は戦後初であった。
1985年8月9日
官房長官・藤波孝生の私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)が、公式参拝可能との報告書を発表。
1985年8月14日
官房長官・藤波孝生の談話「中曽根首相は、首相としての資格で靖国神社を参拝する。憲法の政教分離原則との関係は強く留意しており、公式参拝が宗教的意義を持たないものであることを参拝方式などで明らかにする。 (かしわ手を打たず、玉串料でなく供花料を公費から支出するなどの)今回の方法であれば、憲法が禁止する宗教的活動に該当しないと判断した」。
1985年8月15日
首相・中曽根ら閣僚17人が参拝(「二拝二拍手一拝」の神道形式ではなく、本殿で一礼。公費から供花料を支出。これ以後の参拝は、形式上、私的参拝ということになる)。以降11年間、終戦記念日の参拝は行われない時期が続いた。
1985年8月20日
官房長官・藤波「戦没者に対する追悼を目的として本殿または社頭で一礼する方式で参拝することは同項(憲法20条3項)の規定に違反する疑いはないとの判断に至った」ので「昭和55年(1980年)11月17日の政府統一見解をその限りにおいて変更」(衆議院)[1]
1986年8月14日
内閣官房長官・後藤田正晴の談話「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」[7]
1986年8月15日
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会(会長・奥野誠亮)が集団で参拝、首相は参拝を見送った。
1988年3月14日
赤報隊 (昭和)から、中曽根康弘事務所と竹下登の元に脅迫状が送られた(差出の日付は3月11日)。中曽根には「わが隊は去年二月二七日のよる 全生庵で貴殿をねらった」「靖国や教科書問題で民族を裏切った」「もし処刑リストからはずしてほしければ 竹下に圧力をかけろ」、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」という内容だった。全生庵は中曽根が座禅を組みにしばしば訪れた庵で、脅迫状の日時には実際に座禅を組んでいたという。参拝を中止した中曽根を標的にし、後継の首相となった竹下に参拝を迫ったもの。
1991年1月10日
仙台高裁が岩手県の靖国訴訟で合憲判決。(傍論として違憲言及。総理大臣の公式参拝を違憲としたのは初めて)。
1991年9月4日
1991年3月に傍論を不服とした県が上告し、仙台高裁は「岩手県が判決主文で全面勝訴している」として却下。9月4日に、この仙台高裁の決定を不服とした県の特別抗告について、最高裁第2小法廷は「抗告の理由がない」として却下、確定。
1992年2月28日
中曽根公式参拝(1985年8月15日)に対する九州靖国神社公式参拝違憲訴訟の福岡高裁判決。
1992年7月30日
中曽根公式参拝(1985年8月15日)に対する関西靖国公式参拝訴訟の大阪高裁判決。違憲の疑いありと判示。のち確定。
1996年7月27日
第82代総理:橋本龍太郎が靖国神社参拝。11年ぶり。
1997年4月2日
愛媛玉串料訴訟で違憲判決。最高裁大法廷判決「たとえ戦歿者遺族の慰藉が目的であっても県が靖国神社・護国神社などに玉串料を公費から支出したことは憲法が禁止した宗教活動にあたり、違憲である」[42][43]
1999年8月6日
官房長官:野中広務、記者会見で個人的見解と断りつつ、「首相はじめすべての国民が心から慰霊できるよう、あり方を考える非常に重要な時期にさしかかっている」、「A級戦犯を分祀し、靖国が宗教法人格を外して純粋な特殊法人として国家の犠牲になった人々を国家の責任においてお祀りし、国民全体が慰霊を行い、各国首脳に献花してもらえる環境を作るべきではないか」と述べた[44]
2001年5月9日
第87代総理・小泉純一郎「戦没者にお参りすることが宗教的活動と言われればそれまでだが、靖国神社に参拝することが憲法違反だとは思わない」「心をこめて敬意と感謝の誠をささげたい。そういう思いを込めて、個人として靖国神社に参拝するつもりだ」と明言(衆議院本会議)[45]
2001年7月11日
公明党代表:神崎武法「憲法20条(政教分離)と89条(公費支出)に違反するような(首相の靖国神社)参拝は問題がある」。 自由党党首・小沢一郎「連立を組むなかで、憲法違反を理由にして消極的ならば、首相と議論してきちんと結論を出さなくてはいけない。あいまいにすませるのは許されない」(日本記者クラブでの党首討論で)。
2001年7月30日
外務大臣:田中真紀子コメント: 「憲法20条にあるように、総理は国の最終的な責任者であり、国家の意思そのものだ。ここは個人だ何だと分けるふうな姑息な手段は使わないでいただきたい」。
2001年8月13日
小泉純一郎が参拝。参拝に反対する立場からは参拝したことへの、参拝を積極的に支持する立場からは、前言を翻して終戦記念日を避けたことへの批判も挙がった。参拝は、8月11日に秘書官を通して「内閣総理大臣小泉純一郎」という名入りの献花料3万円を私費で納入。 靖国への往復に公用車を用いて官房長官・福田康夫と秘書官を随行。 参集所で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳。神社拝殿で身を清める「お祓い」を受け、本殿に昇殿して祭壇に黙祷した後、神道式によらない一礼方式で参拝を行なった。供花料ではなく、献花料としたのは、兵庫県多紀郡篠山町(現篠山市)が、盆に戦没者遺族に線香やロウソクを配布したことをめぐって憲法の政教分離原則に反するかを争った訴訟で、「お盆」、「ご帰壇」、「英霊」、「お供え」、「合掌」などの宗教用語を使った文書が違憲にあたると判断した神戸地裁の指摘を考慮したとされている[46]
2001年8月15日
靖国神社に面した通りで、靖国賛成派と反対派の衝突があり、警視庁麹町署によると双方に負傷者が出たという。斎藤貴男は、賛成派が一方的に負傷させたとしている[47]
2001年11月1日
小泉公式参拝(同年8月13日)に対する大阪・松山・福岡の各地裁提訴について、小泉首相がコメント: 「話にならんね。世の中おかしい人たちがいるもんだ。もう話にならんよ」(同日各紙夕刊、翌日同朝刊)。 官房長官・福田のコメント: 「どこが憲法違反なんですかね。内閣総理大臣である小泉純一郎が参拝したんですよ」、「そういうことを言って、小泉純一郎の信仰の自由を妨げるというのは、それこそ憲法違反じゃないですか」。
2001年12月14日
中国、韓国などから批判が出たのを受け、内閣官房長官・福田康夫は、国立戦没者追悼施設を建設する構想を立ち上げ、私的諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(座長・今井敬)を発足させた。
2002年4月21日
小泉純一郎、参拝。
2002年12月24日
内閣官房長官・福田の諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が報告書[48]を提出。「追悼・平和祈念を行うための国立の無宗教の恒久的施設が必要と考えるが、最終的には政府の責任で判断されるべきだ」。その後、懇談会は開催されていない。
2003年1月14日
小泉純一郎、参拝。
2004年1月1日
第88代総理・小泉純一郎、参拝。
2004年4月7日
福岡地方裁判所が小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)で合憲判決。(亀川清長裁判長が傍論で違憲言及。1991年の仙台高裁判決に次いで二例目)。
2004年11月25日
千葉地方裁判所(裁判長:安藤裕子)は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)について、参拝は公務と認定した上で、原告の慰謝料請求を棄却した。
2004年12月8日
日本記者クラブでの講演で公明党の神崎武法代表は、小泉首相の靖国神社参拝が日中関係の障害になっていると指摘。「私から見ると解決方法は(1)参拝を自粛する(2)A級戦犯の分祀を検討する(3)国立追悼施設を建設する――の3つしかない」と述べた[49]
2005年4月27日
中国の王毅駐日大使は、日中両政府間で、靖国神社参拝に関する「紳士協定」が存在し、首相と外相、官房長官は参拝すべきではないと、自民党の外交調査会での講演の中で発言。中国政府関係者は、「紳士協定」は、中曽根内閣当時に中国側の求めにより口頭でなされたと発言。日本の外務省関係者は協定の存在を否定。翌4月28日、中曽根元首相は「王大使の記憶違い」と述べて「紳士協定」の存在を否定。中国大使館へ電話で抗議したと記者団に語る。
2005年9月29日
「靖国訴訟」東京高裁(浜野惺(しずか)裁判長)は1審の千葉地裁判決を支持、原告側控訴を棄却。
2005年9月30日
大阪高裁が小泉靖国訴訟で合憲判決。(大谷正治裁判長が傍論で違憲言及)。
2005年11月3日
中国の唐家せん(王へんに旋)国務委員(前外相)は、1985年の中曽根首相による靖国神社参拝を受け、首相と外相及び官房長官は参拝しないとの紳士協定を日中両政府間で結んだと、訪中していた大阪府と京都市、兵庫県の各知事との会談の中で発言。
2005年11月5日
公明党全国代表者会議で党代表・神崎武法は、「政権の中枢にある首相、外相、官房長官は参拝を自粛すべきだ。今後も自粛を求めていく」、と述べた。神崎はこれまで再三再四、首相に自粛を求めていたが、外務大臣や官房長官についてまで自粛を要求したのは初めて。神崎氏の発言は、4月27日に中国の王毅駐日大使が、日中両政府間で首相と外相及び官房長官は参拝しないとの「紳士協定」が存在するとした発言を念頭に置いたものとみられている(ただし日本の外務省と中曽根元首相は「紳士協定」の存在を否定)。
2005年11月9日
靖国神社に代わる国立戦没者追悼施設を目指す超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」が発足。会長に山崎拓(自民党)、副会長は鳩山由紀夫(民主党)と冬柴鉄三(公明党)。設立総会には福田康夫(自民党)や当時の公明党代表の神崎武法ら100人が参加した。
2006年8月15日
小泉首相は、自身の首相としての最後の夏、Xデーに参拝するのではないか?」と自民党を中心に内外で推測されていたが、2006年8月15日午前7時40分ごろ、現職総理としては1985年の中曽根康弘以来21年ぶりに8月15日の参拝を行った。午前7時30分ごろ、総理官邸を出発し10分後にモーニング姿で到着。本殿に入り「2拝2拍手1拝」の神道形式ではなく一礼形式の参拝。滞在時間は15分ほどだった。

[編集] 歴代首相の靖国神社参拝(回数)

2007年現在、最初の伊藤博文就任以降の歴代首相57人中14人が参拝しているが、最初に参拝したのは戦後初の首相である東久邇稔彦(30人目、重複を入れると43代目)である。戦後に限定すると、28人中14人の首相が62年間で計67回参拝している。終戦記念日の参拝は8回。

  • 東久邇稔彦(1回): 1945年8月18日
  • 幣原喜重郎(2回): 1945年10月23日、1945年11月20日
  • 吉田茂(5回): 1951年10月18日、1952年10月17日、1953年4月23日、1953年10月24日、1954年4月24日
  • 岸信介(2回): 1957年年4月24日、1958年10月21日
  • 池田勇人(5回): 1960年10月10日、1961年6月18日、1961年11月15日、1962年11月4日、1963年9月22日
  • 佐藤栄作(11回): 1965年4月21日、1966年4月21日、1967年4月22日、1968年4月23日、1969年4月22日、1969年10月18日、1970年4月22日、1970年10月17日、1971年4月22日、1971年10月19日、1972年4月22日
  • 田中角栄(5回): 1972年7月8日、1973年4月23日、1973年10月18日、1974年4月23日、1974年10月19日
  • 三木武夫(3回): 1975年4月22日、1975年8月15日、1976年10月18日
  • 福田赳夫(4回): 1977年4月21日、1978年4月21日、1978年8月15日、1978年10月18日
  • 大平正芳(3回): 1979年4月21日、1979年10月18日、1980年4月21日
  • 鈴木善幸(9回): 1980年8月15日、1980年10月18日、1980年11月21日、1981年4月21日、1981年8月15日、1981年10月17日、1982年4月21日、1982年8月15日、1982年10月18日
  • 中曽根康弘(10回): 1983年4月21日、1983年8月15日、1983年10月18日、1984年1月5日、1984年4月21日、1984年8月15日、1984年10月18日、1985年1月21日、1985年4月22日、1985年8月15日
  • 橋本龍太郎(1回): 1996年7月29日
  • 小泉純一郎(7回): 2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月14日、2004年1月1日、2005年10月17日、2006年8月15日

[編集] 出典

  1. ^ a b c 藤波内閣官房長官談話: 内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社公式参拝について(首相官邸)
  2. ^ 新田均著『首相が靖国参拝してどこが悪い!!』、p.205
  3. ^ a b 松山大学 田村譲教授サイト 岩手靖国違憲訴訟より。
  4. ^ 法政大学大原社研 1985~1986年社会運動概況〔日本労働年鑑 第57集 392〕
  5. ^ 福岡高判平4・2・28、判時1426・85
  6. ^ 大阪高判平4・7・30、判事1434・38、判タ789・94
  7. ^ a b 本年8月15日の内閣総理大臣その他の国務大臣による靖国神社公式参拝について(首相官邸)
  8. ^ 産経新聞社刊『正論』(平成13年9月号)「私が靖国神社公式参拝を断念した理由」
  9. ^ 昭和61年8月15日付け、中国共産党胡耀邦総書記宛て内閣総理大臣書簡
  10. ^ 福岡地判平16・4・7、判時1859・76、[1](なお、外部リンクは当事者の表示が抜けており、また正確でない場合がありますので、正確を期する場合は判例集に当って下さい)
  11. ^ 日本経済新聞 2006年7月20日
  12. ^ を2004年2月15日テレビ朝日「サンデープロジェクト」中曽根康弘と田原総一郎の対談での発言
  13. ^ 2006年7月24日毎日新聞
  14. ^ テレビ朝日ワイドスクランブル 2006年8月15日 川村晃司コメント
  15. ^ 2006年8月16日 聯合ニュース「A級戦犯分祀では靖国問題解決できず、政府方針」[2]
  16. ^ 特集:靖国問題を考える(その1)追悼のかたち、模索 打開策にもハードル 毎日新聞2006年8月15日東京朝刊
  17. ^ 朝日新聞2006年9月2日付夕刊「靖国神社、朝鮮戦争で死亡した元海保職員の合祀を拒否 asahi.com関西」
  18. ^ 『田中清玄自伝』文芸春秋刊
  19. ^ 週刊新潮 2001/08/09出版
  20. ^ 共同通信 2006/04/01
  21. ^ a b 産経新聞 2006年6月8日
  22. ^ 毎日新聞 2005/05/27
  23. ^ a b 日経BP 国際問題評論家 古森義久 2006年7月21日 揺れる靖国問題、改めて米国側の本音を聞く
  24. ^ 産経新聞 2006年5月25日
  25. ^ a b 日経BP 国際問題評論家 古森義久 2006年6月9日 靖国問題、ワシントンは中国の態度に批判的
  26. ^ 産経新聞 2006年8月5日
  27. ^ 共同通信2005年5月18日
  28. ^ 日経新聞2006年2月6日
  29. ^ newsclip 2006年8月15日小泉首相の靖国参拝に遺憾表明=シンガポール政府
  30. ^ ロイター通信 2006年5月23日
  31. ^ 毎日新聞 2005年12月9日
  32. ^ 朝日新聞 2005年8月3日
  33. ^ 産経新聞 2001年8月21日
  34. ^ YAHOO JAPAN FNN 2005年6月3日
  35. ^ NNAニュースフラッシュ、2006年8月15日
  36. ^ 読売新聞 中谷和義 2005年7月6日
  37. ^ 産経新聞 2005年7月12日
  38. ^ a b 日本テレビ2006年8月16日
  39. ^ 『欧米メディア・知日派の日本論』ニューズウィークの記事を転載したもの。
  40. ^ 朝日新聞2006年8月16日
  41. ^ 政府統一見解(首相官邸)
  42. ^ 最大判平9・4・2、民集51・4・1673
  43. ^ 個人サイト、[3]
  44. ^ 毎日新聞 1999年08月17日
  45. ^ 毎日新聞 2001年7月30日
  46. ^ 小泉内閣総理大臣の談話(首相官邸)
  47. ^ダカーポ』10月3日号
  48. ^ 報告書(首相官邸)
  49. ^ 公明新聞2004年12月9日

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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