現代音楽/地域別の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
21世紀を迎えた現代音楽の現状は、「影響が世界中に拡散した」ことが19世紀のクラシック音楽以前と異なる点である。この現状に対応するために、現代音楽/地域別の動向では、各地域ごとの動向を解説する。
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
交響曲 - ピアノ協奏曲 |
ピアノソナタ |
ヴァイオリン協奏曲 |
ヴァイオリンソナタ |
弦楽四重奏曲 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
イベント |
音楽祭 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
目次 |
[編集] 西欧・南欧
[編集] ドイツ
1950年代のヨーロッパの現代音楽の方向性を決定付けるのに、戦前より開始されたドイツのドナウエッシンゲン音楽祭や、戦後に始められたダルムシュタット夏季現代音楽講習会(現在は隔年開催)の果たした役割は大きい。特にダルムシュタットの講習会は、初期にはピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ルイジ・ノーノ、ルチアーノ・ベリオなどがここで活躍し、前衛的な音楽を探求した。後にはジョン・ケージやジェルジ・リゲティ、ヤニス・クセナキスなど異なる流派の作曲家も参加し、ケージの偶然性などがヨーロッパに伝えられた。その後、ダルムシュタットは1950年代ほどの影響力は持たなくなったものの、後年においてもヘルムート・ラッヘンマンやブライアン・ファーニホゥなど、シュットットガルト音楽大学やフライブルク音楽大学を中心とした次世代の作曲家らが講師陣をつとめ、1980年代の音楽シーンを新たに牽引した。
ドイツでは、ダルムシュタットの他にドナウエッシンゲン音楽祭も重要な現代音楽の発信地として挙げられる。歴史はこちらの方が古く、組織は別だが、取り上げられる作曲家の傾向はほぼダルムシュタットと共通性がある。ドナウエッシンゲンを主催しているのは南西ドイツ放送(SWR)で、放送(海外放送局への録音配布も含む)や録音メディアの販売により、その活動は諸外国にもよく知られている。
ドイツではダルムシュタットやドナウエッシンゲンに限らず、この他にもドイツ全国に30余りある州立音楽大学、150近い管弦楽団、100近いオペラハウス、10以上の独立した公共放送による13の放送交響楽団と管弦楽団、多数の音楽祭などが、作曲家への委嘱などを通して常に優れた作品を生み出しつづけている。
その一方、東西分断時代に共産圏であった旧東ドイツは、旧西ドイツとはまったく異なる作曲活動を余儀なくされた。ドレスデンで活躍した作曲家・指揮者のヘルベルト・ケーゲルは東西ドイツ統一後に自殺した。その原因については、社会主義の終焉に絶望したためという説もあるが、真相は不明である。しかしこの地域にもパウル・ハインツ・ディートリッヒなどの優れた作曲家がいる。
[編集] ドイツ語圏
ドイツ現代音楽の潮流は、広義としてはドイツおよびオーストリア、スイスのドイツ語圏を含むと考えてよい。
スイス出身の作曲家としては、クラウス・フーバーや、オーボエ奏者としても世界的にその名を知られるハインツ・ホリガーらがいる。彼らはドイツのフライブルクで教職を勤め、フーバーはブライアン・ファーニホゥや細川俊夫を教えた。また、バーゼル音楽大学のユルグ・ヴィッテンバッハは、長年にわたり作曲家・ピアニスト・指揮者として活動し、以前から知られている。ピアニストのマリアンネ・シュレーダーも作曲活動を開始している。なお、バーゼルにはスイス放送のオーケストラがある。
ウィーンでは、戦前の新ウィーン楽派の功績がまず挙げられるが、より現在に近いところでは、ポーランド人作曲家のローマン・ハウベンシュトック・ラマティが、ウィーン音楽院で多くの作曲家を育てた。なかでも、その弟子でスイス出身のベアト・フラーは、優秀な現代音楽アンサンブル、クラングフォールム・ウィーンを結成し、グラーツ音楽大学で教え、ウィーンを中心に新たな潮流を生み出している。同じくスイス出身の、クラウス・フーバーの弟子のミカエル・ジャレルも、現在ウィーン音楽大学と故郷のフランス語圏のジュネーブ音楽院で教鞭をとっている。また、指揮者のクラウディオ・アバドが提唱した現代音楽祭「ウィーン・モデルン」もよく知られている。オーストリアの公共放送はORF一局のみだが、ウィーン放送交響楽団を初めとして、ウィーンの放送局の中で常に完全無料の公開初演を行い、「オーストリア・1(アインツ)」のFM放送で一年中放送されている。
ザルツブルクでは、ポーランド出身のボグスワフ・シェッフェルが、モーツァルテウム音楽大学で電子音楽のゲルハルト・ヴィンクラーや、ザルツブルク・シンフォニエッタ・ダ・カメラの主宰者・指揮者で自ら作曲コンクールも企画しているペーター・ヴィーゼン=アウアーなどを教えた。シェッフェルの退官後はシュヴァツで夏期講習を開催し、多くの弟子を輩出している。ザルツブルク音楽祭は近年ジェラルド・モルティエ以降、現代音楽が盛んになった。
[編集] フランス
フランスでは、戦後よりオリヴィエ・メシアンがパリ音楽院で教鞭をとり、多くの作曲家を育成した。その弟子の一人で、戦後現代音楽の最重要作曲家の一人であるピエール・ブーレーズは、現代音楽アンサンブル、ドメーヌ・ミュジカルを組織し、演奏会などを通じて前衛音楽を多数紹介した。この活動は後に、IRCAM所属のアンサンブル・アンテルコンタンポランによって引き継がれている。「メシアン門下になることは少数派につくことを意味した」というブーレーズの発言に見られるように、この活動は決して平坦な道のりではなかったようだ。メシアンがパリ音楽院の作曲科の教授に迎えられたのは1960年であり、それまでは理論系の別の科を渡り歩いていた。
現在では、ブーレーズが初代の所長を務めた電子音響音楽研究施設IRCAM(イルカム、1976年より)を中心として、ジェラール・グリゼーやトリスタン・ミュライユをはじめとするスペクトル楽派と呼ばれる作曲家が、電子音響あるいは音響学的な分析を応用した作曲活動を行っている。スペクトル楽派の影響はフランスという一つの国籍に縛られず、むしろIRCAMで学んだ多国籍の作曲家に影響を与えている(詳しくはスペクトル楽派の項を参照)。
また一方で、ヤニス・クセナキスがUPICを開発したCEMAMu(スマミュ、現在の名称はCCMIX)や、ラジオフランスの研究施設INA-GRM(イナグラム)で活動する作曲家の一部は、スペクトル音楽とは別の方向性を探っている。代表的な作曲家にリュック・フェラーリがいる。ただしIRCAMとINA-GRMの双方の組織にかかわる作曲家は、自由にそれらの長所を使い分けている。
ほかに、これらの流れに与しない存在としてパスカル・デュサパンが活躍している。デュサパン以降の若手では、レジス・カンポのように、グリゼーに師事しながら全く別の語法を探る作曲家もいる。マルク・モネも、エレクトロニクスを駆使したユーモア色の強い作風で知られている。
その一方で、海外への影響力は薄いものの、クロード・バリフ、アラン・バンキャール、ジャック・ルノ、オリヴィエ・グレフ、ブリス・ポゼ、ニコラ・バクリ、ティエリー・ランチノらのように、エクリチュール(書式)の完成度の格調と音色美を誇る「フランスの古き良き伝統」を継承する流派も今日まで続いている。教会音楽の分野で、近代からのマルセル・デュプレ、シャルル・トゥルヌミール、モーリス・デュリュフレらの伝統を受け継ぐ流れとしてティエリー・エスケシュの名が挙げられるし、世俗的諧謔性とフランス室内楽の精神(エスプリ)を併せ持つ流れとして、近代からのジャック・イベールやジャン・フランセを引き継ぐジャン=ミッシェル・ダマーズの名が挙げられる。いずれも、いわゆる「現代音楽」と呼ばれる音楽の書法から見れば古典的だが、彼らは、現代においても脈々と受け継がれている伝統的楽派である。
[編集] イタリア
イタリアではルチアーノ・ベリオ、ブルーノ・マデルナやルイージ・ノーノのような先駆者の後に、1930年代生まれの作曲家から次々に独創的な作曲家が出現した。ダヴィデ・アンザギ、シルヴァーノ・ブソッティ、ニッコロ・カスティリョーニ(ニコロ・カスティリオーニ)、フランチェスコ・ペンニージ、アルマンド・ジェンティルッチらの存在が挙げられる。
戦後生まれのイタリアの作曲家で、最もよく知られているのは、1947年生まれのサルヴァトーレ・シャリーノである。独学で学んだシャリーノは、フランコ・エヴァンジェリスティに見出され、1970年代に斬新な音色感に溢れた作品を数多く書き、その名を知らしめた。2004年時点で、シャリーノの作品のCDが複数のレーベルから21枚もリリースされている。ノーノが日本のサントリー音楽財団から委嘱を受けた際、次世代の有望な作曲家として紹介した作曲家は彼である。
その後、イタリアの作曲家たちには「斬新さ」や「新しさ」といった側面があまり見受けられない傾向が進んだ。ファブリチオ・デ・ロッシ・レ、ルカ・ベルカストロ、ジョルジォ・コロンボ・タッカーニといった1960年代生まれの作曲家たちには、シャリーノのような斬新さはない。近年は、リッカルド・ヴァリーニやエマヌエーレ・カザーレといった若手が活躍している。
現在はステファノ・ジェルヴァゾーニ(2006年度以降パリ音楽院教授)やマルコ・ストロッパ(現シュツットガルト音楽大学教授)のように、国外で教職に付き、イタリアへ逆輸入する形式で創作する者も目立っている。
第2次世界大戦前生まれの世代では、ジャチント・シェルシとフランコ・ドナトーニが特に良く知られている。シェルシは退院後、フランスのジェラール・グリゼーなどへ指導を行うかたわら、マイペースで作曲活動を行った。そのためイタリア国内では時折紹介されるという形が続いていたが、世界に名声が轟いたのは1980年代に入り、ケルンのISCM音楽祭でハンス・ツェンダーが一連の管弦楽曲を指揮してからである。彼のアシスタントを務めたことのある作曲家は、アルド・クレメンティを始めとして数多い。ドナトーニは前衛の時代から活発な創作活動を行っていたが、1977年に「自己否定のオートマティズム」と呼ばれる手法に辿り付いて以来、この方法で作品を多作した。
[編集] オランダ
オランダは前衛音楽に対する拒絶がない国と言われる。それは、ガウデアムス財団の若手作曲家への支援に現れている。かつてイギリスは保守的であったため、マイケル・フィニスィーなどの多くのイギリス人作曲家がオランダへ移り、作品発表を行った。現在も、母国を離れてオランダで活動する作曲家は多い。一方で、アントワーヌ・ボイガーのように国外に移住する作曲家もいる。
オランダでは、同国の現代音楽の黎明期にアルチュール・オネゲルの門下生、シモン・テン・ホルトがその名を留めている。ホルトは現在も創作活動を行っており、際限のない反復語法を師から受け継いだ後は独自のミニマル書法を展開している。
ルイ・アンドリーセンは、即興音楽を図形楽譜で表現する手法で知られたが、1970年代以後は商業音楽との境界を突き崩し、「物質」四部作により一世を風靡した。現在もオランダ楽壇で影響力を持ち、ヤング・コンポーザーズ・ミーティングに於いて審査委員長を務めることも多い。
マータイン・パディング、フバ・デ・グラースらの中堅世代から、ミヒャエル・フォン・デル・アー、メリーン・トヴァールホーフェンらの若手の世代に至るまで、前衛的様式と古典的様式を折衷させる傾向の者が多い。各世代に共通して見られる反復語法は、20世紀のオランダ人画家のマテリアルの配置からの影響と見る研究者も多い。
[編集] イギリス
イギリスは、ハリソン・バートウィッスルやピーター・マックスウェル=ディヴィスら、前衛的様式とは距離を置く作曲家が著名である。しかし、ブライアン・ファーニホゥのフランスデビュー以後、ジェイムズ・ディロン、マイケル・フィニスィー、リチャード・バーレット、サイモン・ホルトに代表される新しい複雑性と呼ばれる傾向の作曲家が次々現れたほか、クリス・ニューマンのような特異な個性を持つ作曲家も登場した。また、フランスのIRCAMの影響を受けたジョナサン・ハーヴェイやジョージ・ベンジャミンも知名度が高い。
その一方で、古典的な音楽への聴衆の支持は厚い。マイケル・ナイマン、マーク=アンソニー・タネジ、トーマス・アデスらは一般にも人気が高い。日本の吉松隆がレコード会社シャンドスのレジデンスド・コンポーザーとして迎えられたのも、こうした層の需要があるからである。
[編集] スペイン・ポルトガル
スペインの現代の代表的な作曲家として、かつてシュトックハウゼンのアシスタントを務め、コンクールの審査員を務めたことも多いトマス・マルコ、指揮者でもあるクリストバル・アルフテル(伯父の(エルネスト・アルフテルも作曲家)、武満徹により日本でも度々紹介されたルイス・デ・パブロ、バルセロナで活躍するホセ・ルイス・デ・デラスらが知られる。
一方、ポルトガルでは、ジョリー・ブラガ・サントス(1924-1988)や、シュトックハウゼンのアシスタントを務めたホルヘ・ペニショがいた。サントスの「スタッカート・ブリランテ」作品63はリスボン・メトロポリタン・管弦楽団の重要なレパートリーである。一方、国際的な知名度が高いエマヌエル・ヌネスは、長らくフランスのパリ音楽院で教えたのち定年退職した。
[編集] ギリシャ
ギリシャはヤニス・クセナキス、アネスティス・ロゴティティスを除いては世界的に著名な作曲家は少ない。しかし、国内に帰り、大衆をひきつけているミキス・テオドラキスは、ポピュラー音楽の分野で最近は世界的に注目を浴びている。
同世代で1926年にエジプトで生まれたギリシャ人のヤニ・クリストウは自身の大変大胆な管弦楽作品「Enantiodromia」で歴史に残るような仕事をしたが、惜しくも1970年に交通事故で夭逝した。若い世代でパリ在住のジョルジュ・アペルギスなどもクセナキスの与えた衝撃に及ぶ活動には至っていない。
現在は、パナヨティス・ココラスと、パリのアンサンブル・アレフ作曲コンクール入賞の経歴を持つフランス在住のアタナシア・ジャノウが、若手作曲家の中では特に知られる。近年はマスタークラスや作曲コンクールもギリシャで定期的に開催されるようになった。ココラスは帰国して後進の育成に努めているが、ジャノウは日本の新日本フィルハーモニー交響楽団から委嘱を受けるなど、活動領域を拡大している。
[編集] 中欧・東欧
中欧・東欧は旧ソ連・スターリン政権の下、文化活動についても制限が加えられていた。しかし、こうした圧政はスターリンの没後に緩和された。
[編集] ポーランド
詳しくは、ポーランドの現代音楽の項を参照。
ポーランドは戦後まもなく、ソヴィエトの影響により社会主義リアリズムが強制された。しかし、共産圏ではいち早く方針転換し、前衛的な活動が認められるようになると、ヴィトルド・ルトスワフスキやクシシトフ・ペンデレツキなど第一次ポーランド楽派と呼ばれる作曲家たちが現れ、次々と西側に紹介された。
その後も、現代音楽祭ワルシャワの秋では若手作曲家紹介の日が満席になるなど、新しい創作への聴衆の関心は高い。この他、ムジカ・ポロニカ・ヴィヴァも数十年にわたって続けられている。
[編集] クロアチア
クロアチアの作曲家で、現在国際的な知名度があるのは、長年シュトットガルト音楽大学で教えたミルコ・ケレメンである。俗に言うシュトットガルト楽派(譜面よりも実際に出てくる音の尊重や特殊奏法の駆使)に典型的な書法で当時の寵児となった。アメリカにも知名度があり、ブライアン・ヴォルフなどの弟子がいる。退職後はサグレブ・ビエンナーレの総監督も務めているが、近年は体調を崩し長らく病床にある。
[編集] ハンガリー
現代のハンガリーを代表する作曲家として、ジェルジ・リゲティとジェルジ・クルタークの2人が挙げられる。リゲティはオーストリアへ亡命し、その後一作ごとに新たな作曲理論を模索しつつ、常に作風を変化させながら作曲した。現在では真に20世紀後半を代表する作曲家の一人と見なされている。一方クルタークはハンガリーに在住し、ポスト・ウェーベルン的な傾向から新たな音楽語法を紡ぎだした。この2人よりも若い世代では、ペーター・エトヴェシュが作曲家および指揮者としても活躍している。
[編集] ルーマニア・アルバニア
現代ルーマニアの作曲家で、国際的な知名度の高い人物は、ドイナ・ロタルとディアナ・ロタルの母娘、ドイツのシュトットガルトに家族で移住し、名声を博したアドリアーナ・ヘルツキー(現・ザルツブルクのモーツァルテウム教員)、ドイツ在住のヴィオレッタ・ディネスク(現・ドイツのオルデンブルクの大学教員)らがいる。また、イアンク・ドゥミトレスクとホラチウ・ラドゥレスクは、ルーマニア版スペクトル楽派と呼ばれ、国際的に高い評価を受けているが、2人とも活動の場を海外に移している。
アルバニアでは、国際コンクール入賞多数の経歴を持つトマ・シマクがいるが、現在はアルバニアを脱出し、イギリスのヨーク大学で教鞭を取っている。
[編集] ブルガリア
EU化以後、近年若い作曲家が多く台頭している。ボジダール・スパソフやコンスタンティン・イリエフ、ボジダール・ディモフ、ウラディミール・デヤムバツォフ、トードール・クルストなどがいる。
[編集] チェコ・スロバキア
レオシュ・ヤナーチェクの没後、ボフスラフ・マルティヌーなどの多くの優れた音楽家が、大戦中はナチス政権、戦後は共産政権のために国外での活動を余儀なくされた。近年ではマレク・コペレントやマルティン・スモルカなどの作曲家が佳品を創作している。
[編集] 北欧・バルト諸国
[編集] バルト三国
ソビエト連邦から独立した、いわゆる「バルト三国」のエストニア・ラトヴィア・リトアニアの作曲家に見られる傾向として、ロシア風の書法から完全に区別されること、音響的にはフィンランド楽派に近いこと、簡素で色彩は薄く、繰り返しが多いことが挙げられる。海外でも知名度の高いアルヴォ・ペルト(現在ドイツのベルリン在住)の音楽は、この地域の作曲家に特徴的な様式をよく表している。なお、この3ヶ国は国家による現代音楽の振興策がフィンランド並みに優れている。
その一方で、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会などを通して、西側の前衛様式の影響を受けた作曲家もいる。リトアニアのヴィキンタス・バルタカス、リカルダス・カベリス、ラミンタ・セルシュニテら、ラトヴィアのアンドリス・ジェニティスの名が挙がる。
[編集] 北欧
フィンランドの現代作曲家でよく知られた存在として、エイノユハニ・ラウタヴァーラ、その弟子のカイヤ・サーリアホ、マグヌス・リンドベルイ、指揮者でもあるエサ=ペッカ・サロネンとレイフ・セーゲルスタムらがいる。サーリアホが北欧人で初のクラーニヒシュタイン音楽賞を受賞し、北欧の作曲家たちに注目が集まった。
フィンランドとスウェーデンは、EMS(ストックホルム)やシベリウス音楽院コンピュータ音楽スタジオの存在もあり、コンピュータ音楽の先進国としても知られている。
[編集] ロシア・旧ソ連
詳しくはロシアの現代音楽を参照。
ロシア(ソヴィエト連邦)では、ロシア革命前後はショスタコーヴィチの初期作品、アレクサンドル・モソロフなどのロシア・アヴァンギャルドなどのような前衛的な作曲活動も行われたが、やがてスターリンの思想統制が強くなると、社会主義リアリズムの強制により前衛的な活動は大幅に制限され、ほぼ不可能となった。セルゲイ・プロコフィエフやショスタコーヴィチらが表面上は社会主義リアリズムを遵守しながら、実は常に反抗心を持って作曲していたことが近年明るみに出た。
一方で、社会主義を標榜するイタリアのルイジ・ノーノが、極秘に西欧前衛現代音楽の楽譜をソヴィエト国内に持ち込み、戦後の若い世代の作曲家は水面下でそれらを勉強したほか、記譜せず証拠が残らない即興演奏という形でアンダーグラウンドでの前衛活動を試みた。
ペレストロイカ以降になると思想的な規制は大幅に緩和され、それまで水面下で活動してきた前衛的な作曲家が次々と紹介された。ソフィア・グバイドゥーリナ、アルフレッド・シュニトケ、エディソン・デニソフなどである。それに先立ってエストニア(ソ連崩壊後独立)のアルヴォ・ペルトが西ベルリンへ亡命し、新しい単純性として注目されている。ガリーナ・ウストヴォーリスカヤは1970年代以降、素材こそ単純ではあるものの衝撃的な作風を打ち出し、1990年代にオランダから世界へ紹介された。
一方でロシア中央部以外、例えばタタールスタン共和国のような周辺の自治共和国では、民謡に基づく音楽と前衛的語法を折衷するような作曲も続けられている。ロシアで教育を受けたカザフスタンのジャミラ・ジャジルベコヴァとオレグ・パイベルディンの作品には、土俗的要素と前衛語法の統合が図られている作品がある。
[編集] 北米
[編集] アメリカ合衆国
20世紀のアメリカ合衆国における現代音楽の展開は、カイル・ガン著の「20世紀のアメリカ音楽」(シャーマー社 1997年)に極めて高水準のリサーチが行われており、本項は彼の著作との重複をなるべく避ける形で展開したい。
戦後のアメリカは、フランスから渡ったエドガー・ヴァレーズの音楽思想をそのまま受け継ぐ形でスタートした。だが、彼の言う「音楽とは科学である」という思想を半ば曲解したような受け入れが進み、ピッチクラスセット理論などにみられる高度な理論化に焦点が置かれ、音楽のあり方そのものを考える余裕は失われた。この状況がミルトン・バビット、エリオット・カーター、チャールズ・ウォーリネンに代表される「東海岸アカデミズム」と呼ばれる潮流を生んだ。とかくデメリットばかりが強調されるこの楽派だが、ブライアン・ファーニホゥがアメリカに招かれたのは、この潮流がなければ実現しなかったかもしれない。現在もこのアカデミズムはファーニホゥの影響を取り込み、アーロン・キャシディー、ジェイソン・エッカルトに継承されている。
その一方で、楽器の発案や身体性、土着文化等に想を得た作曲家たちも存在し、ヘンリー・カウエルは戦前からヨーロッパで評価が高く、来日も果たし950曲以上の作品を生んだ。彼の書いた「新しい音楽の源泉」に多くの作曲家が触発され、コンロン・ナンカロウ、ジョン・ケージ、ルー・ハリソン、ハリー・パーチ等の作曲家たちが「東海岸アカデミズム」と対立する形になった。この対立は、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会でケージが高い評価を得てから、なおも深まっていった。エリオット・カーターに自分の作品が認められず、転校を余儀なくされたローリー・シュピーゲル、「いったい何人のPh.D所有者が創造的な音楽を書けるのかね」と憤慨したアンソニー・ブラクストンのエピソードは、「東海岸アカデミズム」の弊害の一端を示している。
1960年代以降、スティーヴ・ライヒに代表されるミニマリズムなど反復語法が復権してからは、ヨーロッパのエクスペリメンタリズムの音楽が敬遠される形となった。しかし、そのような中でも1939年生まれのリチャード・トライサルはダルムシュタット夏季現代音楽講習会にてクラーニヒシュタイン音楽賞をピアノで1969年に受賞し、ヨーロッパを中心に作曲と演奏の両面で活躍していた。1940年生まれのデアリ・ジョン・ミゼルもこのころのシュトックハウゼンから教えを受けた数少ないアメリカ人の1人であり、前衛音楽を希求する人々がいなかったわけではない。
1980年代にブライアン・ファーニホゥ、ロジャー・レイノルズ・湯浅譲二がカリフォルニア大学サンディエゴ校で教え始めてからは、かなり風向きが変わってきた。ヨーロッパの前衛を再認識する若手も増え始め、トリスタン・ミュライユ、マイケル・フィニスィー、シュテファン・シュライエルマッヒャー、アントワーヌ・ボイガーなどがアメリカに招かれた。もはや東海岸と西海岸の対立も既にない。これらの諸事情を通過及び消化した1970年代生まれの新世代、ニック・ヘンニーズ、テイラー・ホ・バイナム、アーロン・シーゲル、アーロン・キャシディー、クレッグ・シェパード、ロバート・ダックワースらはそれぞれ独自の道を歩んでいる。
[編集] カナダ
今も昔もこの国の作曲の第一人者はマリー・シェイファー(1933-)であろう。日本では1980年代に尚美学園が主催した「東西の地平の音楽祭」に武満徹が招待して一躍有名になった「環境音楽」の創始者である。なお普通のノース・ホワイトなどの管弦楽作品などの音楽も発表しているが、しばしば電子音も伴うため、グラフィックな記譜が多い。
[編集] 中南米
中南米諸国は、ポルトガル語圏であるブラジルを除くほとんどの国がスペイン語圏に属していることもあり、現代音楽分野においても一国にとどまらず中南米全体の作曲家同士のコミュニティが存在する。しかしこれらの国そのものが現代音楽の発信源となる力は弱く、これらの国々の出身者がアメリカやヨーロッパ諸国へ渡ってはじめて発信源となる場合が多い。
中南米の作曲家は全体構造にドグマが感じられず、当てのない音色がいつまでも浮遊し、たゆたう音楽性を持つ者が多い。しかしながら民族音楽からの波及はドグマ的に強い。
[編集] メキシコ
メキシコは、アメリカ合衆国から亡命して来たコンロン・ナンカロウが微分リズムの大家として、また、フリアン・カリジョが微分音の生みの親として、ともに名高い。現在は現代音楽への拒絶も一切なく注目すべき若手が育ちつつある。
ポスト・クセナキスの衣鉢を継ぐフリオ・エストラーダ、エリザベート国際作曲コンクールとマリー・ジョゼ王妃国際作曲コンクールの優勝者のジャヴィエル・トーレス・マルドナード、若手作曲家対象ユルゲンソン国際コンクール第2位のガブリエル・パレヨンなど、明らかに北米圏や欧州圏の何処にも属さない音楽性を展開できる人材は育っている。エストラーダは微分音程ではなく、積分音程で奇妙な音律を展開することができる。パレヨンはメキシコのルーツを自国の民族楽器に託し、1音ごとに特殊奏法が変化するヴァイオリン曲を書くなど、探究は止む事がない。エストラーダは現在パリ郊外メゾン・アルフォール市にあるクセナキスが設立した電子音楽研究所CCMIXに務めており、UPICシミュレーターであるイアニクスの開発にも関わっている。
他にダルムシュタット夏季現代音楽講習会でクラーニッヒシュタイン賞、また日本で入野賞を受賞したイグナチオ・バカ=ロベラが、日本やドイツ語圏諸国で積極的に紹介されている。
[編集] ホンジュラス
ホルへ・グスターヴォ・メヒアはベルリン芸大でバイヤーに作曲を学び、トロッシンゲン音大で指揮を、更にルートヴィックスブルク映画大学で映画音楽を学んだ。ダルムシュッタット夏期講習にも参加して、ロイトリンゲン・フィルハーモニー管弦楽団なども指揮したが、現在本国の管弦楽団で作曲家兼指揮者として活躍している。作曲コンクール歴もあり、ラテン的な明るい色調の音楽が特徴である。
[編集] アルゼンチン
アルベルト・ヒナステラが微分音やトーン・クラスターなどの前衛イディオムに拒否反応を示すこともなく自由に用いたこともあり、この国もアジア圏のように現代音楽への拒否反応を示すことはなかった。
国庫が破綻するなどの悲運にも関らず、ペドロ・パラツィオ、ホセ・ルイ・キャンパナといったカジミェシュ・セロツキ国際作曲コンクールの優勝者を2名、クリストフ・デルツ国際作曲コンクール優勝者のノラ・エルザ・ポンテ、ウィーン国際作曲コンクール優勝者のシルヴィア・フォミナ、ボスヴィル国際作曲フォーラム第1位のリッカルド・ニッリーニ、ジュネス・ミュジカル・ロマニア主催ブカレスト国際音楽コンクール作曲部門優勝のエドゥアルド・ムギャンスキィなど、近年は最も優秀な作曲家を生み出す南米圏の国家という印象が強い。前述の作曲家たちはすべて国際的な第一線で評価が確立しているが、評価先は主に海外という点が哀しいところである。
作風もバルト圏や北欧のような国が持つトーンのようなものは感じられない。フォミナの作品はオーケストラの団員1人1人にクリックトラックを強いるなど、強烈な最前衛の言語で作曲する1人とみなされている。しかしながら、現在ケルンで強力に活動し、大家としての地位を不動にしたマウリツィオ・カーゲルに、匹敵して歴史を塗り替えるレヴェルの大作曲家は未だにいない。戦後世代の伸び悩みをこの国も蒙っている。
現在2005年度のIRCAM研究員には同国出身でフランス国籍を持つセバスチャン・リヴァスが居るほか、同じくアルゼンチン出身の幾人かの作曲家がストラスブールをはじめとする複数の現代音楽祭で特集されるなど、国別(というより南米全体と言う面もあるが)の作曲家としてスポットを浴びていることは事実である。
[編集] チリ
チリ出身の作曲家では、現在フランス在住で2005年度IRCAM研究員であるホセ=ミゲル・フェルナンデスが、Max/MSPなどの電子音楽ソフトを駆使した作風を展開させている。国立ラジオ放送の音楽局であるラジオ・ベートーヴェンでは現代音楽特集の番組も毎日放送されており、ブーレーズやベリオのような世界的に知名度の高い古典的な作曲家のみならず、上記のフェルナンデスを初めとする地元作曲家の紹介も行われている。
また20代でチリの現代音楽協会の副総裁に就任したオスカル・カルモナの作品も日本に紹介されている。
[編集] ペルー
[編集] ブラジル
唯一の近代音楽の祖エイトール・ヴィラ=ロボス以後、ブラジルはヨーロッパでピアノ演奏を中心に活躍した、ピアニスト兼作曲家のジョシィ・デ・オリベイラが重鎮である。彼女が、ルチアーノ・ベリオやイアニス・クセナキスから作品を献呈されている事や、メシアンの作品選集をLP数枚組みで出すなど、当時の常識を越えた活動がドイツで注目を浴びた。現在の彼女はミクスト・メディアに活動を映したが、個性は未だに衰えてない。
[編集] アフリカ
アフリカ大陸において、現代音楽を受容し、作曲家が活躍している国は南アフリカ共和国である。この国の白人系・ユダヤ系の作曲家でドイツに留学して学んだ者は多い。ディヴィット・コスヴィーナがシュットットガルトに滞在している他、テオ・ヘルプストはドイツでの勉学を経て、現在はイギリスで活動している。ドイツの作曲家のウルリッヒ・ズーセは、南アフリカの大学と常に太いパイプを持ち、作曲家をドイツに招待している。また、南アフリカで教鞭を取る作曲家に、ハワード・スケンプトン、ユルゲン・ブロイニンガー、ケヴィン・ヴォランスがいる。
[編集] 中東
トルコは、中東地域で最も複雑な音律理論を持つ国である。西洋音楽の受容も積極的であり、ロシアと同じく、チャイコフスキーのように西洋音楽を自国流に改良する「国民楽派」がトルコにも存在している。現在のトルコの作曲家にはドイツに留学する者が多く、ジェルジ・リゲティに師事したアルツク・ウンリュ、オルレアン国際20世紀作曲コンクールで第1位となったムヒッディン・デュログル=デミリツのよう精鋭が輩出された。
イスラエルは、ルチアーノ・ベリオに師事したベティー・オリベロをはじめ、早期に西洋音楽を消化した地域である。既に「20世紀のイスラエルの作曲家」と題された書物も20世紀中に出版された。この国の作曲家として、シュテファン・ヴォルペやローマン・ハウベンシュトック=ラマティらの名前が挙がるが、短期間教職についた後この地を離れている。この他、早くからドイツとアメリカに学び、日本に一時期在住したのち現在は再度アメリカへ移住したハヤ・チェルノヴィンがいる。
レバノンはフランスの委任統治領だった歴史があるため、フランス現代音楽シーンのみならずフランス楽壇全体との接点が見られる。ピアニストのアブデル・ラーマン・エル=バシャは、ピアニストとしてデビューする前は作曲家としての将来も考えていた。レバノン出身で、現在はフランス国籍のカリム・ハッダドは、技術者としてもIRCAMのコンピュータ支援作曲ソフトOpenMusicの開発に主要なメンバーとして携わっている。
ヨルダン出身の作曲家では、音楽学を学んだのちにベルギーで哲学を学んだザヘド・ハッダドが、アンサンブル・モデルンなどによってしばしば紹介されている。
[編集] インド
一般に認知されている例では、ラヴィ・シャンカールのシタール協奏曲が挙げられる。近代音楽の様式でほとんど転調すらしない単純な調性の上に書かれた音楽は前衛的とは全く言いがたいが、常にオスティナート、ほとんどドローンのように進行する音楽は、西洋音楽とは明らかに異なるインド音楽風の構成を持つ。当時このLPのリリースも、シャンカールの人気のせいでよく売れた。
カルカッタ育ちのクラレンス・バーロウは、ボリス・ブラッハーのように幼少期を東洋で育ち、ケルンとアムステルダムを経て、現在カリフォルニア州に住み教育活動や電子音楽の仕事で名をあげている。曲の重圧な構造と旋法性がインド人の体格を思わせるが、クラーニヒシュタイン音楽賞を受賞した後も、別にインドのオリジンを強調するようなこともない。「トム・ジョンソンの鋏」のように耳で聞く構造やマニエリズムを皮肉った感じの作風が多く西洋前衛への帰依でもなかったが、代表作のピアノ独奏曲「ÇOGLUOTOBÜSISLETMESI」や「LUDUS RAGALIS」ではインドの伝統文化への回帰を示唆する。
現在の若手ではドイツのミュンヘンで学び、カールスルーエで音楽理論を教えているザンデープ・ヴァックワティと、早期にイギリスへ亡命したナレシュ・ソーハルが唯一公的な認知を受けた例である。
[編集] 東アジア
[編集] 日本
日本編は本稿が日本語版ということも鑑み、別項を設けて後述する。
[編集] 中国
近年の政府の情報統制に伴い、中国の若手作曲家はまだまだ長い文化的重圧に苦しめられている。愛国心は必須であり中国版社会主義リアリズムといえるが、実際は反政府的な政治音楽以外は事実上容認されている。
一方アメリカに出た中国出身の譚盾(タン・ドゥン Tan Dun)は、20歳の時にフィラデルフィア管弦楽団の演奏で初めてベートーヴェンの交響曲第5番を聴いて西洋音楽に関心を持ち、ニューヨークのコロンビア・アーティスト(CAMI)の後ろ盾もあって、世界的に通用する作曲家に挙げられている。またドイツ留学系では北京音楽院の同世代で映画音楽が主で坂本龍一と一緒にオスカー賞をもらったコン・ス、や日本でのハープの国際作曲コンクールの受賞歴があるヴァン・フェィ、台湾出身の女流李美満(リ・メイマン)やシャウナン・パンなどが挙げられる。
そのほかブザンソン国際作曲コンクールおよびウディネ市国際作曲コンクール優勝のレイレイ・チャン、レイ・リャン、ファン・ルオ、ルクセンブルク国際作曲コンクール第二位のリン・ワン、デュティユ国際作曲コンクール、l'Academie de Lutèce国際作曲コンクール、ICOMS国際作曲コンクールの全てを優勝で制したミュシェン・チェン(かつては、ビャオ・チェン名義で活動)らも世界的な評価を受けている。ここで挙げた音楽家は経済的に恵まれているか、両親が音楽家である者が多い。中国は現代音楽の教育体制が十分ではなく、充実した教育を受けるには海外へ留学する必要があった。
一方でそのような財力や環境を持たない若い作曲家は、国内で自由に情報を得ることが不可能である。だが、シュトットガルト音楽大学のエアハルト・カルコシュカやロルフ・ヘンペル、ポーランド作曲界の重鎮ツィグムンド・クラウツェなどのの来中により、少しずつ最先端の音楽情報が浸透し、最近ではインターネットによる情報〔譜面や音〕入手もごく容易になってきた。晩年の石井眞木は、中国での現代音楽の普及に尽力していた。
[編集] 台湾
台湾は、ヘルムート・ラッヘンマンに師事した最初の台湾人であるパン・ファオ・ロンが国際的に知られた。彼は1970年代まで現代音楽の情報を「全く」知らなかったことが音声ファイルで確認できるが、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会に参加し、その個性が花開いた。1980年代以降は文化統制らしきものも見当たらず、独自のアジア音楽を探索するものが現れる。マウリツィオ・カーゲルに師事したチャオ・ミン・トゥンは、リコーダーアンサンブルの為の極めてアジア的な感性に基づく音楽を書いた。
[編集] 韓国
韓国を代表する作曲家として、真っ先に名前が挙がるのは尹伊桑(イサン・ユン)である。弟子である韓国在住の姜碩煕(スキ・カン)も、地元の韓国で早くから名前が知られている。陳銀淑(英:Unsuk Chin、ジン・オンソク)はその弟子として国際的に名がある。
一方ユンとは違う師弟関係で出てきた、ヨンギー・パクパーンはクラウス・フーバーの弟子で現在の妻であるが、傾向としてはすでにアカデミックとなってきたユンの態度と同じ歩調を取っている。その他、ヘルムート・ラッヘンマンとニコラウス・A・フーバー側から出てきて日本にもかなりなじみが深いクンス・シムも、ヨーロッパでよく知られた存在である。
[編集] 東南アジア
東南アジア諸国はパウル・グタマ・スギヨやホセ・マセダのような例外を除いて、情報解禁が中国よりも遅延した。しかも、当局からの弾圧すら、ない。まだ国別で記事を書ける地域は恵まれたほうに入り、21世紀初頭時点において未だに西洋伝統音楽の歴史を執筆することが出来ない地域すら存在する。
[編集] ベトナム
ベトナム出身の作曲家はフランスで活躍して現在は帰国しているグエン=チェン・ダオ、現在もフランスにとどまって活動中のトン=タ・チエがいる。どちらも出身国が歴史的に体験してきたような政治的なメッセージ性は少なく、前者は即興的な身体性、後者は仏教的観念に基づく作品が主軸を占める。他にアメリカで活躍中のファッカン・ファン(P.Q.ファンとイニシャルで書かれる場合が多いが、現地での名前の発音に問題があるためと言われている)がクロノス・カルテットによって広く紹介されている。2006年4月にパリのシャトレ座で行われたチエのオーガナイズによる演奏会ではこの3人の音楽が主に取り上げられ、居住地を超えてベトナムの代表的作曲家と双方が見なしていることを裏付けるものであった。
[編集] フィリピン
フィリピンの作曲家ではホセ・マセダが高橋悠治の紹介によって日本でその名前が浸透したほか、若手世代ではラモン・サントス、チノ・トレド、などが各種のアジアをテーマにした音楽祭の中で幾度も日本に招待されている。アラン・ヒラリオ、コンラト・デル・ロザリオはドイツ語圏で評価が高い。マセダの創作はかなりフィリピンの歴史の中では例外的存在であり、現在の状況はダルムシュタット・ショックなどのヨーロッパの音楽言語へ傾斜している感が強い。
[編集] インドネシア
インドネシアの現代に生きる作曲家は、まず西洋現代音楽から学ぶタイプ、ガムランなどの土着伝統の枠内で志向するタイプ、そして両者の伝統を統合するタイプの三つが存在する。これら三つのタイプに対立関係はない。
ドイツで学び、ボリス・ブラッハーに師事したパウル・グタマ・スギヨは現在もドイツとインドネシアを往復し、独自の道を進む重鎮的な作曲家である。後の中堅世代のスラマット・シュークルやマイケル・アズマロは高橋悠治がアジア発の音楽と紹介したことで日本でも知名度がある。現在は西洋現代音楽のフェスティバルを盛り上げる動きがあるなど、情報解禁は進んでいる。寺内大輔や田口雅英のようにインドネシアに招かれる日本人作曲家も見られる。
[編集] マレーシア
近年では、イギリスとアメリカで学んだのち日本で武満徹作曲賞第一位を受賞し武生国際作曲ワークショップにも招待されたタズル=イザン・タジュディン(タジュッディンと表記する場合もある)やICOMS国際作曲コンクール第一位をはじめとする国際コンクールを総なめにし続けているキー・ヨン・チョンの活躍が目覚しい。単にコンクール荒らしではなく、自国の伝統文化を最先端の音楽言語で解決する独自性に、敵う者が見つからないくらい強力な人々である。
この二人の他にも、1970年代後半以降の世代が続々とマレーシアから巣立ちつつあるが、彼らの将来は未知数のままである。
[編集] カンボジア
カンボジア出身の作曲家としては、チナリー・ウング(ウンと表記される場合もある)が現在カリフォルニア大学サンディエゴ校で教鞭をとっている。
[編集] タイ
タイは近年マイケル・ピサロ門下のジラデジ・セタブンドゥ、入野賞受賞者のシラセート・パントゥラアンポーン、武満徹作曲賞第二位のナローン・プランチャルーンなど西洋音楽の作曲家も現れた。気候面に影響されているのか、豪放な音量と暑苦しい音色に頼る作曲家が多い。エキゾチズムは相変わらずで、そのままタイの伝統音楽の様式を下敷きにするなどの段階に留まる作曲家も多い。
現実的にはタイの民俗音楽を用いて自由に作曲するクリストファー・アドラーのような存在のほうが、タイにとってはむしろ重宝されている。タイの伝統様式を借用する作曲家が存在しても、洋楽器とタイの楽器を混ぜて自由に作曲するアイデアは、タイ人では生み出せなかったのである。現在フライブルクにいるクラウス・フーバーの弟子のカッツ(1957-)が唯一のポスト前衛世代のタイ出身者であろう。
[編集] ラオス
[編集] ミャンマー
[編集] シンガポール
[編集] 日本
戦後当初の日本の楽壇ではドイツ系諸井三郎門下の「新声会」およびフランス系池内友次郎門下の「地人会」をはじめとする流派が主流と見られていたが、その枠組みの外では松平頼則や清瀬保二ら新作曲派協会の活動、実験工房出身の武満徹や湯浅譲二、鈴木博義らの活動(武満と鈴木は新作曲派協会にも参加)がより前衛的な語法を目指し活動していた。また、黛敏郎によるあらゆる西洋前衛語法の模倣と紹介や、後には一柳慧らによるジョン・ケージなどアメリカ実験音楽の紹介などによって、ヨーロッパやアメリカの前衛音楽を吸収していった。
また1957年からは二十世紀現代音楽研究所による軽井沢現代音楽祭が計3回開かれ、ヨーロッパの前衛現代音楽が次々と紹介された。作曲コンクールも行われており、後の電子音楽の巨匠となったローランド・カイン、武満徹、松下眞一が受賞者に見られることからも、志の高さがうかがえる。この催しはドイツのダルムシュタット夏季現代音楽講習会およびドナウエッシンゲン音楽祭を強く意識しており、後述する秋吉台国際20世紀音楽セミナー&フェスティバルを歴史的に先取りするものである。また1960年からの草月アートセンターによる現代音楽演奏会草月コンテンポラリー・シリーズもヨーロッパおよびアメリカの最新現代音楽シーンを紹介し続けた。
1964年からは邦楽器ブームが起こり、日本の西洋系現代音楽の作曲家の間で邦楽器を使った現代邦楽作品が多数作曲される。特に武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」(琵琶、尺八とオーケストラのための)は国際的にも広く認知され、この分野で最も成功を収めた作品である。後には邦楽器ブームは近世邦楽のみならず雅楽の楽器にも広がり、国立劇場の委嘱活動として雅楽の編成を用いた現代雅楽作品が黛敏郎、武満徹、カールハインツ・シュトックハウゼンらにより作曲される。1970年には大阪万博が開かれ、大掛かりなテープ音楽の上演を含む多くの催しが行われた。この万博をもって日本の現代音楽、さらに日本の前衛現代芸術はひとつの頂点を迎える。日本中のゲーテ・インスティチュートで日独現代音楽演奏会が行われていたのも、このころであった。
前衛の停滞期以後、日本ではマニエリスムが先行しエクスペリメンタリズムの音楽と呼ばれる実験主義による次世代(かつての前衛世代以後)のヨーロッパ前衛音楽はなかなか認知されなかった。しかし、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会の日本版を意図して細川俊夫が主催した秋吉台国際20世紀音楽セミナー&フェスティバル(1989年 - 1998年)によってヨーロッパのエクスペリメンタリズムの音楽が次々と紹介され、さらに、1960年代生まれ以降の作曲家を中心に、日本の作曲家の潮流として秋吉台世代という新たな枠組みを生み出した。現在は別組織武生国際作曲ワークショップ(監督はやはり細川俊夫)によって類似の活動が行われている。
またその他にも同じベルリンで勉強した電子音楽作曲家の嶋津武仁とその弟子たちによる前衛音楽の活動、東京学芸大学で教べんをとった吉崎清富門下生らの活動も、秋吉台世代や武生世代との対立軸をなす一つの大きな潮流になり、楽壇に次第に強い影響を与えつつある。現在では現代の波‐現代音楽祭、京都・若い作曲家による連続作品展、日伊現代音楽交流会、九州現代音楽祭、札幌現代音楽展SGO、プレゼンテーションなどの催しは継続しており、日本全体の潮流は常によりよい細分化を目指している。
日本においては、機械的な処理を必要とする現代音楽に対し「NHK電子音楽スタジオ」の設置やその他の支援によって多くの実験的作品が作られ、FM放送番組「現代の音楽」などでも定期的に紹介されるなど、NHKが果たした役割は大きい。アメリカの現代作曲家のトップレベルに位置するデアリ・ジョン・ミゼル、マイケル・ピサロ等の紹介が遅れ、イアニス・クセナキスやポーランド楽派の紹介が驚異的に早かったのは、第二次世界大戦における敗戦が原因とみられる。伝統を背景としたこれまでの傲慢さが欠け、なお大きな謙虚さがあったのではないかと見られていて、ドイツ音楽の戦後の発展と似た道を進んでいる。
現在も、松平頼則が逆輸入の形で日本に紹介された様に、若手作曲家の何割かも逆輸入の形で日本に紹介される。21世紀を迎えた現在では、音楽大学や国内コンクールで過少評価された者が国際コンクールで優勝するという珍事すら起きている。また、国際コンクールで入賞歴を積んでから、国内コンクールへ出品するケースも出現している。このことは、専門家としての資質を著しく欠く音大生や教師など、日本の音大の教育現場がいまだに現代音楽を消化できない証左であり、事態は深刻である。