クラウス・フーバー
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クラウス・フーバー(Klaus Huber, 1924年11月30日 ベルン - )は、スイスの現代音楽の作曲家。
目次 |
[編集] 略歴
最初スイスの音楽大学でヴァイオリンを専攻するも、後に手を痛めて作曲科に転向。ベルリンのボリス・ブラッハーに師事。
[編集] 教育面
フライブルクの作曲の教師以降師事する日本人も数多く、その弟子達の多くはフライブルク楽派の中心人物として活躍している。彼の教育法は極めて客観的でドグマを作らない事で知られる。ゼミやではわかりやすく極度にゆっくり語り、外国人にも理解漏れなないようにたえず気を使う。レッスンでは弟子のスコアの間違いや矛盾点を抜け目なく指摘するが、決して強制的に直させるのではなく本人に再考させそのまま無責任に放って置くことが特徴である。この特徴に多くの作曲家が惚れ込み、彼に師事した作曲家はなんらかのかたちで独自の道を歩むものが多い。
[編集] 年表
- 1959年 ローマのIGNMで「魂へ語りかける天使たち」(Des Engels Anredung an die Seele)を初演。
- 1964年 バーゼル音楽アカデミーの作曲クラスの指揮(1973年まで)
- 1969年 スイス連邦共和国の国際作曲セミナーを創設
- 1978年 バーゼル市芸術賞受賞
- 1991年 フライブルク音楽大学の教師を引退
- 2007年 ドイツのシュべービッシュハル教会音楽賞を受賞
[編集] 作風
1960年代末までは、シュトックハウゼンやブーレーズなど、戦後前衛音楽の主唱者の陰に隠れた存在だった。その状況についてフーバーは「60年代は如何に書くかばかりが追究され、作家性が消滅した」と釈明したが、当時のフーバー自身の作曲姿勢は、「弦楽四重奏曲第1番」、「からし種」、「サバト」などの諸作品に見られるとおり、時流の前衛イディオムをおずおずと追いかけるものだった。
クラウス・フーバーが真に自己の個性に開眼し、なおかつ作曲家として認められるようになったのは、1970年代に前衛が停滞して「作家性」が求められる時代に入ってからである。この間フーバーは、教職に就きながら状況の打開を辛抱強く待っていた。この経緯は尹伊桑やハインツ・ホリガーなどのように、1970年代から一層輝きを増した作曲家たちの歩みとも重なり合う。しかし、フーバーはそのような作曲家たちとは大きく異なり、新しいリズム語法や音空間をたゆむことなく開拓し続け、前衛的な姿勢を突き崩すことがなかった。
全盛期と称される1980年代は作曲に方眼紙を用いて、緻密にパルス感覚を設計している。マイケル・フィニスィーは「なんと怪しい作曲語法であろうか」と語ったという。実際、キリスト教神秘主義からの影響は公に認めていて宗教的作品が多くノーノの晩年の神秘性との共通点もある。これはノーノが晩年までフライブルクで電子音楽の仕事をしていたのと無関係ではない。この時期のK・フーバー作品は伝統的に書くか前衛的に書くかといった問題を完全に超越していた。古楽器演奏からアラビアの抑揚まで多くの作曲様式を混雑させることがあっても、シュニトケの「多様式主義」との類似は皮相な面にとどまっている。
1994年作の「20世紀末への哀歌」では簡素な定拍パルスが異なったズレを伴いながら変容し、最終的には13分音符や15分音符などの「非合理パルス」へと成長して、ラストまで全く聞き飽きることがない。老境に入っても、新たな時間の感覚への興味が止まない稀有な人材でもある。こうした複雑なリズム感覚はラッヘンマンやケレメンらのシュトットガルト学派の語法とは対極をなし、かつ彼の弟子のファニホーやヒューブラーなどの方法論につながる物である。いっぽう現在の作風においては、歌手が平易なアリアを担当するなどの伝統的な態度も復活している。