アーレフ
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Aleph(アレフ)とは、2000年2月4日に発足した宗教団体。オウム真理教からアレフと改称して発足し、2003年2月にアーレフに改称、そして2008年5月にはAlephに改称した。なお、アーレフないしアレフ(英:aleph)とはヘブライ文字の第一文字 の名称である。
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[編集] 名称について
事件後教団は破産し、破産管財人からオウム真理教の名称の使用を禁止されたために、アレフ、後にアーレフに改称し、さらにAleph(日本語での発音はアレフ)に改称した[1][2][3]。現在、この宗教団体の正式名称は「Aleph」であり、「オウム真理教」という名称の宗教団体は現在存在しない。
しかし公安調査庁は、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法)の観察処分の対象団体を正式には「麻原彰晃こと松本智津夫を教祖・創始者とするオウム真理教の教義を広め、これを実現することを目的とし、同人が主宰し、同人及び同教義に従う者によって構成される団体」としており、これを略して「オウム真理教」と通常は記載している。これには、アーレフないしAlephは完全に含まれ、その外の分派も含まれる可能性が高い。2007年3月にアーレフを脱退した上祐史浩が2007年5月に設立した「ひかりの輪」についても公安調査庁は団体規制法に基づく観察処分対象としている。上祐のアーレフ脱退以降は、アーレフないしAlephの活動を特に区別する場合、公安調査庁は「オウム真理教主流派」「教団主流派(反上祐派)」といった表現を用いている。
また、マスコミでは現在でも「オウム真理教(アーレフ)」「オウム真理教(アレフ)」のように、「現在はアーレフに改称」などと注釈をいれつつオウム真理教を前面に出して報道している。前述のように団体規制法とそれによる公安調査庁の観察処分を前提とすれば、アーレフないしAlephの活動をオウム真理教の活動と報道することが適切だろう。一般論としてはマスコミが特定の団体などの固有名詞について旧名称のまま報道することはほとんど無いため、極めて例外的ではある。
[編集] 上祐脱会までの教団内派閥
- 代表派(M派・上祐派・J派)
- 教団代表である上祐を中心とした派閥。麻原彰晃(松本智津夫)外し(教団内の信者には「隠し」であると説明する)、旧オウム色の脱却を図って活路を見出そうとする。事件が再発しないことを強く主張する。主流派から分裂し「ひかりの輪」として活動を始めた。
- 主流派(反代表派・反上祐派・A派)
- 教団の大多数を占める。麻原への「帰依」を打ち出し、あくまでも旧オウムの教義を守ろうとするため、代表派からは「原理主義」と批判されるものの、事件の再発を防ぐ意図については、代表派と同じである。
[編集] 各正悟師の立場
代表派(上祐派)に対する各正悟師の立場は以下の通りである。
- 村岡達子
- もともと強硬な反上祐派であったが、四女派に転じた(教義上の違いがあっても上祐派を受け入れ、教団の分裂を避ける派)。
- 二ノ宮耕一
- 一度は上祐の復帰のために動いたが、直後に強硬な反上祐に転ずる。しかし、元々「アッサージ王国」とも呼ばれる独自派で、関西を拠点とし、関西圏を中心とした信徒教化に重きを置くため、反上祐運動を推進する立場にはならなかった。
- 杉浦茂
- 法律部門も担当するため、教団運営の個々の方針に関しては上祐の社会融和路線を是としているが、翻訳担当として教義を管轄する立場からは、上祐の唱える新教義に対して否定している。個々それぞれに思うように行動すればいい、という主張であり、特に一派をなしていない。
- 杉浦実
- 教義的に上祐の新路線は受け入れられないが、教団分裂という事態そのものに対して憂慮。一時期、自主的に修行に入り、教団の混乱に関わらないようにした。復帰後は中間派として、教団内の対立状態を緩和しようとする。教団の経理担当として、上祐派としての分離的な活動には資金を提供せず、あくまでも教団本体は正統派であるという立場を貫いており、この点から中間派は立場的には明らかに非上祐であるといえる。
- 野田成人
- 桃源クリーム事件のため拘留、執行猶予付き判決となり、この間の対立には直接参加していない。主流派であるものの、当初は上祐的な活動方針を容認していたこともあった。反上祐的な立場をそれほど明確にはしていないとされていた。また、野心の強い人物であると教団内で認識されることが多い。主流派の代表に就任した。
[編集] 来歴
[編集] アレフ発足前後
1999年頃より、一連の事件に対して全く反省していないオウム真理教に批判が集中した。これにより、オウム新法が制定されることになった。
1999年9月29日、教団は、批判に対応した措置として、対外的な宗教活動の休止と教団名の一時使用停止からなる「オウム真理教休眠宣言」を発表し、さらに同年12月1日、教団は新法逃れのために「正式見解」を発表、事件の関与を認め謝罪し、賠償を行うことになった。しかし、その直後にオウム新法は成立し、公布・施行された。
時同じくして1999年12月29日、上祐史浩は広島刑務所を出所し、教団に復帰した。上祐は「正大師」の称号を返上したとされ、2000年1月18日に教団は会見を開き、上祐の謝罪・反省の弁と村岡代表代行による教団改革の発表を行ったが、時既に遅く、教団はオウム新法の観察処分に処されることになった。ともあれ、発表された教団改革の内容にあわせ、2000年2月に新団体「宗教団体・アレフ」が発足され、教団の活動はアレフへと移行した。アレフの初代代表には、麻原逮捕後からオウム真理教代表代行を勤めてきた村岡達子がそのまま就任した。
2000年9月14日の公安調査庁によるアーレフ施設の立入検査にあたっては、教団と関係の深いフリージャーナリストに検査の動向を撮影させるなど、当初は立入検査における妨害行為や敵対行為もあった。
[編集] 上祐史浩の代表就任
上祐は教団復帰直後の新団体「アレフ」発足においてこそ教団役員にならなかったが、唯一の「正大師」という立場を背景に実権を握った。2001年8月に「旧宗教法人問題担当」として役員に就任したのち、2002年1月30日に正式にアレフ代表に就任した。
上祐史浩は、組織防衛のために「麻原外し」路線を推進、麻原を「開祖」「尊師」ではなく、「旧団体代表」と定義し、麻原の肖像を本尊とすることを禁じた。この方針に、麻原を崇拝する多くの信者が反発することになった。
なお、2003年2月に団体名を、びっくりドンキー等を経営する「株式会社アレフ」との誤認を避けるためアーレフに改称した。
[編集] 上祐「失脚」と復帰、その後の内部対立
2003年夏頃になると、上祐史浩の路線に対する不満が顕在化し、同年10月に上祐は「修行に専念(事実上の失脚)」することになり、教団の運営は旧長老部の手に移ることになった。
2004年11月になって教団運営に復帰したが、反上祐派との対立は深まるばかりで、教団の分裂状態が加速されていった。
2006年5月には、上祐が「人を神としない、新教団を2007年2月までに作る」ことをセミナーで宣言した。2006年7月には財政面、実務面ともに教団本体からの分離分裂が行われた。
その間、麻原夫人の松本知子一家に対して「松本知子作の絵画の使用料」名目で教団が資金援助を行っていたこと、松本一家が間接的ながらも教団に影響力を与えており、そのことが上祐派の排除に繋がっていることが明らかになった。
[編集] 上祐派「脱会」とさらなる内部対立
2007年5月7日、上祐史浩は新団体「ひかりの輪」を設立し、アーレフから完全に脱会した。
上祐派脱会後も内部対立は続いている。新代表の野田成人は主流派から完全に無視されており、杉浦兄弟は脱会、村岡達子も実質的運営から排除され、現在では「師」レベルの主流派幹部が実権を握っている。
[編集] 事件以前の教義への回帰
2007年9月30日、JNN報道特集においてアーレフへの長期潜入取材による特集が報道された[4]。フリージャーナリストが2006年から2007年8月にかけて潜入して撮影した映像を主体としたものであった。
そこでは、上祐派脱会後に教団内で麻原信仰が強化され、麻原彰晃を教祖・グルとして信仰し教育していくむねの教団幹部の発言や、アーレフ発足時に封印したはずのタントラ・ヴァジラヤーナやポアについて麻原が説法するビデオが教材として用いられている様が報じられた。また、ヘッドギアを使用する信者の映像も報じられた。これらの映像をもとに滝本太郎弁護士や公安調査庁の担当課長による危機感を表明するインタビューが併せて放映され、また、野田成人は教義におけるタントラ・ヴァジラヤーナの復活について、制止するだけの実権がないとして、報道を歓迎するむねコメントした。一方、野田から実権を握ると名指しされた荒木浩広報部長は取材を拒否した。
[編集] Alephへの改称と新体制発足
2008年5月20日、教団は名称の Aleph への改称、および旧役員に代えて合同会議による教団運営を主要な内容とする新体制発足を発表した[1]。合同会議は運営委員会[5]が主宰し、その共同幹事である上田竜也と松下孝寿が教団を対外的に代表するとしている。さらに、これまで新代表を名乗ってきた野田成人に対し、教団役員の地位の失効と代表地位の無効を通告した[1][3][6]。
新体制発足により、活動方針には麻原回帰の傾向がみられるとして公安当局は警戒しているという[2]。
[編集] 関連年譜
2000年2月以前については「オウム真理教」を参照のこと。
- 2000年2月1日 - 団体規制法に基づく公安調査庁長官の観察処分(3年間)が効力発生。
- 2000年2月4日 - 「宗教団体・アレフ」として再編。
- 2000年7月1日 - ロシアで松本智津夫の武力奪還・対日テロを図ったオウム信者逮捕(シガチョフ事件)
- 2002年1月30日 - 上祐史浩が教団代表に就任。麻原彰晃との決別を表明。
- 2003年1月23日 - 団体規制法に基づく観察処分の期間更新(2月1日から3年)決定。
- 2003年2月6日 - 「宗教団体・アーレフ」と改称した。
- 2003年2月現在 - 信徒数は1251人(教団が公安調査庁に報告した数)。
- 2004年2月16日 - 2月27日の松本被告の一審判決を前に公安調査庁が全国の教団施設11カ所を一斉に立ち入り検査。検査動員数約200人。
- 2004年2月27日 - 麻原彰晃こと松本智津夫に死刑判決下る。
- 2004年3月16日 - 和光大学が、既に合格した松本の三女を入学拒否したと発表。
- 2006年1月23日 - 団体規制法に基づく観察処分の2度目の期間更新(2月1日から3年)決定。
- 2006年2月7日 - 春日部共栄中学校が、既に合格した松本の次男を入学拒否した。
- 2006年9月15日 - 松本被告の死刑確定。
- 2007年3月1日 - 野田成人が、役員会決議により上祐の後任の代表に就任したと教団内部向けに発表(主流派からは認められていない)
- 2007年3月5日 - 上祐代表が上祐派の60人程度とともにアーレフを脱退して、「脱麻原」を基本とする新団体を設立するという旨を公安調査庁に報告した。公安調査庁は、上祐新団体に対しても団体規制法を適用するとしている。
- 2007年3月8日 - 上祐代表が教団を脱退する。新団体は、旧オウムのような階級制度を撤廃し、宗教勉強会のようなものにすると述べている。また、遺族や被害者への補償は新団体でも行なうとしている。
- 2007年7月 - 杉浦茂、実の兄弟が相次いで脱会。
- 2007年8月 - 全国8ヵ所の夏季集中セミナーで麻原彰晃の説法ビデオを連日参加者に視聴させたと報じられる[7]
- 2008年5月 - 「Aleph」と改称した。
[編集] 脚注
- ^ a b c 本団体の新しい体制の発足について Aleph広報部 2008年5月20日
- ^ a b オウム真理教:新綱領施行、「麻原回帰」も 「アレフ」に改称 毎日新聞 2008年5月21日 東京朝刊
- ^ a b アーレフ、「合同運営」体制に変更 新たな規則定める アサヒ・コム 2008年05月20日22時59分
- ^ 松本死刑囚が再び「教祖」に 2007年9月30日JNN報道特集
- ^ Aleph運営委員会
- ^ 通告書 2008年5月20日 宗教団体アーレフ改めAleph合同会議
- ^ 「オウム真理教と上祐派、夏季セミナーで2700万円集める」読売新聞2007年8月29日配信
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Aleph(アレフ) 反上祐派(主流派)