シガチョフ事件
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シガチョフ事件(―じけん)とは、ドミトリー・シガチョフ(Дмитрий Сигачев)を首班とするオウム真理教のロシア人信者による同教団教祖麻原彰晃(松本智津夫)奪還を目的とした対日テロ未遂事件。日本政府に対する脅迫のため、日本各地での爆弾テロ等が計画されていた。日露当局者の協力により未遂に終わる。
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[編集] ロシアにおけるオウム真理教
1991年、オウム真理教教祖麻原彰晃が、ロシアを初訪問した。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ウラージミロヴィッチ・ルツコイやヴィクトル・チェルノムイルジン、ユーリ・ルシコフ等ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。
ロシアの声や「マヤーク」(Маяк)によるラジオ放送が流され、「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの特殊部隊施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどの軍事物資が輸入されている。更に麻原は、ロシアに数ヶ所の支部を開設。ソ連の崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。その中には、ドミトリー・シガチョフもいた。
1993年までに、ロシアでは、かなり強力な組織が形成された。その構成員は、説法集を読むことで修行していたが、その中には、軍事科学を研究する個別の戦闘グループも存在した。同年、麻原は再びロシアを訪問した。この時、シガチョフは、麻原によって個人的にサマナ(出家修行者)に昇格させられた。
しかし、地下鉄サリン事件は、教団とその信者が危険であることを全世界に示した。日本では、麻原彰晃が逮捕され、多くの国でこの運動は禁止された。ロシアでも、1995年4月18日付モスクワ・オスタンキノ地区自治体間裁判所の決定により、オウム真理教は禁止された。しかし、教団が禁止されたにも拘らず、その多くの構成員は、教祖を信仰し続けた。彼らは、互いに交流し、様々な計画が生み出された。
[編集] 対日テロ計画
[編集] テロ・グループの誕生
麻原逮捕後、シガチョフには、麻原彰晃がいなければ、オウムの思想、そして全人類が早期に滅亡するとの妄想が生まれた。この妄想は徐々に麻原解放の構想へと変わり、彼は自分の見解をインターネットのサイトで詳細に叙述した。1999年初め、2人のオウム信者、ボリス・トゥペイコ(Борис Тупейко)とアレクサンドル・シェフチェンコ(Александр Шевченко)が彼の構想に加わった。こうして、麻原を解放し、彼をロシアに連れ出す任務を帯びたグループが誕生した。
このためには、金と武器が必要とされた。当初、彼らは、知人から1万2千ドルを借り受けた。当初、トゥペイコは、TT拳銃(いわゆるトカレフ拳銃)とカラシニコフAK47S自動小銃、およびその弾倉2個以上と弾薬を調達した。しばらく後に、もう1挺のTT拳銃が調達された。武器の点検のため、グループ構成員は、郊外に出て、銃を試射した。
電気工学に明るく、破壊工作員としてグループに加わったシェフチェンコは、かなり高度な電気信管を設計した。これは、携帯電話を使った遠隔操作で起爆させるものであり、携帯電話の電波の通じるところなら、世界のどこからでも信号を送ることができたということになる。
[編集] 資金調達と爆弾製造
その後、シガチョフは、資金不足を実感し、インターネットを通して、日本の信者と連絡することに決めた。シガチョフは、ウィーンでキーレーンの元団長、石井紳一郎(ウルヴェーラ・カッサパ)と会見し、3万ドルを受け取り、モスクワに戻った。後には、更に9万ドルの援助を受けている。
シガチョフは、日本への交通の便から、ウラジオストクをテロ準備の拠点に選び、2ヶ所のアパートを借りた。ところが、ここで爆弾製造担当のシェフチェンコがメンバーから外れた。4基の起爆装置が残されていたが、操作が複雑で、シェフチェンコ以外には取り扱えなかった。シガチョフは、インターネットを通して、遠隔で電気パルスを発生できる電子装置の製造を注文した。シガチョフの注文を見た専門家は、それが爆弾製造用であることを見抜き、知り合いの沿海地方内務局の捜査官に通報した。
民警職員は、2ヵ所のアパートの住所を直ちに特定し踏み込んだが、アパートは平穏そのもので異常はなく、シガチョフは必要な書類を全て揃えていた。シガチョフは、用心のため、新しいアパートに転居し、全ての武器を運び出した。民警職員の家宅捜索は成果を収めなかったが、ウラジオストクへのオウム真理教信者出現の知らせは、連邦保安庁(FSB)沿海地方局の耳にも入り、グループ構成員、その連絡及び意図の特定に乗り出した。
その間、シガチョフは、計画を立案し続け、インターネットを通してウラジオストク在住の2人のオウム信者、ヴォロノフとユルチュクと接触した。両者は日本のタイヤを売るビジネスに従事していた。シガチョフは、両者に計画を打ち明け、2人ともグループに加わった。
2月~3月、グループはアパートを変え、シガチョフはウボレヴィッチ通りに、残りのメンバーはトゥハチェフスカヤ通りのアパートに居住した。間もなく、アパートの近くのガレージ協同組合から倉庫を借り、調達した武器類を格納した。
[編集] シガチョフ・チェイス
シガチョフは、現地偵察のために日本に向かった。青森市、新潟市において、爆弾の設置に適した人口密集地、休憩場所、爆弾の保管場所を選定し、その写真を撮影した。沿海地方に戻った後、トゥペイコと共に麻原脱出用の小型船舶の操縦免許を取得した。
トゥペイコは、中国製目覚まし時計を利用した7個の起爆装置を組み立てていた。ところが、組立作業中、ミスにより雷管が暴発し、トゥペイコは病院に運び込まれた。トゥペイコは、事故現場に駆けつけた民警職員に尋問されたが、適当な話をでっち上げてその場をごまかした。この後、武器と爆弾は別の場所に移された。計画では、シガチョフとトゥペイコは飛行機で、船員パスポートを有するヴォロノフは船で日本に潜入する予定だった。6月13日、武器と爆弾がアパートに運び込まれ梱包された。
2000年6月22日、シガチョフはウラジオストクから新潟空港へ入り、日本でのテロ行為の準備を行なおうとした。これに対し、他のロシア人信者からシガチョフの行動についての連絡を受けたアレフ、上祐史浩は、まず東京入国管理局(新潟空港のある新潟県を管轄)と交渉して入国を阻止しようとした。しかし入管は入国を認めてしまう。上祐は警視庁公安部と連絡をとりつつ、信者を派遣して24時間行動確認を行なう。シガチョフは福岡に移動し、さらに当時開かれようとしていた九州・沖縄サミット会場の沖縄へ向かうつもりだったが、警視庁・福岡県警の説得により、自由な行動が不可能であると悟り、断念。新潟に戻り、6月25日に帰国する。
[編集] ヴィフリ-アンチテロル作戦
日本側からの制止にも拘わらず、シガチョフを思いとどませることはできなかった、2000年6月28日、シガチョフはFSB職員と接触し、日本に対するテロ行為の意図について表明した。7月4日、FSB沿海地方局の捜査官によりシガチョフは逮捕され、後にヴォロノフとトゥペイコも逮捕されたが、ユルチュクは逃亡に成功した。ユルチュクは指名手配され、1年後の2001年7月13日に逮捕された。ハバロフスクでの医療鑑定において、ユルチュクは社会的に危険人物と認められた(別件で資金調達の際にモスクワで殺人を犯している)。
[編集] 裁判
2002年1月23日、ロシア沿海地方裁判所は、5人の被告に対して、自由剥奪(懲役刑)など、以下の判決を下した。
- ドミトリー・シガチョフ:自由剥奪8年
- ボリス・トゥペイコ:自由剥奪6年6ヶ月
- ドミトリー・ヴォロノフ:自由剥奪4年6ヶ月
- アレクサンドル・シェフチェンコ:自由剥奪3年(執行猶予)
- アレクセイ・ユルチュク:集中監視を有する特殊精神病院での強制治療
刑期は、2000年7月1日から起算。
[編集] 関連項目
- ロシア連邦保安庁沿海地方局
[編集] 外部リンク
- ロシア人元信者の武器不法所持事件に関連して(宗教団体アーレフ [マスコミ発表])
- Дело Дмитрия Сигачёва о незаконном хранении оружия бывшим российским членом АУМ Синрикё.(アーレフ・ロシア支部マスコミ発表)
- РУССКИЕ БОЕВИКИ СПАСАЛИ УЧИТЕЛЯ АСАХАРУ(ロシア連邦保安庁公式代表のコメント)
- «АУМ Синрике»: приговор привести в исполнение(2002年1月25日付「ウラジオストク」紙、判決時の記事)
- オウム/アレフの物語 - シガチョフ・チェイス(2000年5月、シガチョフの来日時に行動確認を行なった元出家修行者による記録)