村井秀夫刺殺事件
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村井秀夫刺殺事件(むらいひでおしさつじけん)とは、1995年4月23日に発生した殺人事件。オウム真理教の幹部で「科学技術省大臣」村井秀夫が、東京都港区南青山にあった教団東京総本部前で自称右翼団体構成員に殺害された事件である。
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[編集] 犯行
1995年4月23日午後8時35分、教団東京総本部前において、山梨県上九一色村のサティアン群から戻ってきた村井が刃物をもった男に襲われ、左腕と右脇腹を刺された。直ちに村井は救急車で東京都立広尾病院に搬送されたが、右脇腹に受けた深さ13cmの刺し傷が致命傷となり、出血性ショックによる急性循環不全の為、翌日午前2時33分に死亡した。
犯人は昼頃より事件現場に待ち伏せており、計画的犯行であることが伺えた。事件後直ちに逮捕された。
事件直後の上祐史浩広報部長(当時)の証言によれば、村井は死ぬ間際に「ユダにやられた[要出典]」と話したという。
[編集] 犯人と裁判
犯人は偽右翼団体「神洲士衛館」の構成員を名乗っていた。しかし「神洲士衛館」は政治活動をほとんど行ってない休眠団体で、実際は山口組系暴力団「羽根組」の構成員で、在日朝鮮人の徐裕行だった。犯人の供述により、羽根組の若頭も共犯として逮捕された。
裁判では、犯人は羽根組若頭の指示により犯行に及んだと主張した。一方、羽根組若頭は「指示」そのものを否定した。警察の調査でも、羽根組若頭とオウム真理教の接点が見当たらなかった。むしろ犯人そのものに特定の外国の不可解なつながりがあったという。
そして、犯人の徐に懲役12年、羽根組若頭に無罪の判決が下り確定した。
[編集] 教団の供養
教団では村井が死亡した4月24日以降の10日間、事件現場となった東京総本部前で教団独特の踊りを披露し、村井を追悼した。1踊りの期間を10日間とした理由は、「死者は遅くとも死後49日以内に輪廻転生するが、これが早ければ早いほど高い世界に転生し、遅いほど低い世界(人間界は45日目、地獄界は49日目)に転生する。」という教団の教義に基づくもので、村井は幹部としての「功績」が高いので10日以内に転生するとされたためである。
また、『巨聖逝く 悲劇の天才科学者 村井秀夫』『巨聖逝く マンジュシュリー・ミトラ正大師物語(漫画版)』を急遽発刊し、村井の「功績」を称えた。
[編集] マスメディアの報道
事件発生当時は地下鉄サリン事件をオウム真理教が引き起こした疑惑が深まった時期であり、村井を報道陣が取り囲んでいた最中に起こった。テレビのニュース番組やワイドショー等が犯行の場面を繰り返し放送したため、事件報道のあり方に議論を巻き起こした。殺人事件の瞬間がこれほど生々しく取材・報道されたのは1960年の浅沼社会党委員長刺殺事件、1985年の永野豊田商事会長刺殺事件に次いで現代日本では稀である。直後、どこからか村井の遺体の写真が週刊誌に流出し、物議を呼んだ。
また、被害者が毒劇物の生産や一連の事件を首謀する立場だったとみられることから、オウム真理教内部による口封じではないかという見方が非常に強かったものの、刑事事件としてはオウム真理教の関与はないと認定されている。