愛新覚羅溥儀
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愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、満洲語名:アイシンギョロ - [1]、簡体字:爱新觉罗溥仪、漢語拼音:Àixīnjuéluó Pǔyí=アイシンジュエルオ・プーイー、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、中国における清朝の第12代皇帝宣統帝(せんとうてい、1908年 - 1912年)。「最後の皇帝」として広く知られる。清朝崩壊後に日本政府および軍の支援を受け、満洲国の執政、満洲国が帝政に移行すると皇帝として即位、康徳帝(1934年 - 1945年)を名乗る。字(あざな)を「浩然」あるいは「耀之」という。
廟号は恭宗(2004年に与えられたが、公式ではない)。また、辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。
目次 |
[編集] 略歴
- 1906年:醇親王載灃の子として北京に生まれる
- 1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
- 1912年:退位し「大清皇帝」となる
- 1917年:張勲の復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位
- 1922年:正妻の婉容、側室の文繍と結婚
- 1924年:クーデターにより紫禁城から退去
- 1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任
- 1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位
- 1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後ソ連軍の捕虜になる
- 1946年:東京裁判にソ連の証人として出廷させられる
- 1950年:中華人民共和国に身柄を移され政治犯収容所に収容される
- 1959年:模範囚として釈放され、その後北京文史資料研究委員会に勤務
- 1962年:李淑賢と再婚
- 1964年:中国共産党政治協商会議全国委員に選出される
- 1967年:北京で死去
[編集] 経歴
[編集] 第12代清朝皇帝
1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の弟である醇親王載灃の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。1908年に、当時強い権力を持っていた西太后が、周囲の強硬な反対意見を押し切り自ら推薦することで、わずか3歳の時に皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝となり、多くの宦官とともに紫禁城で暮らすこととなる。
溥儀が即位すると西太后は、醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、実質的な院政を敷いたものの、その甲斐もなく同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。
なお、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、自分の最期を悟った西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために毒薬投与により暗殺したとする説がある(2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出され、この説を裏附けることとなった)。
[編集] 清朝崩壊と退位
その翌年の1909年初めに醇親王は、兄である光緒帝の戊戌変法を潰したとして袁世凱を失脚させ、さらに袁世凱を殺害しようとしたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れた。その後袁世凱は孫文の中国革命同盟会と協力し、清国政府による鉄道の国有化をきっかけに起きた1911年10月の辛亥革命により清国を滅ぼし、1912年1月には、孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立した。
その後同年2月に袁世凱は孫文に代わり、自らを大総統とする共和制国家の中華民国(北洋軍閥政府)を設立した。この為に溥儀は同月に退位することとなるものの、袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」に基づき「大清皇帝」の尊号を名乗ることになり、また、引き続き多くの宦官を抱えた上で紫禁城で生活することが許された。またこの頃、弟の溥傑と初対面を果たす。
その後、袁世凱は溥儀に代わり自らが皇帝となるべく奔走し、1915年12月12日に帝政復活を宣言して皇帝に即位した。その後1916年1月1日より年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めた。たが、北洋軍閥や日本政府などの各方面からの反対により即位直後の同年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去した。
[編集] 張勲復辟事件
袁世凱が死去した翌年の1917年に、対ドイツ問題で黎元洪大総統と政敵の段祺瑞の確執が激化し、同年5月23日には黎元洪大総統が段祺瑞を罷免に追い込んだものの、民国期になっても辮髪を止めないほどの保守派で、革命後も清朝に忠節を尽す張勲が、この政治的空白時に乗じて王政復古によって政権を奪還しようと、中華民国の立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、すでに退位していた溥儀を再び即位させて7月1日に帝政の復古を宣言。いわゆる「張勲復辟事件」に発展した。
張勲は幼少の溥儀を擁して自ら議政大臣と直隷総督兼北洋大臣となり、国会及び憲法を破棄し、共和制廃止と清朝の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れオランダ公使館に避難。最終的に溥儀の復辟は13日間で挫折した。その後中国大陸は馮玉祥や蒋介石、張作霖などの軍閥による勢力争いという、混沌とした状況を迎えることとなる。
[編集] 西洋風教育
その後、西太后の側近であった李鴻章の息子で、清国の欽差全権大臣を務め、駐イギリス特命全権大使でもあった李經方の勧めによって、1919年5月から1924年までの間、紫禁城内にイギリス拓務省の役人であったスコットランド人のレジナルド・ジョンストンを帝師(家庭教師)として招聘し、近代的な西洋風の教育と英語の教育を受けた。
この頃溥儀はキリスト教徒のジョンストンより、「ヘンリー(Henry)」というクリスチャン・ネームを与えられ、その後もこの名前を好んで使用した。なお溥儀はクリスチャン・ネームを持ったものの、クリスチャン・ネームを持つ多くの中国人と同じくキリスト教徒にはならなかった。
ジョンストンの影響を受けた溥儀は、その後洋服や自転車、電話を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらした西洋(イギリス)風の生活様式の影響を受けることとなる。
[編集] 結婚
その後の1922年には。正妻である婉容と側室である文繍と結婚し、紫禁城において結婚式を挙げる。なお結婚後婉容には「エリザベス(Elizabeth)」のクリスチャン・ネームが与えられた。
この頃溥儀は、1924年に教育掛となった総理内務府大臣の鄭孝胥の薦めを受けて、溥儀経費削減とともに宦官の汚職や紫禁城内の美術品の横領を一掃するために、ほとんどの宦官を一斉解雇するなどの紫禁城内の近代化を図り、議論を呼んだりしたものの、中華民国内の混沌とした政情の中にあって正妻と側近らとともに紫禁城の中で平穏な日々を過ごしていた。
[編集] 紫禁城追放と日本との接近
しかし、1924年10月に馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)により、袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」は反故にされ、紫禁城を追われることとなった。
当初はジョンストンを通じて上海租界や天津租界内のイギリス公館に庇護を申し出たが、内政干渉となることを恐れたイギリス政府によって受け入れを拒否されたために、翌1925年に溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津の日本租界に移り、日本の公館の庇護を受ける。この事をきっかけに、1905年の日露戦争の勝利によるロシア権益の移譲以降、中国大陸への本格進出の機会を狙っていた日本陸軍(関東軍)と緊密な関係を持ち始める。
その後溥儀と別れたジョンストンは天津港よりP&Oの汽船でイギリスに帰国した。帰国後はロンドン大学の東洋学及び中国語教授に就任し、溥儀の家庭教師時代を綴った「紫禁城の黄昏」(原題:『Twilight in the Forbidden City』)を著した後、イギリスの租借領であるポート・エドワード(威海衛)の植民地行政長官(弁務官)に就任したが、すでに日本と密接な関係を持っていた溥儀との再会は果たせなかった。
[編集] 文繍との離婚
その後溥儀は婉容と文繍、側近らとともに天津で暮らしていたが、正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居の末に、1931年に離婚することとなる。このことにより溥儀は中国の歴史上初の離婚歴を持つ皇帝となった。
離婚後文繍は溥儀に対して慰謝料を求めて告訴した上で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露し話題を呼んだ。文繍は離婚後すべての位を剥奪され平民となり、小学校の教師として1950年に一生を終える。溥儀は、満州国建国に伴い執政に就任した後の1937年に関東軍の薦めで譚玉齢と李玉琴を側室とするが、その後関東軍に対して反抗的な行動を取った譚玉齢は1942年に不審死を遂げる。
[編集] 満洲事変
1931年9月18日に、中華民国の奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し中国大陸に展開する日本陸軍によって満州事変が発生し、全満州地域を関東軍が占領したが、張学良は中華民国政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満州から撤退し、間もなく満州は関東軍の支配下に入った。
その後関東軍は満洲に対して永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した傀儡国家の樹立を目論み、親日的な軍閥による共和国の設立などを画策したものの、この様な形での共和国の設立は正当性に乏しく、満州国国民のみならず国際連盟加盟国をはじめとする国際社会の支持を得にくいと判断したことから、国家に正当性を持たせるために清朝の皇帝で満洲民族出身であった溥儀を「皇帝」に擁くことを画策した。
[編集] 満洲国建国
この様な目論みを受けて、関東軍の特務機関長であった土肥原賢二が同年11月2日に溥儀の説得にかかった。土肥原ら関東軍による「清朝の復辟」を条件に満州国皇帝への即位を同意した溥儀は、天津の「自宅」を出て11月13日に営口に到着、旅順の関東軍の元に留まった。なおこの後、川島芳子が天津に残された婉容を連れ出すことを関東軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。
その後、遼寧(当時は奉天省)、吉林、黒竜江省の要人が関東軍との協議を開始し、1932年2月18日に、後に満州国の国務院総理となる張景恵を委員長とする東北行政委員会が蒋介石率いる中国国民党政府からの分離独立を宣言し、「大同」元年(1932年)3月1日に、新京に首都を置く満洲国が建国された。なおこの建国に至る協議に溥儀は参加しなかったばかりか、その内容さえも伝えられることはなかった。
[編集] 「執政」就任
満洲国の建国を受け溥儀は同年3月9日に満洲国の「執政」に就任した。この際に溥儀は、かつて皇帝であったこともあり、格下である「執政」への就任を嫌がり、あくまで皇帝への即位を主張するが、関東軍から「時期尚早」として撥ねつけられてしまう。なお、「執政」となった溥儀は、関東軍の日本人将校から、皇帝へ対する敬称である「陛下」ではなく、執政に対する呼び方である「閣下」と呼ばれ激怒したと伝えられている。
なお、溥儀が「執政」に就任した直後の3月に、国際連盟から柳条湖事件及び満州事変と満州国、および日本の調査のために派遣されたイギリスのヴィクター・リットン卿率いる、いわゆる「リットン調査団」が満州国を訪問し、5月には溥儀にも調査の一環として調査団を謁見した。
[編集] 皇帝即位
その後1934年3月1日には満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となる。なお溥儀の皇帝即位に併せて正式国名が満洲帝国に改名され、元号も「康徳」に変更された(当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また、同時に紫禁城時代からの教育掛であった鄭孝胥が国務院総理に就任した。
なお、同日に行われた皇帝即位式の際は、「五族協調」を掲げる上で、満州族の民族色を出すことを嫌った関東軍からの強い勧めで満州国軍の軍服(大総帥服)着用で行われたが、溥儀の強い依頼により、新京市内の順天広場に置かれた特設会場にて、即位式に先立って即位を清朝の先祖に報告する儀式である「告天礼」が行われ、この際に溥儀は満州族の民族衣装である龍袍を着用した。しかし同時に満州帝国政府からは「これは清朝の復辟を意味しない」旨の声明が出されていた。
[編集] 皇宮
皇宮は「執政」当時と同様に満洲国の首都の新京(現在の長春)市内に置かれた。当初溥儀夫妻は内廷の緝煕楼(しゅうきろう)に住んでいたが、「皇宮とするには狭く威厳が足りない」と考えた満洲国政府により、1938年に新たに同徳殿(どうとくでん)が皇宮として建てられた。しかし、関東軍による盗聴を恐れて溥儀自身は一度も皇宮として利用しなかった。
[編集] 「傀儡」
日本の主導によって作られた満洲国の憲法上では、皇帝は国務院総理を始めとする大臣を任命することができたが、次官以下の官僚に対しては「日満議定書」により、関東軍が日本人を満洲帝国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていたので、関東軍の同意がなければ任免することができなかった。実際に、関東軍の高級将校で「御用掛」である吉岡安直や工藤忠が常に溥儀とともに行動し、その行動や発言に対し「助言」するなど、皇帝の称号こそあるにしろ、事実上日本及び関東軍の傀儡であっただけでなく、特に吉岡は裏で溥儀のことをバカにするような発言を繰り返していたと伝えられている。
また、国体に関わるような重要事項の決定には溥儀だけでなく関東軍の認証が必要であり、また満州国の官職の約半分が日本人で占められ、建国当初は満州国独自の軍隊や国籍法が存在しないことなど、関東軍の影響力は大きく、また日本人側も支配者意識を丸出しにして現地人の土地を強制徴収し日本人入植者に供与するなど、日本が満州国の建国時に掲げた「五族協調」は名ばかりであった。
その上に、1937年2月には、溥儀と関東軍の植田謙吉司令官の間で「念書」が交わされ、「満洲帝国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」とされ[2]、実際に溥儀に男子がいなかったことから、事実上溥儀の後継者は日本(関東軍)が定めることとなった。これ以降溥儀は、以前に比べて関東軍による暗殺(と溥儀の暗殺による皇帝の交代)を恐れるようになって行ったと言われている。
さらに、1940年7月に溥儀が2度目の訪日を行い伊勢神宮を訪れた後には、満州帝国内に「建国新廟」が作られ、神体として天照大神が祀られ満州帝国の国民は東方遙拝や天照大神への崇拝が強制されることとなった。
[編集] 日本国皇室との関係
この様な状況下ではあったものの、1937年4月3日に弟の溥傑が、天皇家に繋がる名門華族の嵯峨家(旧姓・正親町三条家)令嬢の嵯峨浩と結婚した他、これに先立つ1935年4月には昭和天皇の招待により日本を公式訪問するなど、溥儀以下満州国の王族は日本及び日本の皇族と密接な関係を保ち続けた。
この様な親しい関係を表すように、溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なった。なお、訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行したほか、訪日中は日本中のマスコミが溥儀の発言を逐一報道し、いわゆる「追っかけ」も発生するなど、溥儀自身の人柄もあいまって日本の皇室や指導者層のみならず日本国民からも高い人気を集める。
また、1940年6月に皇紀2600年記念行事が東京で行われた際にも奉祝のために再び訪日し、横浜港で高松宮宣仁親王の出迎えを受けた後に再度昭和天皇と会見している。
なお、溥儀が初来日から帰国した際には「もし満洲国皇帝に不忠であれば、それは日本天皇に不忠であり、日本天皇に不忠であれば満洲皇帝に不忠となる」と満州国政府首脳部に対して訓示を行った他、2度目の来日の際に伊勢神宮を訪問した際には「日満一神一崇」を表明するなど、日本国の皇室との親しい関係を、自らに対して軽視する態度を持つ関東軍に対する牽制のために利用したとも評されている。
[編集] 日中戦争と第二次世界大戦
溥儀が皇帝に就任した4年後の1937年7月7日に、北京西南の盧溝橋で起きた盧溝橋事件を契機として日本軍と中華民国軍の間で日中戦争(支那事変)が勃発した。その後、内戦状態にあった中国国民党と中国共産党は、日本軍に対抗するための抗日民族統一戦線である国共合作(第二次国共合作)を構築した。
その後の1941年12月7日の大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦により、日本が連合国と交戦状態に入ると、満洲帝国も日本に併せて連合国各国に対し宣戦布告をし、事実上枢軸国の1員として第二次世界大戦に参戦することとなった。しかし、日本軍とイギリス軍やアメリカ軍、中華民国軍との戦闘地域から離れていることや、満州帝国の事実上の宗主国である日本と隣国ソビエト連邦との間に日ソ中立条約が存在することから、中華民国軍や中国共産党軍によるゲリラ攻撃がたびたび行われていたものの、戦争状態にはならず平静が続いた。
なお日本軍は1942年中頭頃まで破竹の勢いを保っていたものの、事実上1国だけででイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国と対峙していたこともあり、1944年に入ると各地で次第に敗戦の色を濃くしてゆく。1945年に入ると、満州国内の工業地帯がイギリス領インド経由で中華民国内陸部の成都基地から飛来したアメリカ軍機などの攻撃をたびたび受けるようになってゆく。
[編集] 満洲国解体と退位
その後1945年8月8日に、先立って行われたヤルタ会議でのイギリスやアメリカなどのほかの連合国との密約により、突如ソ連政府はモスクワの佐藤尚武駐ソ連日本特命全権大使に対して1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約の破棄を通告し、まもなくソ連軍の大部隊が北西の外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)及び北東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面の3方向からソ満国境を越えて、ソ連が国家として承認していなかった(日本の占領地とみなしていた)満洲帝国に侵攻した。
日ソ中立条約の存在に頼り1942年以降増強が中止され、主力を南方戦線にとられていた関東軍は、同年5月のドイツの敗北以降、対日満開戦に備えてソ満国境付近に集結していたソ連軍に対して一方的に敗走し、溥儀やその家族、満州国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連軍の進撃が進むと8月10日に首都の新京の放棄を決定し、8月13日に朝鮮との国境に程近い通化省臨江県の大栗子に特別列車で避難していた。
しかし、事実上1国で連合国と戦っていた日本が8月15日に連合国に対して降伏したことにより、その2日後の8月17日に国務院が満洲帝国の解体を決定、8月18日未明に大栗子で満洲帝国解体を自ら宣言するとともに満洲帝国皇帝を退位した。
[編集] ソ連への抑留
満洲帝国皇帝を退位した溥儀は、日本政府より日本への亡命を打診されたこともあり、 8月19日朝に満州軍の輸送機で大栗子から奉天へ向かい、奉天の飛行場で岐阜基地からソウル、平壌経由で送られてくる日本陸軍の救援機(四式重爆撃機)を待機していた[3]。しかし同日昼に、日本陸軍の救援機の到着前に奉天に進軍して来たソ連軍の空挺部隊に捕らえられた。
その後溥儀や溥傑、吉岡ら満州帝国の首脳陣一行は直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所に収監された。
なお、日本への逃亡の際に当初は平壌へ直行する予定だったのを、より早いタイミングでソ連軍の侵攻を受ける可能性が高い奉天経由に急に変更したことから、この急な変更は「用無しになり、足手まといとなった溥儀をソ連へ引き渡すために、関東軍が故意に行ったものであった」という説を唱える歴史研究家もいる。
[編集] 東京裁判
ソ連の強制収容所に収監された翌年の1946年に開廷した極東軍事裁判(東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下において空路東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人として出廷させられ、ソ連に有利な証言を強要された。その際、板垣征四郎(当時は大佐)から「本庄繁司令官の命令として」満州国における領軸になって欲しい、という依頼があった事を証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」ことを主張した。
溥儀は法廷において興奮することが多く、「顧問の話では、板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば、生命の危険があると脅迫した。それで、両名と顧問の1人の羅振玉は、板垣の申し出を受諾するようにと私に勧めた」、「本当の気持ちは拒絶したかった。しかし4人の顧問は受諾を勧めた。当時、日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しなかった。私だけでは抵抗出来なかった」、「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよと勧められて、遂にやむを得ず受諾したのだ」、「日本は満州を植民地化し、神道による宗教侵略を行おうとした」と証言した。
それ以外にも、「私の妻は日本軍に毒殺された」と興奮しながら語り、日本軍を糾弾するとともに、満州問題に関する責任は全て日本にあると強調した。これに対して、被告側の弁護団は、反対尋問において、満州国建国当時の南次郎陸相に送られた、日満提携を認める「宣統帝新書」を証拠として提出して溥儀の証言内容の信憑性を追及した。溥儀の証言は、信憑性が低いとみなされ、判決文において引用されることはなかった。
後に認めた自叙伝『わが半生』では、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記している。ちなみに、東京裁判において、検察陣から直接尋問を受けた証人は溥儀のみだった。
[編集] 「戦犯」
その後の1950年には、ソ連と同じく連合国の1国であった中華民国ではなく、国共内戦にソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に中国大陸に建国された中華人民共和国へ身柄を移され、「戦犯」として撫順とハルビンの政治犯収容所に、弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満州国の閣僚や軍の上層部らとともに収監された。
その後は撫順とハルビンの政治犯収容所で、溥傑や満州国の閣僚らとともに「再教育(中国共産党による共産主義の洗脳教育)」を受けることとなった。なお収監中の溥儀は「模範囚」と言われるような礼儀正しい言動を行っていたと伝えられている。
[編集] 一市民へ
1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も1960年11月20日に釈放された。
釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった[4]なおその後の1962年には看護婦をしていた一般人の李淑賢と再婚したものの、育った環境があまりにも違うこともあり、その仲は円満ではなかったと言われている。
1964年には政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う傍ら、満州族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満州族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。なお、毛沢東や多くの中国共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であった溥儀に対して常に同情的だったと言われている。
[編集] 死去
しかしその後、1960年代半ばに発生した中国共産党内部の権力闘争に端を発する「文化大革命」の波が中華人民共和国全土を吹き荒れる中、癌の治療を「元皇帝である」との理由で受けられなかったことにより、1967年に北京の病院で死去した。
死ぬ間際には、好物である「チキンラーメンを食べたい」と言っていたことが弟、溥傑の夫人である浩の伝記により伝えられている。清朝皇帝という「反革命的」な出自であったことから「文化大革命により粛清された」という説も存在しており、実際に末期症状により病院に搬送されたものの、「反革命」とのレッテルを紅衛兵たちに張られることを恐れた医師らが、積極的に溥儀の治療行為を行わなかったという証言もある。
[編集] 死後
墓は北京郊外の八宝山墓地に埋葬されたが、後年、溥儀は生前「皇帝であったことを誇りに思っていた」と李淑賢夫人の証言が明らかになると、改革開放の時代の空気と相俟って、1995年に「皇帝」として改葬することになった。現在の墓所は北京郊外の易県にある、清朝の歴代皇帝の陵墓のある清西陵の近くの「華龍皇園」に新たに「献陵」という陵墓が作られた。
それに関連して2004年に「愍皇帝」の謚号と「恭宗」の廟号が贈られた。ただし、これらは公式に認められたものではなく、愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認されているものではない。改葬に関しても愛新覚羅家の遺族からの反対も受けている。
[編集] 家族
中国の歴史 | ||||
元謀・藍田・北京原人 | ||||
神話伝説(三皇五帝) | ||||
黄河・長江文明 | ||||
夏 | ||||
殷 | ||||
周 | 西周 | |||
東周 | 春秋 | |||
戦国 | ||||
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新 | ||||
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晋 | 西晋 | |||
東晋 | 十六国 | |||
南北朝 | 宋 | 北魏 | ||
斉 | ||||
梁 | 西魏 | 東魏 | ||
陳 | 北周 | 北斉 | ||
隋 | ||||
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五代十国 | ||||
宋 | 北宋 | 遼 | 西夏 | |
南宋 | 金 | |||
元 | ||||
明 | 北元 | |||
後金 | 南明 | 大順 | ||
清 | ||||
中華民国 | ||||
中華人民共和国 | (台湾) |
正妻である婉容と側室である文繍と1922年に結婚するが、後に文繍と離婚、その後アヘン中毒になった婉容とも満洲国崩壊を受け逃亡する中生き別れになる。なお、満洲国時代に北京出身の譚玉齢(他他拉氏、祥貴人)、長春出身の李玉琴(福貴人)を側室として迎えたが、それぞれ死別、離婚している。
1959年に特赦された後、1962年に看護婦をしていた李淑賢(1924年 - 1996年)と再婚し、その後の生涯を沿い遂げることになる。しかし生涯で子はもうけていない。また、宮中の召使いの少年を寵愛するなど、同性愛傾向があったとも言われている。
[編集] 自伝
『我が半生』(原題:我的前半生、英語題:The former half of my life)は、唯一の自伝である。執筆は、1957年後半から1年余りをかけて、20万字の初稿を完成させた。その後内容のいくつかの部分において専門家の意見が分かれるなどし、第一稿、第二稿が作られたのち、最終的に1964年3月に正式出版された。日本でも翻訳本が出版されている。その内容は十分な文献批判が必要ではあるが、当時の状況を自ら語った第一級の資料である。また、残された日記の断片が『溥儀日記』として出版されている。
2007年、同書が中華人民共和国において大幅に加筆した完全版として出版されることとなった。極東国際軍事裁判での偽証を謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと後に反省したことなど、1964年版当時に削除された16万字近い部分が今回盛り込まれている。
中華人民共和国国内での報道によると、今回1964年版前の第一稿、二稿から、序言≪中国人的骄傲(中国人の誇り)≫、第六章《伪满十四年》的第一节≪“同时上演的另一台戏——摘录一个参与者的记述”(第6章「満州国14年」の第1節“もう一人を同時に演じる ― 一参加者の記述より引用する”)≫、第七章《在苏联的五年》的第四节≪“远东国际军事法庭”(第7章「ソ連の5年」の第4節 “極東国際軍事法廷”)≫、第十章《一切都在变》的第四节≪“离婚”(第10章「新しい一章」の第4節“離婚”)≫、などを含んでいる。
なお、溥儀には継承者がおらず死去した際にも遺言書もなかったため、版元の群衆出版社から北京市の西城裁判所へ、同書を「相続人のない財産」とする認定請求を提出した。
[編集] 愛新覚羅溥儀を題材にした諸作品
- 映画
- 『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ)
- この映画は、幾つかの脚色された要素を含んではいるが、溥儀の人生をもっともらしく描くために熟考された作品。
- 『火龍』(1987年 中華人民共和国・香港合作)
- 収容所から出所してから病院で亡くなるまでの溥儀と再婚した李淑賢夫人との生活を描いている。
- 『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ)
- 書籍
- 『皇帝溥儀:私は日本を裏切ったか』(1952年、世界社 ISBN B000JBBCCK、絶版)
- 実際に溥儀に仕え信任厚かった工藤忠による回想録、歴史的価値が高い。
- 『皇帝溥儀:私は日本を裏切ったか』(1952年、世界社 ISBN B000JBBCCK、絶版)
[編集] 脚注
[編集] 参考図書
- 李淑賢『わが夫、溥儀―ラストエンペラーの妻となって』(学習社、1997)ISBN 978-4-311-60326-6 (4-311-60326-6)
- 『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社、2005年)ISBN 978-4-404-03323-9 (4-404-03323-0)
- レジナルド・ジョンストン 『紫禁城の黄昏―完訳』(祥伝社、2005)ISBN 978-4-396-65032-2 (4-396-65032-9)
- 入江曜子『溥儀』(岩波新書、2006年)ISBN 978-4-00-431027-3 (4-00-431027-X)
- レジナルド・ジョンストン 『新訳 紫禁城の黄昏』(本の風景社、2007)ISBN 978-4-939154-04-1
- 太平洋戦争研究会『秘録東京裁判の100人』(ビジネス社、2007年)ISBN 978-4-8284-1337-2
[編集] 関連項目
- 愛新覚羅氏
- 日中戦争
- 徳王
- 第二次世界大戦
- 張作霖爆殺事件
- 張学良
- 袁世凱
- 工藤忠
- 蒋介石
- 川島芳子
- 南満洲鉄道
- 立命館大学:現在の京都衣笠キャンパスの用地は溥儀の寄付による。当時のお金で50万円という巨額の寄付を受けた。そのうち20万円で、衣笠の6万坪の土地を購入し、校舎を建て、さらに学生向けの奨学金の基金も創設できた。
[編集] 外部リンク
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