光緒帝
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光緒帝(こうしょてい、こうちょてい、同治10年6月28日(1871年8月14日) - 光緒34年10月21日(1908年11月13日)、在位:1875年 - 1908年)は中国清朝の第11代皇帝。諱は載湉(湉はさんずいに恬)。廟号は徳宗(とくそう)。在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。
道光帝の第7子醇親王の第2子として生まれる。母は西太后の妹である。同治帝が早世した後に権力保持を狙う西太后によって擁立された。即位したのは3歳の時であり、当然実権は西太后が握っていた。
1871年のイリ問題、1876年に琉球失陥、1885年の清仏戦争によりベトナムへの影響力を失い、そして1894年に日清戦争が勃発し、朝鮮への影響力を失った。このような清のふがいなさを光緒帝は嘆き、清の国勢回復を強く望むようになった。それゆえ康有為、梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡を脱し、自らの手で清の中興を成し遂げようとした。
初めは冷ややかに見守っていた西太后だが、袁世凱らの武力を使い光緒帝を監禁し、変法派達を処刑した(戊戌の政変)。
変法運動が挫折した事により、孫文のような中国の愛国者達は清に絶望し、完全な革命運動に走る事になった。
光緒帝が監禁されている間の1899年には義和団の乱が勃発し、西太后がこれを助力した事で清の植民地化はいっそう進み、清は滅亡へと転がり落ちていく。
1908年、死去する。西太后に砒素で毒殺されたともいわれる。死因に関しては、1980年の光緒帝の陵墓発掘の際の遺体調査では、頸椎・毛髪いずれにも中毒の痕跡を見出せず外傷も存在しなかったこと、光緒帝に関するカルテ及び薬品の処方といった史料が現在も故宮に残されており、これをまとめた書籍が出版されていることなどから、病死の可能性が濃厚と一旦は結論付けられたが、2007年になって中国政府の調査により、頭髪に集中して通常の1000~2000倍の砒素が検出されたと報道され、「これこそ一度に大量の砒素を投与された証拠だ」として、砒素による毒殺の可能性も依然として消えてはいない。
なお清西陵に陵墓がある。
[編集] 后妃
- 孝定景皇后(1868年 - 1913年)、本名:葉赫那拉 靜芬(エホナラ・せいふん)。西太后の姪、光緒帝の正室。父は桂祥。のちに溥儀の嫡母、皇太后になる。尊称は隆裕皇太后。
- 端康皇貴妃(1874年 - 1924年):瑾妃は他他拉氏の長敘の娘。溥儀が即位する考瑾貴妃に呼ばれ、溥儀が退位すると端康皇貴妃と呼ばれる。いわゆる四太妃の一人。諡は温靖皇貴妃。
- 恪順皇貴妃(1876年 - 1900年):珍妃は他他拉氏の長敘の娘で瑾妃の妹。義和団事件で8ヶ国連合軍が北京占領した時に虐殺される。清朝が終わると光緒帝の陵墓、崇陵の東の「崇東陵」に葬られる恪順皇貴妃と追贈された。
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