ドイツの歴史
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ドイツの歴史
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[編集] 古代
ドイツの歴史における古代は、先史時代から、ゲルマン民族の大移動が始まるまでの永きにおよぶ。現在のドイツ南部では、およそ紀元前1300年から紀元前200年にかけて、ケルト人のハルシュタット文明(紀元前1300年から紀元前400年)、およびにラ・テーヌ鉄器文明(紀元前500年から紀元前200年)が栄えていた。ラ・テーヌ鉄器文明と同時期、ドイツ北部地域にはゲルマン人が居住し、ゲルマン人による社会を形成していた。しかし、紀元前3世紀頃からゲルマン人は勢力を拡大し始め、紀元前後の頃にはライン川・ドナウ川流域で古代ローマ世界と接触するようになった。その後、しばらくはライン川とドナウ川がローマ帝国とゲルマニアの境界線となっていたが、4世紀後半にゲルマン民族の大移動が始まると、ローマ帝国の崩壊とフランク王国の成立によって、ドイツ地域は徐々に中世封建社会へと移行していった。
フランク王国ができるまでの主な出来事としては以下の通りである。
[編集] 中世
[編集] フランク王国
4世紀後半より、ゲルマン人がライン川・ドナウ川を越えて本格的な移住を進め、旧ローマ帝国の領内にゲルマン人諸国家が成立した。その中で、ガリアに5世紀末に成立したフランク王国は、ローマ・カトリックを受容してラテン系住民からの支持を集めるなど、徐々に勢力を拡大させていった。8世紀半ばに成立したカロリング朝フランク王国のカール大帝は、ザクセン人(現在のドイツ北西部)を平定し、バイエルン(現在のドイツ南部)にも勢力を伸ばして西ヨーロッパ世界の政治的統一を推進しつつ、東方から侵入してきたアジア系遊牧民のアヴァール人を撃退するなどの活躍をみせ、800年にローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授かって古代における皇帝理念の継承者となった。また、アーヘン(現在のドイツ北西部)の宮廷にブリタニアの僧アルクィンを招いて古典古代のラテン語文化を復興させ(カロリング・ルネサンス)、古典文化、ローマ・カトリック、ゲルマン人の諸要素を加えた独自のヨーロッパ世界を築き上げた。
[編集] 東フランク王国
次代の王ルートヴィヒ1世(敬虔王)の死(840年)後、843年にヴェルダン条約が結ばれフランク王国は3人の息子に分割された。これにより、東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国(イタリア王国)が成立した。その後、870年のメルセン条約によって中フランク王国の一部が東西フランク王国に再分割され、領土において現在のドイツ、フランス、イタリアの原形が成立した。ただし、今日のようなドイツ人意識はまだ形成されていない。911年のカロリング朝断絶後、東フランク王国(ドイツ王国)は選挙王制へと移行し、10世紀初頭にザクセン朝が成立した。初代のハインリヒ1世は、北方のノルマン人や東方のマジャール人の撃退に尽力し、ザクセン朝フランク王国の土台を築いた。当時、西フランク王国の王権は極めて弱体で、イタリア王国も事実上崩壊へと向かっており、東フランク王が事実上西欧世界の盟主となっていった。2代目のオットー1世(大帝)は、引き続き侵入する外民族の討伐で活躍し、とりわけマジャル人を955年にレヒフェルトの戦いで撃退した。また、イタリア遠征を敢行して教皇位をめぐる混乱を収拾させた。
[編集] 神聖ローマ帝国
[編集] 「神聖ローマ帝国」の成立
これらの活躍を受けて、962年にローマ教皇ヨハネス12世がオットーにローマ皇帝の冠を授けた。いわゆる「オットーの戴冠」であり、これにより「神聖ローマ帝国」が成立したとされる。(実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上で現れるのは13世紀半ばである。)こうして、戴冠を受けた東フランク王オットー1世は、西ヨーロッパ世界における盟主としてその威光を高めた。また、このことによって教皇と皇帝という聖俗両権の頂点を中心とした楕円的な権力構造が西ヨーロッパ世界に形成された。しかし、この段階でも現在のドイツという感覚は希薄であり、歴代の東フランク王(かつ、教皇から戴冠された皇帝)は、ドイツ支配にとどまらずキリスト教理念に基づく普遍的な帝国の樹立を目指していた。そして、教会組織を通じた帝国統治を図ったため(帝国教会政策)、帝国内における皇帝権力は徐々に強化されていった。
歴代皇帝がイタリア遠征を繰り返したため、ドイツの分裂が進んだという見解もみられる。これは、19世紀に入ってナショナリズムが高揚する中で(ドイツ人という民族意識が民衆に共有される時代において)、ドイツ統一を主張する勢力が主に展開したものである。まだナショナリズムが形成されていない中世においては、逆にイタリア政策を通じて皇帝権が正統化され、ドイツ内の諸侯に威光を示し帝国統治が円滑に進むこともあった。
[編集] 叙任権闘争
ザリエル朝の歴代皇帝も帝国教会政策を行い、皇帝権の強化を推し進めていった。一方で皇帝と結びついた教会組織も、土地の寄進などを通じて徐々に勢力を拡大させた。こうした中、教会組織が世俗権力の統制下におかれることを批判し、教会の純化を図る改革運動が、フランスのクリュニー修道院などで高まった。
実際には、歴代皇帝は真摯にキリスト教世界の指導者として振る舞い、実際には聖職叙任もおおむね適切なものであった。しかし、教会への影響力強化を図った教皇グレゴリウス7世は、世俗権力による聖職叙任自体を聖職売買とみなし、聖職叙任権を手中に収めようとしたのである。その点で、叙任権闘争は単なる宗教問題にとどまらず、いわば皇帝が育てた果実を教皇が摘み取ろうとした権力闘争としての性格も有した。
叙任権闘争の趨勢を決める上で重要な役割を果たしたのは、ドイツ内における有力諸侯であった。皇帝権強化による自らの権力低下を懸念した諸侯は、皇帝を牽制するためローマ教皇の支持に回った。こうして皇帝の地位が脅かされたハインリヒ4世は、教皇に対する謝罪を余儀なくされる(カノッサの屈辱)。さらに十字軍運動も開始され、第1回十字軍の軍勢が聖地を奪ってエルサレム王国を建国し、ローマ教皇の威光がますます高まった。こうした中、ハインリヒ4世の息子で次帝のハインリヒ5世が、ローマ教皇とヴォルムス協約を結び、叙任権闘争はひとまず終結した。
この協約で皇帝は叙任権は失ったものの、教会財産を封じる権利は確保された。そのため、世俗君主としての皇帝権は、ほとんど揺らいでいない。しかしながら、長期に渡る教皇との対立によって、理念としての皇帝権が深く傷つけられたのであった。こうして皇帝権は弱体化していき、皇帝の統制が緩む中で各地の領邦君主が自らの所領支配の強化に専念しはじめた。のちの領邦国家体制の萌芽はこの頃に見いだされる。
[編集] ホーエンシュタウフェン朝と十字軍
[編集] ドイツ諸都市の発展と東方植民
ゲルマン民族の大移動後、ドイツ人の居住地はエルベ川の西方に限定されていたが、封建制度が安定した12世紀から15世紀にかけて東方のスラブ人居住地への植民が活発に行われた。12世紀始めにはブランデンブルク辺境伯がおかれ、13世紀にはドイツ騎士団がバルト海沿岸を征服した。この両者は1618年に合併してブランデンブルク・プロイセン公国となった。同じ頃、商人と手工業者による中世都市がドイツ各地に築かれ、アーヘン、ケルンなど有力都市は皇帝から特許状をもらい帝国都市となった。13世紀には北ドイツの有力都市は相互の利益と防衛のためハンザ同盟を結成し、リューベックを盟主に最盛期には100を越える都市が参加した。
[編集] 領邦国家体制の形成
[編集] 近世
[編集] 宗教改革
詳細は宗教改革を参照。
1517年、教会による贖宥状(免罪符)の販売に対して、ヴィッテンベルク大学神学部教授のマルティン・ルターが、95ヶ条の論題を示して批判を行った。まだ、この段階ではローマ教皇やカトリック教会そのものの批判にまでは至ることはなかったが、このルターの言動は大きな共感を持って受け入れられたため、ドイツ内に大きな波紋を生みだすことになった。事態の沈静化を図ったカトリック側は、論客ヨハン・エックをライプツィヒに送り、1519年にルターと討論させた。この場においてルターは、さらに踏み込んで教皇、カトリックに対する批判を示すことになった。
一方、当時はハプスブルク家が婚姻政策を通じてヨーロッパに広大な所領を有し、神聖ローマ皇帝位を世襲化させ、カトリック理念のもとで一元的なヨーロッパ支配を試みていた。こうした矢先に起こったルターの行動は、一元的な帝国支配を揺るがせる大きな障害となった。1521年、ルターはヴォルムス帝国議会において自説の撤回を求められたが、これを拒んで帝国追放刑を受けた。この際、反ハプスブルク、反教皇の立場をとる有力諸侯ザクセン公フリードリヒがルターをかくまったため、ルターは彼の所領内にあるヴァルトブルク城で、新約聖書のドイツ語訳に着手することになった。
既にルター以前より聖書のドイツ語訳は試みられていたが、彼の翻訳した聖書が定本となって、当時発達しつつあった印刷技術にも支えられて各地に流通していった。このことは、中世カトリック世界の権威的言語であったラテン語にかわり、各国の言語に聖書が翻訳される潮流を加速させることになり、文化的な一元性が解体され、各国の「国語」が形成される端緒となるものでもあった。
[編集] 三十年戦争
詳細は三十年戦争
[編集] 近代
[編集] ナポレオン戦争とナショナリズムの覚醒
[編集] ウィーン体制
ナポレオンの敗北後、オーストリア帝国の宰相であるメッテルニヒの主導でウィーン会議が開催され、ウィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成された。それにより、ドイツではプロイセンがラインラントなどを獲得した他、ライン同盟の廃止とオーストリアを盟主とするドイツ連邦の結成が為された。ウィーン体制下のドイツでは保守的な政治体制が続き、19世紀のヨーロッパを席捲した民族主義、自由主義の波及が食い止められていた。しかし、ドイツ関税同盟の成立等により、ドイツでも産業革命が急速に進展し、ブルジョア階層が台頭するようになった。そして、経済活動の拡大を望むブルジョアやドイツ人の一体化を求める知識人達により、1848年革命が展開されることとなる。
[編集] 1848年革命とドイツ統一
[編集] ドイツ帝国
詳細は帝政ドイツを参照。
[編集] 宰相ビスマルクの時代
ビスマルク時代のドイツは対外的にはヨーロッパの覇権調整の要として機能していた。その一方でイギリスとの親善外交、三帝同盟や三国同盟、再保障条約などで対仏包囲網を形成し、フランスに対する強い牽制を行った。これにより、同盟による戦争の予防が完成し、これをビスマルク体制と呼ぶ。しかしこの体制下では軍拡が行われやすくなり、これが第一次世界大戦の遠因にもなった。内政においては皇帝ヴィルヘルム1世の下、宰相であるビスマルクに大きな権限が与えられており、半ば独裁的な政治が行われ、議会はほぼ形骸化した。また、この時期には中央政府に敵対する政治的勢力の排除も顕著に見られた。社会主義思想も厳しく取り締まられ、1878年には社会主義者鎮圧法が制定された。南ドイツを中心に勢力が残っていたカトリック系の宗教勢力も一掃された。
[編集] ヴィルヘルム2世の世界政策
ヴィルヘルム1世が崩御し、続くフリードリヒ3世が早逝すると、若年のヴィルヘルム2世が即位した。このときも宰相は継続してビスマルクが勤めていたが、対外政策で意見が合わず、1890年ビスマルクは事実上解任された。
ビスマルクが解任された後ヴィルヘルム2世は皇帝専制政治を行い、内政においてはビスマルクの政策を否定し、1890年社会主義者鎮圧法を廃止した。そして、かねてより目指していたドイツの世界政策に乗り出す。中心となったのは植民地再分配であった。そのために海軍力の増強を目指し、結果イギリスとの建艦競争に陥り、対英関係を悪化させた。また、帝政ロシアとの再保障条約を解消し、ロシアとフランスの接近を許したことにより、露仏同盟形成の原因を作った。アジア進出も視野に入れ、イギリスの3C政策に対抗し、3B政策を展開。これにより、イギリスとの関係をますます悪化させ、英仏協商・英露協商の形成の遠因を作った。これらの政策により、ビスマルク体制は完全に崩壊し、対仏包囲網もいつの間にか対独包囲網に変わっていった。
[編集] 第一次世界大戦
1914年6月のサラエボ事件を機にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦した際、ロシア帝国がセルビアを支援したため、8月1日、同盟を理由にドイツ国はロシア帝国に対して宣戦した。その後、フランス、イギリス、日本なども参戦し、第一次世界大戦へと拡大した。開戦当初、短期決戦型のシュリーフェン・プランを計画していたが、タンネンベルクの戦い、マルヌ会戦では予想をはるかに上回る兵力と時間を費やすことになった。
1917年、ドイツは北海と地中海において無差別潜水艦作戦を実行。これまで中立の立場を取っていたアメリカ合衆国も公海の自由を侵されることに憤慨し、4月にドイツに宣戦した。7月には、議会内の講和を図る勢力が台頭したが、これをおさえたドイツ最高軍司令部(OHL)が事実上の軍事独裁体制を確立した。1918年になると戦局は悪化の一路を辿り、ブルガリア、オスマン帝国、オーストリアの同盟諸国が相次いで降伏し、11月のキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、皇帝ヴィルヘルム2世は退位を発表、オランダに亡命した。11月11日にコンピエーニュの休戦条約により第一次世界大戦は休戦した。
[編集] ヴァイマル共和政
ホーエンツォレルン家による帝政が終わると、1919年初頭のスパルタクス団(1918年末にドイツ共産党を結党)の蜂起などの混乱を経て、ドイツ社会民主党が政権を握り、フリードリヒ・エーベルトが大統領になった。当時世界で最も民主的とされたヴァイマル憲法を制定した。
敗戦国ドイツはヴェルサイユ条約によって、植民地と領土の一部の割譲、1320億マルクという莫大な賠償金支払い、軍備の制限といった厳しい責任を負わされた。国内の経済・社会情勢に対する不満から、カップ一揆やミュンヘン一揆が起こった。シュトレーゼマン首相の時代には、インフレの克服に始まり、ヴェルサイユ条約への履行政策をとって平和協調に努めた。
国際的信用を回復し、賠償額も軽減されたドイツは、経済・政局ともに次第に安定期に入った。工業が活発化し資本主義が台頭するに伴い、社会民主党の勢力は衰えていき、それに代わって共産党が力を蓄えてきた。世界恐慌を体験し過酷な打撃を受けると、ヒンデンブルク大統領が強権を発動し、内閣は次々に交代。保守層は共産党の大躍進に危機を感じ、やがて民族主義を唱えるアドルフ・ヒトラーを支援し、ナチスが台頭してきた。
[編集] ナチス・ドイツと第二次世界大戦
1933年1月、ヒトラーは首相に任命され、政権を獲得した。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼務させ、国民投票によって賛同され総統に就任する。ヒトラーは再軍備やユダヤ人、ロマのような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに侵攻した(ラインラント進駐)。
ヒトラーは旧ドイツ帝国領西プロイセンの返還をポーランドに要求。拒否されると、1939年9月にドイツ軍はポーランドへ侵攻した。これはイギリスおよびフランスに対する宣戦布告となり、第二次世界大戦が開始された。ドイツ軍は電撃戦により西ヨーロッパの広大な地域を征服、イギリスは本土上陸の脅威にさらされた。さらにイタリア軍との共同作戦でギリシアおよび北アフリカを攻略した後、1941年にはソ連に侵攻する。
しかし1943年のスターリングラード攻防戦および1944年のノルマンディー上陸作戦での敗北後、戦線は崩壊を始めた。ラインの守り作戦で反攻を試みたものの東西からの連合軍の侵攻によってドイツ軍は劣勢に追い込まれ、1945年4月にヒトラーは自殺し、5月にドイツは無条件降伏した。
[編集] 東西ドイツ
第二次世界大戦後、ヤルタ会談の取り決めによってドイツの処分が行われた。ポーランドを再建設するに当たって、ドイツ領東部を奪ってオーデル・ナイセ線を暫定的な国境とすることにした。また飛び地となっていたプロイセン地方はポーランドとソビエト連邦が分割した。このため、かつてのポーランド分割以来、長く領有していた東部地域と、ドイツ帝国統一の立役者であるプロイセンを完全に失った。この際に多くのドイツ人が難民として残った国土に流れ込んだ。その国土も、統一的な中央政府を建設させないように、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソ連の4カ国によって分割占領され、さらに首都ベルリンも、市内を4カ国で分割された。
1946年以降、鉄のカーテン発言、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プラン、コミンフォルムの設置など、アメリカとソ連がイデオロギーの違いによって意見の相違を深め、やがて欧州大陸を東西に分割する冷戦と呼ばれる対立状態になると、それはすぐに分割占領されたドイツに影を落とした。1948年、米英仏占領地域が独自に通貨改革を行うと、対抗したソ連がベルリンの米英仏占領地区へ繋がる陸路を完全に遮断(ベルリン封鎖)。アメリカはこれに対して食料物資を空輸することで封鎖を崩し、ソ連もすぐに封鎖を解いたが、両者の溝は埋まることはなかった。
1949年5月6日、米英仏占領地域に自由主義・資本主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府を成立して分離独立(主権回復は1955年5月)、これを受けて10月7日、ソ連占領地区に共産主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツ国家と民族は東西に分裂してしまった。当初、西ドイツ首相のアデナウアーが、「一つの国民、一つの国家」というハルシュタイン原則に従って外交政策を展開したため、東西ドイツ両政府間の関係は緊迫した常態が続き、1961年にはベルリンの壁が建設された。しかし、1970年代になると、西ドイツ首相のブラントが提唱した「一つの国民、二つの国家」という東方政策が定着し、東西ドイツ両体制の認定を前提とした西ドイツ国民の自由往来と経済交流が実現した。これにより、東西ドイツ両国は関係を正常化させ、同時に国際連合へと加盟することに成功した。
[編集] ドイツ再統一
1989年からの東欧革命によって東ドイツも変容し、同年11月にベルリンの壁が崩壊した。そして、1990年には東ドイツが自壊し、東ドイツ地域の諸州がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に吸収される形で再統一となった。最大の懸案は東ドイツ地域の北大西洋条約機構(NATO)加盟であったが、ソ連が譲歩する形でこれも認められた。なお、ソ連は1991年末に崩壊した。1992年にはマーストリヒト条約が発効して欧州連合(EU)が発足、ドイツは欧州の中核国として存在感を増すこととなった。対外的には欧州の結束を強めることに努力し、コソボ紛争にはNATO加盟国の義務として第二次世界大戦後初めて参戦、隣国フランスと関係を強め、独仏合同旅団・欧州合同軍の設置やNATOとEUの東方拡大を歓迎した。対米関係では、アメリカ同時多発テロに対しては、テロとの戦いを支持してアフガン進攻に参戦したが、イラク戦争にはフランスやロシアとともに反対し、両国の間は急速に冷え込んだ。内政では、旧東ドイツ諸州の成長が思うように進まず、ドイツ全体の成長に悪影響を与えている。
[編集] 関連項目