国鉄60系客車
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60系客車(60けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(旧国鉄)が1949年から木造客車を改造して鋼製客車とした一般形客車の形式群である。このグループを総称する形で鋼体化改造車(こうたいかかいぞうしゃ)とも呼ばれる。
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[編集] 製造の背景
第二次世界大戦後の1947年2月25日、八高線東飯能~高麗川間で客車列車が脱線転覆し、184人が死亡する事故が発生した(詳しくは八高線列車脱線転覆事故を参照)。この事故は現代に至るまで、日本の鉄道事故史上における死者数第2位の大事故として記録されている。事故列車は木造客車で編成されており、構造脆弱な木造車体が転覆によって大破したことが、死者数を増大させたと考えられた。
鉄道省(国鉄の前身)が新規製造の客車を鋼製客車に切り替えたのは1927年であり、八高線事故時点では既に20年以上が経過していた。しかし、この時点でもまだ国鉄保有客車数10,800両の約6割が木造客車[1]であり、ローカル線の普通列車では木造客車が当たり前、それも古い雑形客車[2]さえ珍しくない状況であった。
これらの木造客車の多くは明治時代末期から大正時代末期にかけて製造されたもので、製造後最低でも20年から40年程度が経過し、全体に老朽化が進行していた。そして八高線での事故が発生したことで、早期に木造客車を全廃し鋼製客車に置き換えることが強く望まれるようになった。
だが当時は戦後の混乱期でインフレーションが進行しており、短期間のうちに鋼製客車を大量に新製して木造客車を全て取り替えることはコスト的に困難とされた。また当時の鉄道運営を管轄していた進駐軍は、車両新造許可には消極的であった。
これらの課題の対策として、木造車の改造名目で安価に鋼製客車を製造する「鋼体化」と呼ばれる手法が取り上げられた。木造客車の台枠や台車、連結器などを再利用し、鋼製の車体のみを新製するものである。
国鉄では戦前の鉄道省時代に同様な手法で、車体の老朽化した木造電車を鋼製車体に改造する工事を大量に行った実績[3]があり、また少数ではあったが木造客車の鋼製化工事の施工例もあった[4]。木造電車は客車よりもドア数が多く車体強度が劣り、加減速も頻繁で老朽化が早かったのが、戦前からの早期改造着手の原因である。
戦前の木造電車改造は「鋼製化改造」と呼ばれたが、戦後の木造客車改造についてはそれと区別する目的で「鋼体化改造」と呼ばれた[5]。
膨大な改造両数となるこの計画の実現のため、国鉄では進駐軍当局の担当者をラッシュアワーの総武本線両国駅に案内し、老朽木造車にすし詰めとなった乗客が窓から乗降している危険な状態を見せて、木造車の老朽化対策が喫緊の課題であることをアピールしたという[6]。この結果、国鉄は1949年から鋼体化改造に着手できることになった。
鋼体化改造の場合、客車の製造費用を従来の半分程度[7]に抑えることができるとともに、安全対策を主眼とした既存車両改造名目のため、車両新造に関わる制約を受けずに済んだ。
これらの鋼体化客車は他の制式鋼製客車などとの区別のために60番台の形式を付されており、このことから後年になって便宜上、60系客車と呼ばれるようになった。
[編集] 構造上の特徴
普通列車用木造車の置き換えが主目的であることから、そのほとんどは三等車もしくは荷物車・合造車として製造された[8]。
[編集] 台枠
最大の流用部材である台枠には、1919年から1927年にかけて製造された2,800mm幅の広幅車体を備える「鉄道省大形客車」[9]のUF12・15などが、主に再利用されている。
これらの木造2軸ボギー客車は車体長が17mであったが、1929年以降国鉄客車の車体長は20m級が標準となっていたことから、鋼体化改造車も20mの車体長とする必要があった。そこで補充車と称して、1910年から1919年頃にかけて製造された2,500~2,600mm幅の車体を備える「鉄道院基本形客車」および「鉄道院中形客車」[10]の木造車体を解体し、残った幅狭台枠(UF11など)は4等分に切断した鋼材とされた。こうして得られた部材を、前述の「大形客車」4両の台枠[11]にそれぞれ挿入して継ぎ足し、20m級の台枠[12]に延長改造したのである。
この結果、17m級の大形客車4両と基本形・中形客車1両の計5両から、20m級の鋼体化改造車4両ができることになった。実際に鋼体化客車の床下から台枠を観察すると、延長改造時の切断・接合の痕跡[13]を確認できる。
しかし、書類上はともかく実際には種車に関わる事情は複雑で、極力輸送力に影響を与えないように工事を進める必要があったため、車種を問わず状態不良で休車となっている車両から優先的に工事を実施した結果、実際の種車と車籍が一致しないケースが少なからず生じた。また、多数派であった17m級大形客車用台枠に長型台枠(UF12)と魚腹型台枠(UF15)の両方が混在していたことや、工事を担当した各国鉄工場が用いた工法の相違などから、台枠は同一形式であっても同型であるとは限らなかった。更に一部では、もともと20m級のサイズがあった28400系木造3軸ボギー客車(大形3AB車:優等列車用)などの台枠(UF71・72など)の心皿位置を移設改造して流用したケースも見られた。
木造車の台枠はねじ式連結器が標準の時代[14]に製造されたものがほとんどであるため、鋼体化の後も、台枠端部にはねじ式連結器時代のバッファー取り付け穴の痕跡が残っていた[15]。
[編集] その他の流用部品
木造車からは台枠だけではなく、台車[16]や連結器[17]、ブレーキ[18]などの主要機器も再利用された。
更には、取り壊される車体部分からも、座席の土台となる金属製の枠や、荷棚の金具など、再利用可能な部品が極力流用された[19]。
[編集] 最低限の接客設備
専ら普通列車での運用が前提であったことから、接客設備等は木造車並みの部分も多く、安全対策のために車体構体を鋼製に改造しただけで、同時期の完全新製車と比べると、乗り心地や居住性の面では劣った。
車内はベニヤ板のニス塗り及びペンキ塗り、窓の日よけは既に巻き上げカーテンが出現していた時代にもかかわらず、旧式な木製の鎧戸が用いられた。
座席は木造車並みの木製背ずりで、一般の20m客車が定員88人であるのに対し、鋼体化車では輸送力を重視して木造車並みの狭いピッチとしたため、ボックスが左右1組増えて定員96人になっていた。
また鋼体化改造車の標準台車に用いられたTR11は大正時代のイコライザー台車であり、本来は軽量な17m級車を前提とする設計で、大型化された鋼体化車体とのマッチングが悪く、高速走行時の動揺が酷かった[20]。
しかし1960年代までは、客車そのものが極端に不足した当時の事情から、結局、急行列車にも本来オハ35系またはスハ43系を充当するべきところに代えて60系が連結されているケースも少なくなかったとされ、遜色急行等と揶揄された。特に、予備車や普通列車用車両まで動員せねばならなかった臨時急行列車や団体専用列車には、このような例が頻々と見られた[21][22]。
[編集] 優等列車向け車両
オハニ63に関しては、製造当初から急行列車や特別急行列車に使用することを考慮されていたため、当時標準の急行列車用新製車であるスハ43系に合わせた客室構造になっていた。背ずりはモケット張りで頭もたれを備え、座席間隔も標準サイズのゆとりが確保された。
さらに、旧三等車の他、リクライニングシート装備の特別二等車2系列も鋼体化名義で製造されているが、これらは実質台枠のみ木造車流用で、台車は乗り心地の良い、鋳鋼製で軸バネをウィングバネとした新設計のもの(TR40、TR47)を新造している。これら優等車は資材手当や会計予算の事情から、鋼体化客車名義とした経緯がある。
[編集] 製造
1949年から1956年の間に、全国の国鉄工場および主要な民間車両メーカーのほとんどが関わる形で製作された。関与した工場・メーカーは以下のごとく膨大である。
- 民間車両メーカー 愛知富士産業・飯野産業・宇都宮車両・川崎車両・汽車製造東京支店・近畿車輛・帝國車輛工業・東急車輌製造・新潟鐵工所・日本車輌製造東京支店・日本車輌製造本社・日立製作所・富士産業・富士重工業・富士車輌・輸送機工業
同時に鋼製客車の新製も進められ、台枠流用の対象から外れた基本・中形客車の約半数[23]と、雑形客車[24]の淘汰による不足分を補った。1949年に登場したオハ60系は小さな窓が並ぶタイプ(2ボックスに対し700mm幅の窓が3枚)であったが、翌1950年からはオハ35系と同様、窓を1ボックス分の大窓(1000mm幅)としたオハ61系に移行した。また、北海道用として側窓を2重窓化したオハ62系も製造された。
この鋼体化改造が終了したことで、国鉄では営業運行に使用される木造車を全廃した。ただし、救援車など事業用車については、1965年頃まで木造車が残っていた。
なお、1067mm軌間の私鉄については1970年代前半まで加悦鉄道や大分交通など一部の事業者で木造車が営業運転に使用されており、更に762mm軌間の尾小屋鉄道では外板に鋼板を打ち付けてあったが、木造車が1977年の廃線まで現役で使用されていた。
各形式車号の新旧対照および改造所については国鉄60系客車の新旧番号対照を参照のこと。
[編集] 系列
[編集] 狭窓形三等車(オハ60系)
鋼体化改造が始まった初期に改造されたグループ。窓幅は700mmで、木造車時代の窓割を継承している。
[編集] オハ60形
- 0番台(1~390)
- > 番号新旧対照
- 1000番台(1001~1109)
- オハ60形のセミクロスシート化改造車で、1963年から1965年の間に109両が製作された。洗面所と出入台付近の座席8ボックス分(前後4ボックスづつ)が撤去され、この部分にロングシートが設置された。この改造により、定員が120名(立席を含む)となった。
- > 番号新旧対照
[編集] オハフ60形
1950年より70両が改造された、定員88名の北海道向け狭窓タイプの三等緩急車。雨どいは装備されている。この車両が登場した当時は、既に本州向けとして1m窓のオハフ61形の改造が開始されていたが、当時は1m窓の二重窓化が技術的に難しかったため、狭窓として落成した。1974年には1両が新幹線雪害対策試験車(オヤ90形)に改造されている。
- > 番号新旧対照
[編集] 本州以南向け広窓形三等車(オハ61系)
このグループ以降から窓幅が1mとなり、近代的な外観となった。便所も、タイルでシーリングされた汽車便所スタイルとなり、水タンクも増量(700リットルのものを床下に1個装備に変更)され、長距離運用を可能にした。
[編集] オハ61形
- 0番台(1~1052)
- 1951年より1,052両が改造された定員96名の三等車。後に、114両がオロ61形、オロフ61形に改造されたほか、92両が座席をセミクロスシートとしてオハ61形1500番台に、緩急車化した71両はオハフ61形1000番台になり、5両がオハ64形となった。
- > 番号新旧対照
- 1500番台(1501~1592)
- 0番台車に、オハ60形1000番台と同様の改造を施したセミクロスシート車で、1965年から1968年の間に92両が改造された
- > 番号新旧対照
[編集] オハフ61形
- 0番台(1~795)
- > 番号新旧対照
- 1000番台(1001~1071)
-
- オハ61形に緩急車化改造を施し、オハフ61形に編入したもの。1965年から1966年の間に71両が改造された。定員は0番台車と変わらないが、車掌室が乗降デッキの内側に設置されているため、外観は0番台車と異なる。のちに、2両が1500番台に改造された。
- > 番号新旧対照
- 1500番台(1501~1523)
- 0番台車と1000番台車に、セミクロスシート化改造を施したもので、1965年から1968年の間に23両が改造された。種車の内訳として、0番台車を改造したものが21両(1501~1519・1522・1523)、1000番台車を改造したものが2両(1520・1521)となっている。改造法は、他のセミクロスシート改造車と変わらないが、車掌室があるため、定員は112名となっている。
- > 番号新旧対照
[編集] 北海道向け広窓形三等車(オハ62系)
オハ61系の北海道向けとして鋼体化改造されたグループ。窓幅は1mで、2重窓と巻き上げ式カーテンを装備している。床下の蓄電池も大型化され、歯車式車軸発電機を装備している。北海道や東北北部で使用された。後天的な改造であるが、一部の車両には、混合列車での使用のためにダルマストーブや独立暖房装置(温気暖房機)が取り付けられていた。
[編集] オハ62形
- 1951年より130両が改造された北海道向け三等車。後に6両がキハ40(初代)やキサハ45に改造され、1974年には1両が新幹線雪害対策試験車(オヤ90形)に改造されている。
- > 番号新旧対照
[編集] オハフ62形
- 1954年より30両が改造された北海道向け三等緩急車。後に5両がキハ45(初代)に改造された。オハフ61形(370~379)から編入されグループ(31~40)は蓄電池箱が在来のオハフ62形よりも小さい。
- > 番号新旧対照
[編集] 通勤形改造車
[編集] オハ63形
- 通勤用として、オハ60形の座席を全てロングシートに改造したものである。1963年より15両が改造された。
[編集] オハ64系
従来使用されていたオハ30・オハフ31形(それぞれ2代目)の老朽化置き換え用として、1969年に和田岬線専用車としてオハ61系を後藤工場で改造した車両である。
オハ61形を改造したオハ64形が5両、緩急車のオハフ61形を改造したオハフ64形が2両あった。和田岬線は通勤時間帯の混雑が著しく乗車時間が短いことから便洗面所、全座席が撤去され、申し訳程度のロングシート(座席定員15名)と吊り革が設けられた。ロングシート真上の部分以外は網棚も撤去している。定員はオハ64形が120名、オハフ64形が111名。和田岬線は兵庫駅、和田岬駅ともに同一方向にホームがあるため、このホーム側の側面のみ、車体中央部に外吊り式の手動乗降扉が新設された。台車は木造車から流用したTR11を取り外し、他形式からの廃車発生品であるTR23に取り替えた[25]。短距離運転のため車軸駆動発電機では十分な電力が得られず、蓄電池を増強している。
イベント用・保存用以外の旧形客車としては唯一JRグループに承継されており、国鉄(JR)最後の一般営業用旧形客車として知られたが、1990年にキハ35・キクハ35形300番台に置き換えられ廃車となった。形式としては、以下のものがある。
[編集] 優等車(グリーン車)
当初から優等車として製造されたスロ60形・スロ50形と、後年オハ61から改造されたもの、および和式客車がある。
[編集] スロ60形
- 1950年度に、鋼体化改造により大井工場と大宮工場にて計30両が製作された特別二等車。日本の二等車として、初めてリクライニングシートが採用され、特別二等車の初形式となった。室内は、2人掛けのリクライニングシートが22脚設置(定員44名)され、客室窓は1000mm幅の広窓になっている。便所は洋式のものが前後に1箇所ずつ設置され、水タンクも増量(床下に700リットルのものを2個設置)された。台車は乗り心地を改善した鋳鋼製ウイングバネ式台車のTR40を装着している。計画の段階では特別二等車という等級の設定は考慮されておらず、一等車として落成する予定であったため、床下への冷房装置搭載スペース確保や冷風ダクト設置などの冷房取付準備工事が施されていた[26]。後に、6両(13~18)が荷物保管室を車掌室に改造する工事を施工され、100番台(113~118、元番号+100)となった。
- > 番号新旧対照
[編集] スロ61形→スロ50形
- 1950年度に、鋼体化改造により大宮工場にて10両が製作された特別二等車。スロ61形として出場したが、新製車の予算で鋼体化改造が施行されたため、予算処理上の都合で、すぐにスロ50形に改形式され、鋼体化改造の銘板も新製の銘板に取り換えられた。基本的な構造はスロ60形と変わらないが、座席のピッチが狭くなり、定員が48名となった。これにより窓割りも変更され、700ミリ幅の狭窓が並ぶ形態となった。便所は前後2ヶ所にあるが、和式に変更されている。この設計は、のちに新製されたスロ51形・スロ52形に踏襲された。スロ60形、スロ50形ともに、一等車(二等級制時の)の冷房改造工事の対象から外されたため、大部分の車両が後述の荷物車(マニ36形、マニ37形)に改造された。
- > 番号新旧対照
[編集] オロ61形→スロ62形・オロフ61形→スロフ62形
急行列車に連結されていた、リクライニングシートを装備しない旧型二等車[27]をリクライニングシート車に置き換えるため、1959年からオハ61形を改造し、二等車としたもの。ほどなく1961年に等級制が3段階から2段階となったため、一等車となる。
- 室内は、内張りがベニヤから樹脂化粧版に張り替えられ、蛍光灯が装備された。座席はリクライニングシートに変更されているが、窓割(1,335mm)と座席ピッチ(1,250mm)は一致していない。座席間隔にはゆとりがあったが、断熱が不十分だった模様で、冬期の保温性が悪い傾向があったという。
- 台車は、改造時に10系客車同様のTR52[28]に振り替えられている。
- 電気暖房を取付けた車両も多かったことから、東北線・上越線系統の急行列車向けとして10系寝台車やスハ43系とともに連結されていた。
- オロ61形
- オハ61形から改造されたもので、電気暖房付きの2000番台車が96両、電気暖房無しの100番台車が15両改造された。一部は、オロフ61形に改造された。
- > 番号新旧対照
- オロフ61形
- オロ61形の緩急車形で、オハ61形を改造したものと、オロ61形を緩急車化(乗務員室に手ブレーキを取り付け)したものがある。
- > 番号新旧対照
- スロ62・スロフ62形
- オロ61・オロフ61形を冷房改造したもので、低屋根化した上で屋根上に冷房装置を5基搭載し、床下にディーゼル発電機が装備された。これらの改造による重量増のため、別形式となった。
- 一部のスロ62形は、北海道向け改造を施され、500番台(501~506)となった。
- スロフ62形の中には、スロ62形から改造されたものもある。
[編集] オハフ80形→オロフ80形
- 国鉄初の団体用和式客車スハ88形(1960年に3軸ボギー式客車を改造)に続いて、1961年にオハ61から改造された和式客車。2両が製作され、主として定期旅客列車に団体用として増結する形で運用された。改造当初は普通車扱いだったが、1972年にグリーン車に改形式された。なおオハフ80形にはこれ以外に35系客車からの改造車もある。
[編集] スロ81形・スロフ81形
- スロ62・スロフ62形を1972年から改造して製作された和式客車。それ以前の和式客車が冷房無しで居住性が不十分だったことから、冷房搭載車のスロ62グループをベースに、和式客車のみで組成された(半)固定編成を組む前提で改造された[29]。1970年代は客車グリーン車が余剰化しつつあった時期で、スロ62グループがまとまった種車とされた形である。1983年8月には臨時列車お座敷踊り子号として運転されたが、これは旧型客車による特急運用の最後の例となった。
[編集] 座席郵便荷物合造車
当初の計画では17m級のままでの鋼体化が計画されたが、結局全形式とも20m級として改造工事が実施された。
- オハユ61形
- 3等座席郵便合造車で、1955年に11両が鋼体化改造により製造された。
- > 番号新旧対照
- オハユニ61形
- 3等座席郵便荷物合造車で、1952年から1956年までの間に130両が鋼体化改造により製造された。客室デッキ側から見ると、3等座席・郵便室・荷物室の順で3室が配置されている。
- 106以降は、郵便室と荷物室の位置が逆転している。
- > 番号新旧対照
- スハユニ62形
- オハユニ61の北海道向け車。1952年に20両が鋼体化改造により製造された。構造は、オハユニ61形の前期形(~105)と同じである。
- > 番号新旧対照
- オハユニ63形
- 3等座席郵便荷物合造車で、オハユニ61形と異なり、郵便室・荷物室が共用構造となっている。1954年に40両が鋼体化改造により製作された。
- > 番号新旧対照
- オハユニ64形
- オハユニ63の北海道向け車で、1954年に10両が鋼体化改造により製造された。
- > 番号新旧対照
- スハニ61形→オハニ61形
- スハニ61形として475両が鋼体化改造により製造された3等座席荷物合造車。後に、荷物室の荷重変更(5tから4t)により、全車がオハニ61形に形式変更された。
- この形式のうちの14両(501~514)は、北海道向け車として1重窓ながら蓄電池の大型化などが施されて製造された。
- > 番号新旧対照
- スハニ62形
- スハニ61形の北海道向け車で、1952年から1956年の間に45両が鋼体化改造により製造された。
- > 番号新旧対照
- オハニ63形→オハニ36・スハニ37形
- 優等列車用の三等座席荷物合造車で、三等室はスハ43系に準じた造りである。製造当初は、暫定でTR11を装備しオハニ63形と称していた。1955年から1956年の間に30両が鋼体化改造により製造された。
- しかしTR11は高速走行時のピッチングが激しく、優等列車用に適さないため、1956年から1957年の間に、台車を軽量客車で使用されているTR50系に準じた設計のTR52Aに交換し、オハニ36形に形式変更された。また、電気暖房装置を取り付けられたオハニ36形は、重量増によりスハニ37形に改形式された。
- スハニ64形
- オハニ61形の電気暖房取付け改造車。改造による自重増で重量等級が変更されたために、別形式が起こされた。
- > 番号新旧対照
[編集] 郵便・荷物車
こちらも当初は17m級のままでの鋼体化が計画されていたが、全車20m級として改造されている。
- オユ60形
- 郵政省所有の郵便車で、1950年に2両が鋼体化改造により製作された。1955年に、全車がオユ61形と同構造に改造され、オユ61形に編入された。
- > 番号新旧対照
- オユ61形
- 郵政省所有の郵便車で、1952年に2両が鋼体化改造により製作された。1955年にオユ60形改造車が編入された。
- > 番号新旧対照
- スユニ60形
- 鋼体化改造により製造された郵便荷物合造車で、1954年から1955年の間に67両が製造された。荷重は、郵便室4t・荷物室6tである。
- 20両(212~218・301~302)は、北海道向け車として製作された。全車が魚腹台枠を使用している。
- > 番号新旧対照
- スユニ61形
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- 客荷合造車などの改造により製造された郵便荷物合造車で、1965年から1968年間に90両が製造された。荷重は、郵便室5t・荷物室5tである。
- オハニ61から改造された基本番台(1~49)のほか、TR23を装着した100番台(101~2120:オハニ61・オハユニ61形改造)、500番台(501~516:オハニ61・スハニ62形改造)がある。
- 300番台(301~305)は、43系に属するスロフ53形からの改造であるため、鋼体化客車ではない。
- > 番号新旧対照
- マニ36形
- > 番号新旧対照
- マニ37形
- > 番号新旧対照
- マニ60形
- 荷重14トンの荷物車で、565両が製造された。鋼体化改造により製造されたグループと、客荷合造車などから改造されたグループに大別される。
- 鋼体化改造により製造されたグループ
- 1953年から1955年の間に205両が製造されたもので、狭窓が多用されているのが外観上の特徴である。
- 本州向け長形台枠車(1~44)、青函航送用魚腹台枠車(201~240)、北海道内用魚腹台枠車(241~245)、本州向け魚腹台枠車(301~307、351~459)がある。
- 鋼体化改造により製造されたグループ
- 荷重14トンの荷物車で、565両が製造された。鋼体化改造により製造されたグループと、客荷合造車などから改造されたグループに大別される。
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- 合造車改造により製造されたグループ
- 1960年から1972年の間に360両が製造されたもので、改造種車の広窓が残っているのが外観上の特徴である。以下のようなものがある。
- オハユニ63形改造車(2051~2090)、オハユニ64形改造車(2091~2100)
- オハニ61・スハニ62形改造車(2101~2200・2501~2570・2573~2575・2578~2585・2587~2603・2605~2640・2651~682・2687・2688・2693~2695)
- オハユニ61・スハユニ62形改造車(2571・2572・2576・2577・2586・2604・2641~2650・2683~2686・2689~2692・2696~2699・700~707)
- スユニ61形改造車(711~713)
- 1960年から1972年の間に360両が製造されたもので、改造種車の広窓が残っているのが外観上の特徴である。以下のようなものがある。
- 合造車改造により製造されたグループ
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- > 番号新旧対照
- マニ61形
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- マニ60形を急行荷物列車で運用すると、TR11のピッチングの激しさから振動がひどく、荷物によっては荷痛みの原因になった。この問題を解決するため、スハ32、スハフ32形と台車振替を行い、振動が若干抑制されるTR23を装着したもので、1964年から1967年の間に41両が改造された。
- 従来は上記の説が有力とされたが、昭和30年代後半になってスハ32、スハフ32形が区間列車や支線区での運用が主体になるにあたって、ス級の客車は換算の制約を受けて効率よく運用できなかった為に、マニ60と台車交換したというのが真相のようである。
- 種車の違いにより、長形台枠車(1~2007)、客荷合造車改造車(101)、北海道運用向け魚腹台枠車(201~212)、本州向け魚腹台枠車(301~303・351~2368)がある。
- > 番号新旧対照
[編集] 事業用車
- オヤ33形(53~56)
- ED75形電気機関車用の教習車。オハニ36・スハニ37形の改造
- > 番号新旧対照
- オヤ60形(1~5)
- 職員輸送用の職用車。オハフ61形の改造
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- オヤ61形(1、2、2021)
- 1は門司局の信号機器教習車でオハユニ61形の改造、2は長野局の信号機器教習車でオハフ61形(オハ61形改造)の改造、2021は金沢局のEF81形電気機関車用教習車でスロフ62形の改造
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- スヤ61形(2001)
- 鉄道労働科学研究所の試験車で、スロフ62形の改造
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- オヤ62形(1、2)
- オハニ61形改造の工事用宿泊車
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- オル60形(1)
- マニ60改造の配給車
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- オエ36形(1~3)
- オハニ36形改造の救援車
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- オエ61(1~39、41~101、308、601)
- 救援車で、種車はオハフ61、オハユ61、オハニ61、スハニ62、オハユニ61、スユニ61、マニ60、マニ61、オル60、マニ36(スロ60形改造)、マニ37(スロ60形改造)の各形式
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- 939-201
- 新幹線用の工事用宿泊車で、スロ62の改造。JR東海に引き継がれ1996年に廃車。
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[編集] 保存車
本系列では、2両のオハ二36形が動態保存されているほか、各地で静態保存されたり、店舗や倉庫等に利用されたりしているものがある。そのうち保存車について、以下に掲げる。
[編集] 動態保存
[編集] 静態保存
- オハ61 930 - 奈良県天理市「田井庄公園」
- オハ61 1030 - 福岡県北九州市「九州旅客鉄道小倉工場80周年記念資料館」
- オハ62 91 - 北海道紋別郡湧別町「計呂地交通公園」(旧湧網線計呂地駅)
- オハ62 94 - 北海道河東郡上士幌町「上士幌町鉄道記念館」(旧士幌線糠平駅)
- オハ62 95 - 北海道釧路市阿寒町「炭鉱と鉄道館」(07年10月解体)
- オハフ61 2527 - 宮城県柴田郡柴田町「船岡駅前緑地公園」
- オハフ61 2752 - 福島県喜多方市「日中線記念館」(旧日中線熱塩駅)
- オハフ61 3055 - 福島県郡山市「JR東日本郡山総合車両センター」内(センター公開時以外非公開)
- オハユニ61 107 - 群馬県安中市「碓氷峠鉄道文化むら」
- オエ61 67 - 北海道天塩郡豊富町 豊富駅前
- キハ08 3 - 京都府与謝郡与謝野町「加悦SL広場」
[編集] 脚注
- ^ この事故の約1年半後、鋼体化開始直前の1948年10月の段階でさえ木造客車は総数11,323両の内、5,924両を占めていた。
- ^ 鉄道国有化前に設計・製造された、官鉄・日本鉄道・山陽鉄道・関西鉄道などから継承された種々雑多な客車群を指す。
- ^ 50系電車・62系電車。1934年-1944年改造。
- ^ オハ31980・オハフ34180形およびスイテ37050形の計5両。1939・1940年改造。
- ^ この「鋼体化改造」という用語は、以後、国鉄・私鉄を問わず、木造車の車体を鋼鉄製に改造することを指して一般的に使われる用語となった。
- ^ 当時の総武・房総地区路線は、都心に発着する路線でも特に老朽木造車の多い路線であり、当時それらのターミナルであった両国駅は、進駐軍側担当者への「警鐘」にもっとも相応しい案内先であった。
- ^ 完全新造車の55%前後の費用に抑えられたと言われる。
- ^ 流用される台車などの事情から、種車が一等あるいは二等車であっても無関係に、原則的に三等車あるいは荷物車・三等荷物合造車などとして鋼体化された。
- ^ ナロネ20100形、ナイロ20500形、ナロ20600形・20850形、ナロハ21300形、ナハ22000形、ナハフ24000形などの一般に22000系(同時期製作の20m級3軸ボギー車との区分上、大形2AB車とも呼称された)と呼ばれる17m級2軸ボギー車が種車とされた。
- ^ ホロハ18230形・18260形、オハ18000形・18430形、スハ18500形、ナロハ11300形・11600形、ナハ10000形、ホハ12000形・13000形などが種車とされた。
- ^ 補強のトラスバーを撤去し、台枠本体は中途で切断した。
- ^ 改造後の形式はUF120(一般型)およびUF127(緩急車用)など。
- ^ リベットや溶接で接合してある。
- ^ 1925年の自動連結器化以前。
- ^ 多くは、穴を塞ぐ形で丸い鋼板を溶接してあった。
- ^ 中型以前の雑多な台車は廃棄され、流用品は省制式のTR11で統一された。
- ^ 省制式の柴田式だけではなく、1925年の連結器交換時に輸入されたシャロン式やアライアンス式などの海外メーカー製品も混在した。
- ^ AVブレーキ装置。但しこれはAVブレーキが標準化された1929年以降の改造工事時に換装されたものであり、ほとんどの木造車は、新造時にはPF・PMブレーキ装置、それより更に以前のものでは真空ブレーキを装備していた。
- ^ 流用品の枠や金具は、明治や大正といった製造時期の流行を反映して装飾的な曲線を備えた古風な形態で、鋼体化に際して不足分が製造された簡素な形状の新製部品とは容易に見分けることができた。
- ^ 戦前の木造車時代にも95km/hに達する高速運転が行われていたが、この際は特に乗り心地が問題になることは無かった。
- ^ 修学旅行用等の団体列車では、一般型客車より座席定員が多く収容力に勝ることから、国鉄・旅行会社側からは運用上好まれてすらいた、という。
- ^ 最も遅い例では、1985年1月初旬、予讃本線の臨時客車急行列車「いよ52号」に、鋼体化客車のオハフ61形1両が連結されていた、という、時代離れした運用記録例がある(この時の証拠写真も残され、後年の鉄道雑誌に発表されている。DE10形ディーゼル機関車でオハフ61を含む旧型客車3両を牽引するという、ローカル線の普通列車としても最低グレードの陣容で、主要幹線で1985年に運行された臨時急行列車とはにわかに信じがたい事象であった)。
- ^ 1948年10月の段階で組み込み先となる大形客車が3,298両あったのに対し、基本・中形客車は1,720両あり、大形客車を全車改造しても半数以上が余剰となった。
- ^ 1948年10月の段階で3軸ボギー式が97両、2軸ボギー式が528両、と第一線は退いたとは言え未だ多数が残存していた。
- ^ 定員超過状態での詰め込み乗車が常態であったため、心皿荷重の小さいTR11では荷重に耐えられないと判断され交換されたと見られている。
- ^ ただし、冷房化は最終的に実現しなかった。
- ^ 転換クロスシートもしくは固定クロスシート装備車。「並ロ」と呼ばれた。
- ^ 鋼板プレス溶接組立構造・ペデスタル軸バネ式軽量台車。
- ^ 和式客車による長編成運転は1969年の35系客車改造オハ80・オハフ80形で既に行われていた。
[編集] 参考文献
- 『鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10 国鉄客車開発記 1950』(電気車研究会、2006年)
- 星 晃「生まれ変わる国鉄の三等車」(初出:『鉄道ピクトリアル』1951年8月号 No.2) p34~p37
- 星 晃「鋼体化客車60シリーズ」(初出:『鉄道ピクトリアル』1952年8月号 No.13) p40~p43
- 星 晃「とくろものがたり」(初出:『鉄道ピクトリアル』1952年10、11月号 No.15、16) p44~p53
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2001年5、6月号 No.700、702 特集:60系鋼体化客車 I、II
- 『荷物車・郵便車の世界 昭和50年代のマニ・オユの記録』(クリエイティブ・モア、2004年)
- 車両史編さん会 国鉄鋼製客車史 第3編下巻 スハ32形の一族(スハ32800)
[編集] 関連項目
- 国鉄キハ08系気動車 - 本系列客車にディーゼルエンジンを載せ、気動車に改造したもの
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木造雑形客車 | 北海道炭礦鉄道の客車・日本鉄道の客車・官設鉄道の客車・関西鉄道の客車・山陽鉄道の客車・九州鉄道の客車・或る列車 |
木造制式客車 | 鉄道院基本形客車・鉄道院中形客車・22000系・28400系 |
鋼製一般形客車 | オハ31系・スハ32系・オハ35系・70系・60系・スハ43系・10系・50系・オハフ36形・オハ30形・マロネ40形・マシ35形 |
新系列客車 | 20系・12系・14系・24系・E26系 |
その他 | マニ30形・マニ44形・マヌ34形・ナハ29000形・ハテ8000形・オハフ17形 |
事業用車/試験車 | オヤ31形・マヤ34形・マヤ50形 |
車種別 | 皇室用・一等寝台車・二等寝台車・三等寝台車・一等車・特別二等車・二等車・三等車・展望車・病客車 A寝台車・B寝台車・グリーン車・普通車・食堂車・郵便車・荷物車・暖房車 |