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沖縄の歴史 - Wikipedia

沖縄の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

グスク跡(世界遺産)
グスク跡(世界遺産)

沖縄の歴史(おきなわのれきし)。沖縄とは、琉球に対する日本本土側の呼称。琉球処分後、日本の領土であることを明確化するため、琉球から沖縄に呼称が改められ、今日では一般化している[1]。下記の文中では基本的に「沖縄」の名称を使用した。

なお古来中国では沖縄を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼称していたため、両者が史書等で混同されることも多かった。琉球 (曖昧さ回避)を参照。

目次

[編集] 琉球と沖縄の名称

琉球国金丸世主書状(1471年)。島津宛の金丸(尚円王)の書状で、琉球国の表記が見える。
琉球国金丸世主書状(1471年)。島津宛の金丸(尚円王)の書状で、琉球国の表記が見える。

「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求」(7世紀)が初出で、その後「瑠求」(『元書』)などと様々に表記され、「琉球」に落ち着いたのは時代以降である。明以前の「琉球」が現在の沖縄を指していたかは判然とせず、台湾を指していたという説や、あるいは単に中国大陸の東方にある(日本以外の)島々を漠然と指していたという説もある。

沖縄では明との交易が始まった14世紀以降、自国の国号として「琉球」を用い、これが琉球王国が滅亡するまでの沖縄の名称であった。正式には「琉球國」と言った。

「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は定かではないが「おもろさうし」には「おきなわ」という名の高級神女名が確認される。このことは「おきなわ」なる御嶽があったことを示唆している。日本本土側の文献には、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年)の中に、「阿児奈波」と出てくるのが初出である。「沖縄」という漢字は本土側の琉球人の呼び名に対する当て字であるが、これは新井白石の『南島誌』(1719年)が初出で、これは新井が長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。琉球処分によって琉球王国が滅亡し、代わりに沖縄県が置かれたときに、沖縄が正式に採用された。なお、沖縄の人々がいう「ウチナー」とはオキナワの転訛であり、主として沖縄本島のことを指す。

[編集] 先史時代

沖縄には日本のような縄文時代弥生時代のような区分は行わない。

沖縄の先史時代は土器出現以前の後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代縄文時代 - 平安時代)とに分けられる。

[編集] 旧石器時代

沖縄にいつ頃から人類が現れたのかは明らかになっていないが、現在の南西諸島は、氷河時代にはアジアと陸続きであり、その頃に様々な動物と共に移り住んできたものであろう。沖縄の最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。また、1967年具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8千年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。

化石人骨は沖縄本島を中心に、久米島伊江島宮古島からもみつかっている。

しかし、沖縄県内からは確実な「旧石器」の発見はない。一部に旧石器らしき石器はあるが、研究者の間で評価が定まっているとは言いがたい。奄美諸島からは旧石器がみつかっている。

また、以前はV字状に加工したようなシカの骨を「叉状骨器(さじょうこっき)」としていたが、多くはシカが骨を噛んでできたものである。

[編集] 沖縄貝塚文化

貝塚時代は、縄文時代にあたる前半と、弥生時代から平安時代にあたる後半に大きく分けられる。前半について「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、使用については意見が分かれる。また、弥生時代の特徴に稲作(水稲耕作)があげられるが、現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは貝塚時代の末である。 

縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。古い土器としては約3500年前の厚手平底の角状取っ手がある下田原(しもたばる)式土器などが見られるが、これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入り、約800年前にグスク時代に入るまでこれが続く。

弥生文化の影響はあまり見られないが、その一方で弥生時代には、沖縄で作られた貝輪などの貝製品が日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことが知られている。

日本の記録としては、714年(和銅7)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されている(『続日本紀』)。新井白石は「信覚」は石垣島、「球美」は久米島に比定している。また753年(天平勝宝5)には鑑真が日本に来る途中「阿児奈波島」に漂着したとされ、これは沖縄のこととされる。これ以後の沖縄は長らく記録から消える。 これら古代史料から7-8世紀の南西諸島社会は身分が形成され階級社会へ向かっていたとする説や政治的社会が形成されつつある社会との説が出されている。 1990年代に入って、奄美大島でヤコウガイ貝匙(かいさじ)が出土し、交易が推測され、その後も遺跡がゾクゾクと見つかっており、それらの出土遺跡の年代は、おおよそ7-11世紀と見られている。

与那国海底遺跡は、階段状の岩底が続く大規模海底遺跡として、古代文明の一つという説がある。一方、自然物であると言う説もある。

[編集] 古琉球

沖縄における農耕の痕跡のうち最古のものは紀元前8世紀頃のものであるが、本格的な農耕社会が沖縄に成立したのは12世紀頃だとされている。農耕社会が成立してから島津氏が琉球(沖縄)を侵略するようになる1609年までを「古琉球」と呼ぶ。

[編集] 神話

琉球王朝の正史『中山世鑑』や『おもしろさうし』、『鎮西琉球記』などにある神話では、源為朝(鎮西八郎)が12世紀に琉球へ逃れ、その子孫が琉球王家の始祖とされる舜天になったとされる。また天の最高神(アマミクまたはアマミキヨ)が沖縄の島々をつくり、夫婦の神を島に遣わしたという。夫婦神は島で三男二女をもうけ、長男は国王の祖先となり、彼の子孫を天孫氏と言う。また次男は諸侯の、三男は農民の、長女は君々(高位の神女)の、次女はノロ(巫女)の先祖となった。天孫氏は25代に亘って沖縄を支配したが、だいたい12世紀末頃に地方豪族(按司・あじ、後述)が各地で反乱を起こし、天孫の重臣である利勇(りゆう)が王を弑し自ら僭称す。しかし各地の按司は彼に従おうとせず、浦添按司である舜天が利勇を討ち取って国を統一した。舜天の家は3代にかけて支配したが、第3代義本によって英祖禅譲が行われて断絶した。英祖は5代にわたって治めたという(英祖王統)。

宮古島にも別系統の創造神話がある。詳しくは宮古島#神話の項を参照。

[編集] グスク時代

貝塚文化の後、12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきた。農耕を基盤とした社会が成立すると、集落は海岸部から農耕に適した台地に移る(貝塚時代後期後半には遺跡が台地上に移行する)。この時代をグスク時代と呼ぶ。

この時代は日本中国大陸との人の交流が盛んで、中国だけでなく東南アジア・の陶磁器が輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性をましてきた。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司・あじ)となり、石垣で囲まれた(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。舜天英祖といった伝説上の王も、この頃の有力な按司のことであったと考えられる。日本からは平仮名が輸入され(1265年に日本僧禅鑑が伝えたとも言われる)、表音文字として文書全般に利用されたほか、中国や東南アジアとの交流によって、これらの色が濃い文化をはぐくんでいくこととなり、その後の琉球文化の基となった。琉球の信仰ノロといわれる女性祭司の力が非常に強いシャーマニズム的なもので、古い神道にも近い要素がある。後に仏教も伝来した。

1291年元軍に襲われたが、英祖軍は撃退している。

[編集] 三山時代

三山時代の勢力図
三山時代の勢力図

14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。英祖王統を滅ぼした察度が収める中部の中山、南部の南山(山南)、北部の北山(山北)である。この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。いずれも中国の帝国に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、その中から察度の子・武寧を滅ぼした尚巴志の中山が勢力を増し、統一への動きを見せた。また、三山時代からこの頃までの間に宮古・八重山といった先島諸島も沖縄本島の政権の影響下に置かれるようになった。

三山の中で、南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、まず1406年に中山王武寧(ぶねい)を滅ぼして、尚巴志の父である尚思紹を中山王につかせて基盤を固め、その後、1416年に山北(北山)を滅ぼし、その領土であった奄美諸島南部(沖永良部島以南)を侵略して領土に組入れ、1429年頃には山南(南山)を滅ぼして三山時代に終止符を打ち琉球を統一した。第一尚氏の始まりである(なお、1429年は統一した年ではなく、山南国の使者が明に最後の朝貢船を派遣した年で、この年までは山南王国があったと推測されている。ただし近年では1422年頃にすでに尚巴志の統一は済んでおり、従来との継続性から1429年に山南名義で朝貢したという説が有力である)。

[編集] 第一尚氏王統

首里城正殿(復元)
首里城正殿(復元)

初代琉球国王尚巴志王首里城を王都とした第一尚氏王統の基礎を築いたが、地方の按司の勢力は依然として強く、有効な中央集権化政策を実施することなく亡くなった。そのため、尚巴志王の死後、不安定な政情が続くことになる。彼の死後に第2代琉球国王に就いた尚忠王は在位5年で死去、第3代琉球国王は尚忠の息子尚思達王だが在位4年で死去、思達は子が無く、叔父の尚金福王(巴志の6男)が第4代琉球国王となるが彼も在位4年で死去した。金福の後継を巡って息子の尚志魯と弟の尚布里が争った結果、首里城は焼失、明からの「琉球国王之印」も失った上、両者相討ちとなった(志魯・布里の乱)。ここで巴志の7男である尚泰久が明へ使者を送り、国王印を下賜されて第5代王位に就いた。

内戦によって反乱分子は一掃されていたが、北山の按司による謀略など、地方まで勢力の及ばないことも間々あった。尚泰久王はそれまで島だった那覇と本島を結ぶ長虹堤を建設したが、工事がうまくいかないことから1451年天照大神を日本から招き、祈願したところ完成したため、沖縄最初の神社「長寿宮」を建立した。続いて「波之上宮」を初めとして琉球八社といわれる神社が整備された。彼は貿易立国琉球を自認して「万国津梁之鐘」を鋳造し、日本僧芥陰に選ばせた文章をに刻み付け、琉球が交易によって繁栄していることを喜んだが、1458年に完成すると在位7年で死去した。この鐘は復元され、現在も首里城にある。

尚泰久王の子である尚徳王は在位9年で急死する。法司(後の三司官)は尚徳王の世子を王に推挙しようとしたが、安里大親がこれを押しとどめて、重臣たちを前にして、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)を次期王に推挙した。重臣たちはこの提案に賛同し、これによって、金丸が1470年、国王に即位した。金丸は、1472年には明から冊封使が派遣され、中山王に封じられた。金丸が即位した経緯については、正史の記述のほかに、クーデターだったのではないかとの説もあるが、真偽は不明である。

[編集] 第二尚氏王統

[編集] 琉球の黄金時代

尚真王の治世は琉球の黄金時代であった。
尚真王の治世は琉球の黄金時代であった。

金丸は即位後尚円王と名乗り、第二尚氏王統が始まる。尚円王は在位7年で亡くなると、世子・真嘉戸樽(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王が即位した。しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸樽に神託を読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王は在位六ヶ月で退位し、越来に引退した。その年の内に薨去したと伝えられる。

1477年に真嘉戸樽は王位に就き、第3代・尚真王として50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築く。彼は仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備した。さらに南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めた。また国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えとした。

第二尚氏は第一尚氏に引き続き、15世紀から16世紀前半にかけて活発な海上政策を行った。中国福建(福州)に拠点をもち、王朝と朝貢貿易を行ったほか、明の軍事的な権威を背景に積極的な貿易を行い、日本本土の諸港にも交易船を送った。琉球の海上政策は朝貢による明王朝の軍事的な庇護と同時に、海禁政策の間隙を突き、中国と東南アジアとの中継貿易を行ったものだが、北方民族との戦いを続ける明の要求によって、琉球からは火薬の材料である硫黄と物資輸送用の軍馬が主に捧げられた。またマレー半島マラッカ王国パタニ王国タイアユタヤー王朝など東南アジア諸国とも活発な外交・貿易を展開した。

政権が安定すると、かねてから内属していた周辺島嶼の支配を強化した。石垣島の按司オヤケアカハチが琉球の官吏に政治改革や改宗を迫られた為に反抗、琉球への朝貢を拒否して反旗を翻したため、尚真王は1500年に征討軍を送った。宮古島の豪族・仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミャ)は琉球軍の先鋒を勤め、石垣島に侵攻してアカハチを殺害し、先島諸島が完全に領有された。与那国島は女首長サンアイ・イソバ(実在したかは不明)の下で独立が続いたが、琉球王府の承認の元、宮古島の仲宗根により1522年に制圧された。この経緯から、当初は八重山と与那国島の直接の支配権は仲宗根豊見親が握っていたが、二年後には琉球王府の直接統治へと移行していった。1524年には、園比屋武御嶽石門を作ったことで知られる西唐を竹富島に帰郷させ、蔵元(八重山一帯を担当する王府の行政出張機関)の長として就任させているが、これが王府による先島統治の最初である。奄美諸島については、1447年尚思達王奄美大島を従わせ、1450年から1462年まで喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃していた。1466年尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧をした。1537年には尚清王が、奄美大島の与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。1571年には尚元王が、再び反抗を始めた奄美大島の領主達を制圧している。この間、権益の奪還を目指した日本本土勢との間に、多数の戦闘が発生していた。(奄美諸島の歴史参照)

この時代が琉球の黄金時代であったが、16世紀後半には明が中国船の海外渡航を日本を除いて許可し、中国商船が活発に東南アジア諸港で活動を始めたことや、スペインポルトガルなどの南蛮勢力が台頭したこともあり、琉球と東南アジアとの交易は急速に衰退し、1570年には東南アジア貿易を廃止した。 また、ハンス芋(藩薯芋)が野国総管の手によって中国から持ち込まれたのは1605年のことである。これは麻平衡・儀間真常により琉球中に広められた。琉球ではトウイモ(中国から来た芋なので唐芋)と呼ばれ、琉球全土の食糧事情を劇的に改善して餓死者を減少した。野国総管の功績は現在も称えられている。因みに、薩摩にはその後1705年に琉球より伝来し、本土では薩摩から来た芋としてサツマイモ(薩摩芋)と呼ばれ、現在はその名称が定着している。

一方、薩摩(現在の鹿児島県)の島津氏は、戦国時代を通じて疲弊した自家の財政を立て直したいと考え、琉球を通じて明と貿易することを望んだ。1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。

この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されている。

[編集] 江戸幕府の明通商計画

琉球の衰退に対し、琉球を通じて明と貿易を望んだ薩摩国などを統治する島津氏は、豊臣秀吉による天下統一の頃から琉球王国への要求を強める様になった。秀吉も朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じるなど、日本側の圧力は強まっていった。1603年江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府中国大陸と通航を考えるようになるが、対等な外交を認めない中華帝国である明との通航には、明へ服属しなければならず、これを避けるために琉球を介した間接貿易を画策した。1602年と1603年に相次いで琉球の辺民が漂着したため、彼等を届ける見返りとして間接貿易に応じるように琉球王府へ働きかけたが、承諾は日本への服属(日本による貿易操作)を意味することと王府は考え、幕府の申し出を拒否した。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

[編集] 薩摩の侵攻

第二尚氏第7代尚寧1609年3月4日樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。3月8日奄美大島へ上陸し、地元按司の反撃を受けたものの制圧、3月22日徳之島3月24日沖永良部島を攻略し、3月26日には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。日本国内の戦国時代を経験し、鉄砲隊を主軸として侵攻する薩摩に対し、戦争の知識はあっても経験を薩摩ほど持っていなく、大貿易時代の終結で国力が低下していた琉球軍は抵抗及ばす、首里城は陥落する。尚寧は和睦を申し入れ首里城から下城した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に帰った。

1610年、尚寧は首里城を離れて、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美諸島(度々独立戦を起し、琉球は持余していた)を割譲させ直轄地とし、割譲後も表面上琉球領の体裁を採らせるため、王府の役人の派遣を続けさせた。

1611年、尚寧は琉球に戻され、三司官以下(鄭迥・謝名親方利山をのぞく)の重臣に、島津氏への忠誠を誓う起請文を提出させられ、国家の存続が認められた。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。

以後、尚氏代々の王は江戸幕府将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球ととの朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。すなわち、薩摩藩の密貿易である。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、にも朝貢を続け、薩摩藩は琉球が清との交易で得た利益で潤った。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させ、異国ということを意図的に強調させた。これは、幕藩体制下の日本において、異国である琉球をともなっている、薩摩藩の権威と地位を向上させるという狙いがあり、幕府にとっても中国の中華思想に基づく朝貢貿易と同じ性格の関係を琉球と持つことにより、中国と対等であるという意識を持てると言う利点もあった。

[編集] 王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)

島津侵攻から約50年後の1665年羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。『羽地仕置』(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。

羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。改修された河川は数十にも上った。蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。

この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。

羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

[編集] 中継貿易の衰退

幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。1844年イギリスフランスが通商を求めて琉球を訪れた。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、薩摩も1847年に琉球を英仏に開港した。

1853年には米国マシュー・ペリー提督が日本来航の前に沖縄を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行って、1854年3月31日嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩沿海州対馬藩李氏朝鮮長崎~清・オランダ薩摩藩~琉球~清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。

[編集] 明治以降

[編集] 琉球処分

1871年に全国で廃藩置県を実施(このとき琉球国を国家としてではなく令制国として扱い、鹿児島県に編入している)した日本の明治政府は、1872年(明治5)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。しかしはこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。当時の東アジアの秩序は、中国・清王朝を中心とした、朝貢を基本とする華夷秩序によって形成されており、琉球も例外ではなかった。しかし、日本は「万国公法」の、近代的な「国民国家」の理論を適用し、日清重属であった琉球を取り込もうとした。日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球漁民殺害の報復として1874年(明治7)に台湾出兵を行なった。1879年(明治12)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。同年中に沖縄県を設置し、薩摩以前の宗主国である清国との関係を重視する王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。一部の抵抗者は清に亡命し、琉球回復の政治活動を行い、彼らは脱清人といわれた。しかし日本政府が最も危惧した清国の武力介入は結局行われず、琉球王国中央集権的近代日本国家に組み入れられて消滅した。国王(正しくは藩王)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。第二尚氏家系は現在も続いている。 以上の、琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れを、沖縄では琉球処分と呼んでいる。または、琉球藩設置を第一次琉球処分、廃藩置県を第二次琉球処分ということもある。

清は、この動きにいっそう反発し、日本政府は翌1880年(明治13)に先島諸島の清への割譲を申し出て、清との合意がいったんは成立したが、清は態度を変えて条約に調印せず、結局、領有論は1894年(明治27)の日清戦争まで持ち込まれ、敗れた清は琉球に対する日本の主権を認めざるを得なかった。後の中華民国(現台湾)は今まで正式に日本の琉球領有権を認めたことがなかった。中華人民共和国は事実上沖縄を日本の領土と認めているが、公式の声明は発したことがない。

[編集] 近代化政策

正式に日本の領土とされた沖縄であるが、実情は世界に比べて法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が引き継がれることとなった。先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。運動は1890年代に県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、県政の改善や参政権を要求した。この運動の成果かはわからないが、徴兵制地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10~25年遅れて施行した。

1920年(大正9)に、南洋諸島が日本の委任統治になると、新天地を求めた住民が環境の似たこの地へこぞって移住した。また同時期に、ハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移民した。第一次世界大戦による戦争バブルが崩壊し、1930年代に世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると一時的に飢饉となり、貧家ではソテツの実を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうこともあり、「ソテツ地獄」と呼ばれる状況となった。この貧窮は、さらに出稼ぎを目的とした本土(大阪など)や南洋諸島、中南米への移民を促進することとなった。

[編集] 戦争

米軍に捕縛された民間人
米軍に捕縛された民間人
上陸中の米軍 (4/13)
上陸中の米軍 (4/13)

詳細は沖縄戦を参照

太平洋戦争では、1944年昭和19)10月10日に本土空襲に先駆けた激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅し(十・十空襲)、沖縄上陸戦開始まえに知事の努力で行なわれた本土疎開でも、学童疎開の対馬丸の被雷喪失など、被害が発生していた。

1945年(昭和20)3月26日慶良間諸島アメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、すさまじい砲撃と空襲を加え進攻してきた。圧倒的なアメリカ軍の火力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置、多くの一般人も戦闘に参加し、日本軍と共に亡くなった。第32軍司令官牛島満が自殺した6月23日に組織的戦闘は終結、実質的な沖縄戦は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた。沖縄戦における合計戦死者数は約20万人とされ、うち約12万人が沖縄県民、アメリカ軍は死者・行方不明者を合わせ1万2千人であった。[要出典]

また、戦争に伴って行われたマラリア発生地域への住民の強制疎開や、物資の移動、栄養状態の悪化、マラリアの集団罹患が発生(戦争マラリア)。米軍の収容所など、沖縄全域でも発生したとされるが、特に八重山諸島での被害が大きく、琉球政府文教局の『琉球資料集第一集』によれば、空襲による死者174名、強制疎開先で発生したマラリアによる死者3647名と空襲をはるかに上回る被害を出したという。

[編集] 戦後

[編集] アメリカの統治による琉球政府

沖縄における収容所
沖縄における収容所

詳細はアメリカ合衆国による沖縄統治を参照

戦争終結後、アメリカ政府は沖縄は独自の国で、日本に同化された異民族としてアメリカ軍政下に置いた。しかし、朝鮮戦争の勃発によってアメリカ政府の琉球に対する見方は「東アジアの要石」へと次第に変化し、琉球が最前線の基地とされると、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。旧日本軍の施設以外に、米軍は軍事力に物を言わせ、住民の土地を強制的に接収した。いわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」である。

1952年(昭和27)4月28日発効の日本国との平和条約で、沖縄は潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。アメリカは琉球政府を創設して沖縄を軍政下に置き、沖縄の各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。この状況に対し、住民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、また、このころから住民は日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、このころの米大統領アイゼンハワーは、沖縄を返還する気は全く無かったようである。

1960年代ベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。1968年(昭和43)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

[編集] 日本の施政下へ

詳細は沖縄返還を参照

日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45)に予定される安保延長と共に、沖縄の本土復帰を緊急の外交課題とした。このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意を汲み取ることにはならなかった。

1970年(昭和45)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄住民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。アメリカ政府にとっては、日頃温厚な琉球の人々が暴動をおこした事は大変ショックを受けた。

1969年(昭和44)の日米首脳会談では、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束した。屋良朝苗や復帰賛成派の県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還とされ、佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した。1972年(昭和47)5月15日琉球政府沖縄県となり、沖縄は日本へ復帰した。

また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社琉球電力公社琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。このため、沖縄県民や沖縄に同情的な人物の中には「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つ者、琉球独立論を唱える者がいる。

この本土復帰を日本による琉球再併合と規定し、沖縄返還ではなく第三次琉球処分と呼ぶ者もいる。

[編集] 現在

日本への復帰を記念して、1973年(昭和48)には若夏国体、1975年(昭和50)には沖縄国際海洋博覧会が開催された。しかし、観光以外にこれといった大きな産業がなく、日本で一番完全失業率が高い状態が長年続いている。このため、沖縄県では1998年(平成10)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX(Internet Exchange)の語に掛けて IT Exchange 等の呼びかけを行ない、コールセンターIT企業の優遇策による誘致を活発に行なっている。その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴なわないとして箱物行政といった話題も多い。また、2000年(平成12)には主要国首脳会議(サミット)が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。

文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代沖縄アクターズスクールが多数の歌手を輩出して、全国的な人気を博した。その後も若手の女優が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。

一方、現在も在日米軍の基地が多くあり、日本にある在日米軍基地の75パーセント(面積比)が沖縄に集中するという歪な構造となっている。これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による沖縄県民への暴行事件などがしばしば起きている。とくに1995年(平成7)の少女強姦事件は、治外法権の認められた基地に逃げ込んだ容疑者を沖縄警察が確保できない事態となり、日米地位協定の理不尽さを露呈させた。強姦事件により沖縄県民の間には米軍基地の早期返還を求める声が再度強く挙がり、これを受けて1997年(平成9)に日米両政府は普天間飛行場の全面返還を発表したが、移転先の選定が難航した。2004年(平成16)に普天間飛行場所属のヘリコプターが大学構内に墜落した事故は、同飛行場の危険性を危惧する世論を再燃させた。2006年(平成18)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍再編が決定したものの、実現には課題が少なくない。一方、永久に続く超大国は歴史上なく、遠い将来仮に米軍が撤退すれば沖縄に基地が集中することは、なくなるだろうが、国境地帯という立地にかわりはない。

[編集] 脚注

  1. ^ 東恩納寛惇 『南島風土記』 沖繩文化協会・沖縄財団、pp.16 地名概説『沖縄』。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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