文禄・慶長の役
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文禄・慶長の役 | |
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文禄の役・釜山城攻略/『釜山鎮殉節図』(1709年初筆を1760年に模写) |
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戦争: | |
年月日:1592年4月~1598年12月 | |
場所:朝鮮半島 | |
結果:出征した日本軍の撤退 | |
交戦勢力 | |
日本 | 明 李氏朝鮮 |
指揮官 | |
下記参照 | 下記参照 |
戦力 | |
(諸説あり) | (諸説あり) |
損害 | |
(諸説あり) | (諸説あり) |
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本文禄元年、明および朝鮮万暦20年)から1598年(日本慶長3年、明および朝鮮万暦26年)にかけて行われた日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた戦役である。
目次 |
[編集] 名称に付いて
豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、この戦役が日本が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであることから、高麗陣・朝鮮陣の呼称とともに唐入り・唐御陣などの呼称が用いられていた。幕末から明治初期にかけては朝鮮征伐、征韓などと呼ばれるようになったが、1910年(明治43年)の日韓併合以後は朝鮮人が日本国民となったことから朝鮮征伐の表現は避けられ、代わって第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役、併せて文禄・慶長の役という呼称が定着した(他にも朝鮮出兵や朝鮮役という呼び方もある)。しかし、日本が朝鮮に侵攻した戦争であったため、近年では「神功皇后の三韓征伐」と「豊臣秀吉の朝鮮征伐」という皇国史観によって近代日本の帝国主義が助長・正当化されたという観点から戦後反省の必要性を込めて、朝鮮側が受けた被害に関心をもつ立場の研究者[1]を中心に朝鮮侵略と呼ぶ場合もある。
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。北朝鮮・韓国では文禄の役を壬辰倭乱(임진왜란, イムジンウェラン、戦役総称として使う場合もあり)、慶長の役を丁酉再乱(정유재란, チョンユヂェラン)と呼んでおり(北朝鮮では壬辰祖国戦争(임진조국전쟁, イムジンチョグクチョンジェン)と呼ばれる場合もある)、中国では万暦朝鮮戦争(万历朝鲜战争)もしくは朝鮮壬辰衛国戦争(朝鲜壬辰卫国战争)と呼ばれる。
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった活発であった戦役第1年の1592年のほとんどの出来事は年号的に天正20年の出来事である。
[編集] 経緯
[編集] 戦役前の状況
1590年に日本を統一した豊臣秀吉はアジア諸国へ服属を命じていたが、明の征服をも企図し、対馬の領主宗氏を通じて「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導を命じた(征明嚮導)」。元来朝鮮との貿易に経済を依存していた宗氏は対応に苦慮し、日本統一を祝賀する通信使の派遣を要求して穏便に済まそうとしたが、結局秀吉は明への遠征を決め、文禄元年(1592年)四月(和暦。漢数字表記の月は以下同じ)、「朝鮮に明への道を借りる(假途入明)」という名目で朝鮮を制圧するために16万の大軍を送った。なお、戦力に自信のあった日本軍は上陸後も戦国の常識に従って何度も李氏朝鮮への交渉による服属を試みており、朝鮮の武力制圧が既定路線であるかのような認識は間違いである。戦術レベルに於いても攻城戦の開始前と落城寸前の場面で降伏勧告を行っており、自軍被害も低減できる無血開城の交渉を行っている。しかし異文化間の戦争のため明・朝鮮の指揮官は民衆を巻き込んだ籠城を最後まで行い、守将の降伏による無血開城よりも民衆を巻き込んだ落城を選ぶケースが多かった。
李氏朝鮮王朝では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。
[編集] 文禄の役
4月12日、釜山に上陸した日本軍は翌日より攻撃を開始した。侵攻に対応が遅れた朝鮮軍は連戦連敗や無血撤退・逃散を重ねた。釜山鎮の戦い(鄭撥戦死)、東莱城の戦い(宋象賢戦死)、尚州の戦い(李鎰敗走)、弾琴台の戦い(申リツ戦死)などで日本軍は勝利を重ねた。日本軍は一番隊(小西行長、他)、二番隊(加藤清正、他)、三番隊(黒田長政、他)を先鋒に三路に分かれて急進し、漢城に日本軍が迫ると朝鮮国王の宣祖は平壌へ遷都して避難、翌5月には首都漢城(漢陽・現在のソウル)を日本軍が占領する。
容易に李氏朝鮮の王都である漢城が陥落すると、日本の諸将は5月に漢城にて軍議を行い、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた(平安道 一番隊小西行長他、 咸鏡道 二番隊加藤清正他、 黄海道 三番隊黒田長政他、 江原道 四番隊毛利吉成他、 忠清道 五番隊福島正則他、 全羅道 六番隊小早川隆景他、 慶尚道 七番隊毛利輝元他、 京畿道 八番隊宇喜多秀家他)。日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請するが、その間にさらに北上した日本の第1軍と第3軍は平壌を占領して進撃を停止した。なお、開城攻略まで行動を共にしていた第2軍は咸鏡道へ進路を転じ、日本軍は北西部の平安道の平壌より北方と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、加藤清正の一隊は威力偵察のため国境を越えて明領オランカイ(兀良哈)へ攻め入った。
「宣祖実録(ソンジョシルロク)宣祖二十五年壬辰五月條」によると、このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。
これは、前述実録の「人心怨叛,與倭同心耳」、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」でうかがい知ることができる[2]。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ、奴隷の一種)は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある[3]。
日本軍に大きく後れを取った李氏朝鮮であったが、釜山を基点として支配領域を広げていた日本後方部隊のうち海岸移動を行っていた船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍が4月と5月の二回の出撃で積極的に攻撃を加え、備えのない日本船団が被害を受けた。
海上戦闘用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった豊臣秀吉は陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。
こうして編成された水軍は脇坂安治の抜け駆けが閑山島海戦にて敗北、続いて援護のために進出した加藤嘉明と九鬼義隆の水軍が李舜臣の泊地攻撃に耐えかねて後退すると、豊臣秀吉は海戦の不利を悟って積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更した。
これは長年の和冦対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の落差もあって正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であったことによる。しかし当時の船は航海力も攻撃力も未熟であり、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能し、以降の李舜臣の攻撃は被害が増大し戦果が挙がらず精彩を欠くようになり、出撃も滞ることとなった。
7月、援軍に来た明軍の部隊が最前線の平壌を急襲した。これは小西行長によって撃退するものの、明の救援によって交渉優先の状況となり戦況は膠着することになる。
朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していったが、前述のとおり小西行長は当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を優先して平壌で北進を停止、また小早川隆景は忠清道方面から全羅道に侵入したが権慄の反撃によって進撃を阻まれ、直後に南下する明軍の攻撃に対応するために漢城へ転出したため、全羅道の制圧は進まなかった。
日本軍は釜山西方の制圧を企画して第一次晋州城合戦(1592年9月、細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍)で苦戦して攻城に失敗した。ちなみに、この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)とあわせて韓国では三大捷と呼ばれている。
翌文禄2年(1593年)1月、明軍がさらなる大軍で平壌に進攻し奪還。日本軍は漢城郊外の碧蹄館の戦いで勝利。この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められた。
占領各地では義兵の決起が生じ、このため武器・兵糧不足に悩まされた。この義兵は流民も多く、朝鮮の民衆や軍隊も襲う事もあった。漢城に集結して和平交渉を始めていた日本軍だが、本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、加藤清正が捕虜にした李氏朝鮮の二王子の返還と引き替えに釜山周辺の南部へ4月頃までに移陣した。
また、兵力と補給に余裕が出てきたので朝鮮南部の支配を既定事実とするため、朝鮮南部へ布陣した諸将を動員して第二次晋州城合戦で晋州城を攻略(当初は漢城戦線を維持したまま本土からの新戦力を投入する計画であった)、更に全羅道を窺うも明軍の進出によって戦線は膠着し、長い休戦期に入った。
[編集] 休戦期の和平交渉
秀吉は明が降伏したという報告を受け、明の朝廷も秀吉が降伏したという報告を受けていた。これは日本・明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。
このため秀吉は和平に際し、明の皇女を天皇に嫁がせる事や朝鮮南部の割譲など、とうてい明側には受け入れられない講和条件を提示し、明の降伏使節の来朝を要求した。一方、明の朝廷の側も日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。
結局日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王の金印を授けるため日本に使節を派遣した。
文禄5年(1596年)九月、秀吉は来朝した明使節と謁見。秀吉は降伏使節が来たと当初は喜んだが、使節の本当の目的を知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。
[編集] 慶長の役
慶長2年(1597年)2月、和平交渉で無視された朝鮮南部の日本への割譲を実力で果たすという名目で、秀吉は14万の軍を再び朝鮮に送った。李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令したが、度重なる命令無視のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任には元均が登用された。
朝鮮水軍を引き継いだ元均も攻撃を渋ったが、ついに7月に出撃を行った。しかし日本側の防御によって攻撃は失敗し、帰路に巨済島で停泊していたところを水陸から攻撃され、朝鮮水軍は幹部指揮官の戦死と共に壊滅的打撃を被った。
続いて8月、日本軍は右軍と左軍(及び水軍)の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。対する明・朝鮮軍は道境付近の黄石山城と南原城で守りを固めたが、日本の右軍は黄石山城を、左軍は南原城を攻撃、たちまち二城を陥落させ全州城を無血占領した。
日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に別れ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い守備担当を決め全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍であったが、結局南下抗戦を決意し9月に先遣隊の明将 解生と黒田長政の部隊が稷山で遭遇戦を行い双方が後退した。
同じく9月には南原城から南下した後に西進した日本水軍の先鋒を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が鳴梁海戦で破った。しかし、日本軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は制海権を失い李舜臣も全羅道北端まで後退し日本水軍は全羅道西岸まで進出した。
冬を前にして明軍と朝鮮軍が南下することを知ると日本軍は慶尚道へ撤退して築城布陣して対抗した。日本軍の撤退によって全羅道へ明軍と朝鮮軍は再進出した。
防御に回った日本軍に対して12月には完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)に明と朝鮮の大軍が押し寄せ、急遽入城した加藤清正を初め食料準備のできないまま包囲の中での苦しい籠城戦となった。翌1598年1月、蔚山城は落城寸前まで追いつめられるが、日本軍の援軍が水陸から明・朝鮮軍を攻撃敗走させ蔚山城を守りきった(蔚山城の戦い)。しかし労多くして益の少ない戦役に厭戦気分の蔓延していた諸将は積極的な追撃を行わなかったと奉行や秀吉に叱責されている。
翌慶長3年(1598年)、蔚山城戦で遺棄死体2万と記録した明・朝鮮軍にも厭戦気分は蔓延し戦線は膠着した。日本では8月に豊臣秀吉が死去し戦役を続ける意義が失われた。もっとも秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかった。
9月に入ると明・朝鮮軍は蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた倭城の堅固な守りに助けられ、第二次蔚山城攻防戦は、大きな戦いにならなかった[要出典]ものの明・朝鮮軍を撃退し防衛に成功。泗川の戦いは島津軍が反撃のチャンスを捉えて明・朝鮮軍に大打撃を与え潰走させた。
順天を守っていたのは小西行長であったが、日本軍最左翼に位置するためあらたに派遣された明水軍が加わり陸海からの厳しい攻撃を受けるが防衛に成功し明・朝鮮軍を後退させた(順天城の戦い)。明・朝鮮軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。
蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた日本軍であったが、既に秀吉は8月に死去しており戦争を継続する意義は失われていた。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による撤退命令が発令された。撤退命令を受領した小西行長は、11月明・朝鮮の陸水諸将と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付けるが実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続しており、海路撤退を妨害した。
小西軍の脱出が阻まれてていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘の他、立花宗茂、寺沢正成、宗義智らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津の救援水軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行った。
この露梁海戦で島津水軍は大きな損害を受けたが、明、朝鮮連合軍も明水軍の副将 トウ子龍や朝鮮水軍の三道水軍統制使の李舜臣が戦死するなどの損害を受け、後退する島津水軍を追撃する力はなかった。また、明・朝鮮水軍の出撃で順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は海戦海域を避けて海路脱出に成功している。
こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服は成功に至らぬまま、秀吉の死によって終結した。
[編集] 戦役後の和平
和平交渉は徳川家康によって委任を受けた対馬の宗氏と朝鮮当局の間で進められる。断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。征夷大将軍徳川家康と朝鮮側の使節との会見が実現したのは日本軍撤兵から6年後の慶長9年(1604年)、江戸幕府に対する朝鮮通信使が派遣されて正式の和平が果たされたのは慶長12年(1607年)であった。明は国交を結ばずに滅亡、変わって誕生した清は、すでに日本が鎖国をとったため正式な国交を持たず、貿易だけを行うかたちに終わった。
[編集] 影響
休戦を挟んで6年に及んだ戦争は、朝鮮・日本・明の三国に重大な影響を及ぼした。
[編集] 朝鮮半島への影響
戦場となった朝鮮半島では日本軍、朝鮮軍、明軍の戦闘や駐留の他、統治不全によって治安が悪化した為、不平両班や被差別階級、困窮した農民、盗賊による反乱、蜂起、及び朝鮮軍によるその鎮圧、また朝鮮王朝内部の政争による粛正や処刑などが行われ、混乱は戦災を更に悲惨なものとした。
李氏朝鮮は階級差別と搾取によって農民が春窮と呼ばれる毎年春に飢える状況が常態となっているほど生産性の低い統治を行っており、国土開発を怠っていた。また、流通経済が発達しなかったため銀などの貨幣による売買が成立せず自給自足が基本の朝鮮民とは物々交換などで食料の調達を行わなければならなかった。
戦争が開始され、日本軍・明軍・朝鮮軍による現地調達による食料消費と治安悪化のために農民が耕作を放棄することで流民が流民を生み、飢えた民衆は敵味方より略奪することで飢えを凌ごうとした。また、明軍と李氏朝鮮との交渉により鴨緑江より朝鮮側の兵糧供給は李氏朝鮮側の調達及び輸送と取り決められたため、自軍と政府の維持も含めて李氏朝鮮は民衆から過酷な食料調達を行ったため、明軍の略奪と合わせて日本軍が一歩も足を踏み入れていない平安道も荒廃して開戦当初の人口を養いきれずに人口が激減した。
民衆は無秩序に食料を求めて朝鮮・明軍・日本軍を襲い、食料調達が不足した日本軍・明軍・朝鮮軍は朝鮮民衆から現地徴発を行った。明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。戦役の後期から戦後の安全保障のための明軍の朝鮮駐屯による略奪なども横行し、後に朝鮮の民衆の中には日本を一番の侵略者としながらも、明軍に対しても第二の侵略者として評する人間も出てきた。
また戦時下での混乱により諸勢力による宮殿・王陵、官庁、文化財の破壊や略奪が行われた。特に身分差別に苦しんだ朝鮮民衆は緒戦の混乱に乗じて官庁や被差別身分を示す書類を焼き払った例が朝鮮側資料により知られている。また日本軍は治安を乱しゲリラ攻撃を仕掛ける義勇軍の抵抗に手を焼いたため、治安確保のために住民の虐殺や村の焼き討ちなどを行うことも多かった。戦功の証明として行われたはなそぎによってその後しばらくの間朝鮮に鼻のない人間が多く見られたということが知られている。しかしこれらは不穏民衆を一揆と認識して討伐した慶長の役が始まった後の話であり、当初は朝鮮は戦後には支配下に繰り入れられるべき領土であり、日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。はなそぎも1597年の慶長の役の頃が主体であるが、これまで戦争全般を通じた蛮行であるがごとく語られてきた。また戦後に咸鏡道に建てられた日本軍撃退記念碑の北関大捷碑には加坡の戦闘で斬殺した日本兵から左耳825個を切り取って朝鮮王へ送った記録が残っている他、日本兵の首に賞金を掛けたため都市部で朝鮮軍・明軍による朝鮮領民の首無し死体が続出するなど荒廃した状況が伝えられる。
戦役以後、総じて朝鮮人の間では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。
一方、朝鮮の両班階層(支配層)の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、明への恩義を重視する思想が広まった。これは後の明清交代期に於いて、清朝と明との間での朝鮮外交の針路に多大な影響を与えることとなった。
また、文化面でも朝鮮半島に多大な影響をもたらした。南蛮貿易により日本にもたらされた唐辛子は、文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。
[編集] 日本国内情勢への影響
留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。
一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備のために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。派兵を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。
五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い(1600年)に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、1603年に征夷大将軍に任ぜられた。こうして太平の江戸時代が始まる。
また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられた朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また奴隷として海外に売られたこともあった[4]。
[編集] 韓国侵出・併合への影響
江戸時代末期・明治時代になると、この出来事が朝鮮への侵出の際にクローズ・アップされるようになり、韓国侵略を推進した日本の軍人・政治家はこれを豊臣秀吉公の遺志を継ぐ行いだと考えるものも多くなった。朝鮮併合がなった際、初代総督寺内正毅は『小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ(秀吉公の朝鮮征伐に参加された小早川・加藤・小西の諸将が今生きていれば、朝鮮を日本のものとしたこの夜の月をどのような気持ちでみられるだろうか)』と高らかに歌いあげ、外務部長だった小松緑はこれに返歌して、『太閤を地下より起こし見せばやな高麗(こま)やま高くのぼる日の丸(太閤殿下を蘇らせ見せ申し上げたいものだ、朝鮮の山々に高く翻る日の丸を)』と歌い、共に“太閤以来の宿願である”朝鮮征服が叶ったことを喜んだ。
[編集] 明への影響
朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏のボバイ、播州(四川省)の楊応龍の二人の辺境地方の地元民族首長反乱の鎮圧とあわせて、「万暦の三大征」と呼んでいる。
これらの軍事支出と皇帝万暦帝の奢侈は明の財政を悪化させ、17世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。
[編集] 文禄・慶長の役 関連人物
[編集] 日本側
文禄の役 戦闘序列
- 一番隊
- 小西行長 宗義智 松浦鎮信 有馬晴信 大村喜前 五島純玄(宇久純玄)
- 二番隊
- 加藤清正 鍋島直茂 相良頼房
- 三番隊
- 黒田長政 大友吉統
- 四番隊
- 毛利吉成(森吉成) 島津義弘 高橋元種 秋月種長 伊東祐兵 島津忠豊
- 五番隊
- 福島正則 戸田勝隆 長宗我部元親 蜂須賀家政 生駒親正 来島通之 来島通総
- 六番隊
- 小早川隆景 小早川秀包(毛利秀包) 立花統虎(立花宗茂) 高橋統増(立花直次) 筑紫広門 安国寺恵瓊
- 七番隊
- 毛利輝元
- 八番隊
- 宇喜多秀家
- 九番隊
- 豊臣秀勝 長岡忠興(細川忠興)
- 船手衆(水軍)
- 九鬼嘉隆 志摩鳥羽
- 堀内氏善 紀伊新宮
- 杉若伝三郎 紀伊田辺
- 桑山重勝 紀伊和歌山
- 桑山小伝次 紀伊和歌山
- 藤堂高虎 紀伊粉河
- 脇坂安治 淡路洲本
- 菅野正影 淡路岩屋
- 加藤嘉明 淡路志知
- 来島通之 伊予来島
- 来島通総 伊予来島
- その他(戦いに参加した人物)
- 石田三成 大谷吉継 増田長盛 長谷川秀一 木村重茲 加藤光泰 前野長康 浅野幸長 吉川広家 毛谷村六助 大石智久
- その他(戦いには参加しなかったが朝鮮に渡った人物)
- 伊達政宗 上杉景勝
[編集] 朝鮮側
- 王族
- 宣祖 光海君 臨海君 順和君
- 主要武将・官僚
- 柳成龍 権慄 申リツ 李舜臣 元均 李億祺 金時敏 郭再祐
- その他
- 惟政 姜コウ ジュリアおたあ 沙也可(金忠善)
- 金誠一 鄭撥 宋象賢 金命元 惟政 休静 金応瑞
- 李桓福 李陽元 李英男 桂月香 論介 李参平 鄭起龍
- 高敬命 趙憲 崔慶会 尹斗寿 尹根寿 李恒福 李德馨
- 陳武晟 韓濩 許浚
[編集] 明側
[編集] 八道国割
[編集] 主な戦い
- 1592(文禄元)年
- 1593(文禄2)年
- 1597(慶長2)年
- 1598(慶長3)年
[編集] 脚注
- ^ 北島万次 『豊臣政権の対外認識と朝鮮侵略』(1990)/校倉書房
- ^ 『宣祖實録』二十五年(1592)五月壬戌
- ^ 『宣祖修正實録』二十五年(1592)四月晦日
- ^ 『朝鮮日々記を読む 真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略』 朝鮮日々記研究会編 法藏館 2000年