藤堂高虎
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期 | |||
生誕 | 弘治2年1月6日(1556年2月16日) | |||
死没 | 寛永7年10月5日(1630年11月9日) | |||
別名 | 与吉、与右衛門(通称) | |||
戒名 | 寒松院殿道賢高山権大僧都 | |||
墓所 | 東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院 | |||
官位 | 従四位下、左近衛権少将、佐渡守、和泉守 | |||
主君 | 浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄 豊臣秀長、秀保、秀吉、徳川家康、秀忠 家光 |
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藩 | 伊予今治藩主→伊勢津藩主 | |||
氏族 | 藤堂氏 | |||
父母 | 父:藤堂虎高、母:藤堂忠高の娘 (多賀良氏の娘・盛との説もある) |
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兄弟 | 姉(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎 妹(山岡直則室のち渡辺守室)、高清 正高、妹(藤堂高経室) |
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妻 | 正室:一色義直の娘・久芳院、 継室:長連久の娘・松寿院 |
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子 | 高次、高重 娘(蒲生忠郷正室のち専修寺堯朝室) 娘(藤堂忠季室) 娘(岡部桂賢室)、養子:高吉 養女:織田信清の娘(藤堂高刑室) 娘(生駒正俊室)、娘(小堀政一室) |
藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。
築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 近江時代
弘治2年(1556年)1月6日、近江犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄高則は早世)。藤堂氏は先祖代々、領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民となっていた。幼名を与吉と名乗った。
はじめ近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して武功を挙げ、数々の首級を挙げて、長政から感状を受ける。天正元年(1573年)に浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。
[編集] 織田・羽柴(豊臣)時代
しかしやがて近江を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕える。しかしそこでも長続きせず、そこを去って天正4年(1576年)、羽柴秀長(豊臣秀長)に仕え、3000石の所領を与えられた。秀長のもとでは中国征伐、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで抜群の戦功を挙げたため、2,000石を加増された。のちに秀吉から5,000石をさらに加増され、合計1万石の大名に昇進。
天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めにも従軍し、このとき秀吉の命令で雑賀党の首領であった鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて1万石を加増され、倍の2万石に。この頃、秀吉の推挙を受けて正五位下佐渡守に叙任する。
天正19年(1591年)に秀長が死去すると、その養子である羽柴秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征し、軍功を挙げた。しかし文禄4年(1595年)、秀保が早世すると高野山に上って出家する。だが、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予板島(現在の宇和島)7万石の大名に。このとき、秀吉から日本丸という軍艦を拝領したとされる。
慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げた。そのため帰国後、1万石を加増されて8万石に。そして、板島丸串城の大規模な改修を行った(完成後に宇和島城と改称)。
[編集] 関ヶ原
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去する直前より、高虎は次の天下人は徳川家康であると判断し、急速に家康に接近する。そして豊臣氏の家臣団が武断派、文治派に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。
慶長5年(1600年)、上杉景勝が家康に対して挙兵すると、家康による会津征伐に軍勢を率いて従軍する。そして石田三成ら西軍が挙兵すると、高虎は家康の東軍に従って織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦し、9月15日の関ヶ原本戦にも参加し、大谷吉継隊と死闘を演じた。また、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らの調略(寝返り)工作にも貢献したため、戦後、家康から伊予今治20万石に加増移封された。
[編集] 江戸時代
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、伊勢津藩主となる。家康は高虎の能力、並びに忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、「徳川実紀」においても、「各隊将の者共いづれも軍令を耳にも入ず。前後の次第を乱し、八百余騎が二騎三騎づつ息をつかず馳せかかるを。長宗我部盛親八尾堤下まで引付て。俄にどつとおめきて突かかる。藤堂が手の者忽に六十余人討れ云々」とあるように、藤堂隊は長宗我部隊相手に苦戦し、武将の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出した。しかし、戦いには何とか勝利している。その功績により、戦後、32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。
家康死去の際、枕元に侍ることを許された。家康没後は秀忠に仕え、元和6年(1620年)、徳川家康の孫である和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという。
晩年には眼病を患って失明している。寛永7年(1630年)10月5日に死去。享年75。後を長男の高次が継いだ。
[編集] 人物
- 6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。
- 高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった(高虎も当時としては当然の行動をしただけであるが、同輩からの大名に出世した嫉妬と、外様でありながら家康の覚えが良い事を嫌う徳川譜代との確執が背景にあると思われる)。
- 武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。
- 「常に死を覚悟していれば、心は動じない」の言葉を残す。
- 関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。
- 城郭建築の名人として知られ、慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けた。しかし全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。
[編集] 逸話
- 講談、浪曲「藤堂高虎、出世の白餅」では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の藤堂高虎(当時、与右衛門)が、三河国吉田宿(現・豊橋市)まで流れてきて、吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食して、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと諭され、路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が、参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。
- あるとき、2人の家臣(遊女好きの家臣と博打打ち好きの家臣)が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。このとき、高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣はまだ見込みがあるとして家中に置いたという。博打打ちなら計算高いであろうということかららしい。
[編集] 実力主義者
- 高虎は、いわゆる実力主義者であった。取り立てて血筋がよかったわけでもない。にも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。津田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。
- 秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら、いち早く徳川家康に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。確かに忠義を重んじる武士の士風においては決して賞賛されるべきことではない。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国征伐の時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。
- 家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。臨終の席では外様では高虎のみ枕元に侍ることを許された。
- ただし、幕末の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍劣勢と察し、真っ先に官軍に寝返って、幕府側に砲撃を開始したのは藤堂家であったため、幕府軍側では「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と皮肉ったという。だが一方、寝返った藤堂家は、官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。
- 本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。
[編集] 演じた人物
- NHK大河ドラマ『徳川家康』 前田昌明
- NHK水曜時代劇『真田太平記』 児玉謙次
- NHK大河ドラマ『春日局』 ト字たかお
- テレビ東京時代劇『風雲!真田幸村』 西山辰夫
- テレビ東京時代劇『姫将軍大あばれ』 中山昭二
- NHK大河ドラマ『秀吉』 徳秀樹
- NHK大河ドラマ『葵徳川三代』 田村亮
- NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』 誠直也
[編集] 関連項目
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