赤座直保
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赤座 直保(あかざ なおやす、? - 慶長11年(1606年))は安土桃山時代の武将である。父は赤座直則か。名は久兵衛、吉家。備後守。
父・直則は織田信長に仕えていたが、本能寺の変で討死してしまう。直保は豊臣秀吉に仕え、1590年(天正18)の小田原征伐では武蔵国岩槻城、忍城の攻略に参加し、2万石を与えられる。その後は越前国今庄を本拠にし、小早川秀秋や堀尾吉晴の与力を務める。
1600(慶長5)の関ケ原の戦いで初めは西軍の大谷吉継の軍に属していたが、小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷軍を壊滅させる。だが通款を明らかにしなかったとの理由で、戦後、徳川家康にその功を認められず、所領を没収された。その後、前田利長の家臣となり松任城代として7000石を領したが、1606年、越中大門川の氾濫の検分の際、濁流を渡河中に落馬、溺死している。
子の孝治は永原と改姓し、加賀藩の藩士として存続した。