岩槻城
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岩槻城 (埼玉県) |
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岩槻城跡(現:岩槻城址公園) |
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通称 | 岩付城、白鶴城、浮城 |
城郭構造 | 総曲輪式平城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 成田正等 |
築城年 | 1478年 |
主な改修者 | 後北条氏 |
主な城主 | 成田氏、太田氏、後北条氏、大岡氏他 |
廃城年 | 1871年 |
遺構 | 現存門、土塁、曲輪、空堀 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯35度57分4.85秒 東経139度42分36.86秒 |
岩槻城(いわつきじょう)は、武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区・合併前は岩槻市)にあった岩槻藩の藩庁。江戸時代以前には岩付城とも書かれた。県指定史跡。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 室町時代
従来は1457年、扇谷上杉持朝が当時対立していた古河公方・足利成氏を牽制するために、扇谷の家臣の太田道真・太田道灌父子によって江戸城河越城とともに取り立てられたとされていた。しかし、近年、1478年に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料が発見され、最近の研究では後者の説のほうが有力である。
[編集] 戦国時代
扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入する。1522年、太田資頼が岩槻城を奪取する。以後、岩槻太田氏の居城となる。ところで、伊豆、相模を手中に収め、関東平定に野心を持っていた北条氏が、この頃から岩槻城攻略に乗り出す。1546年の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、岩槻城のみは孤立しながらも奮闘する太田資正(三楽斎)の居城として機能する。1564年、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し、資正の追放を断行。岩槻城は北条側に落ちる。1567年、氏資が上総国で戦死した。氏資には男子がいなかったため、北条氏はこれを契機に岩槻城を直轄にする。1580年には北条氏直の弟の源五郎が、その早世後の1585年にはその弟氏房が城主になる(※形の上では太田氏の名跡を継いでいる)。
豊臣秀吉による小田原征伐の際には、二千の兵が岩槻城に篭城するが、浅野長吉等に率る約二万の兵に攻められ、1590年落城。
[編集] 江戸時代
北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が二万石で岩槻城に入る。以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となる。江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入り、藩主が固定。廃藩置県まで大岡氏の居城となる。
城址公園に黒門と裏門が移築され残っている。他に門2棟が移築され残っている。城址公園は曲輪の一部で、本丸があった場所は住宅地となっている。
[編集] 構造
荒川(現在の元荒川)の台地を利用した平城。また珍しい総曲輪型城郭の縄張りが施されていた。
中世には奥大道(鎌倉街道中道、奥州道)沿いに、近世には日光御成街道沿いにあった。
[編集] 岩槻城址公園
岩槻城址公園(いわつきじょうしこうえん)は、岩槻城を含め周辺を整備した公園である。ほぼ岩槻区太田3丁目の全域に広がる。通称おはやし公園や岩槻公園とも呼ばれる。桜の名所としても名高い。
[編集] 沿革
旧・岩槻市の都市計画公園として整備され、開園時は岩槻公園(いわつきこうえん)と呼ばれたが、さいたま市との合併に伴い「城址」の二文字が加えられた。17.9haの起伏の多い公園で、岩槻城址の土塁が今でも残っている。
[編集] 園内
園内にある池には、この公園の象徴である朱塗りの八ッ橋が架かる。ギザギザの橋が特徴的である。 北側の広場には、子供用の遊具や広い芝生、童人形が時を告げるからくり時計と、東武鉄道の特急車1720系「DRC」の第1編成車両で、東武日光方先頭車である1726号が静態保存されている。
- 市民会館いわつき、岩槻公園野球場、岩槻城址公園テニスコート、岩槻城址公民館などの施設がある。
[編集] 行事
- 毎年4月上旬には桜祭りが開催され、屋台なども出店され賑わう。植木市も開催される。
- 毎年4月29日には岩槻流しびなが行われる。子供の無病息災を願う行事で、現在のひな祭りの起源とも言われている。
- 毎年11月3日には園内西部の人形塚で人形供養祭が行われている。