上杉持朝
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上杉 持朝(うえすぎ もちとも、1416年(応永23年) - 1467年10月4日(応仁元年9月6日))は、室町時代中期の武将。上杉氏定の子。官位は弾正少弼。修理大夫。相模守護。子に上杉顕房・高救・定正・朝昌、吉良成高正室など。
扇谷上杉氏出身。幼名は竹寿丸。上杉禅秀の乱において父の氏定が戦死し、跡を継いだ兄の上杉持定もまもなく亡くなったため、小山田上杉家の上杉頼定の補佐を受ける形で家督を継承する。永享の乱では上杉憲実に従って鎌倉公方の足利持氏討伐に功績を挙げた。翌1440年の結城合戦でも、幕府軍の副将を務めて武功を挙げている。1449年、持氏の子の足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、かつて持氏を滅ぼしたことを憚り、嫡男の上杉顕房に家督を譲って出家し、道朝と号した。
1454年、関東管領であった上杉憲忠(持朝の娘婿)が足利成氏に謀殺されると(享徳の乱)、持朝は憲忠の弟・上杉房顕を新たな関東管領に擁して、自身は裏で実権を牛耳るにいたったのである(なお、康正元年(1455年)の分倍河原の戦いにおいて顕房が戦死し、それ以降は持朝が再び当主として活動している)。これにより成氏と敵対関係となったため、成氏に対抗するために1457年には家宰の太田道灌に命じて岩槻城・河越城、そして江戸城の三城を築城させて武蔵の分国化の足がかりを築いた。
ところが1462年、今度は兵粮料所の設置を巡る争いから堀越公方となっていた足利政知と敵対関係になるに至ってしまった。このため持朝は政知を支援する将軍足利義政からの詰問を受ける。その結果、持朝の代わりに責任を負う形で大森氏頼・三浦時高・千葉実胤の3重臣が引退することになり、持朝の勢力は大いに低下した。これを機に持朝は成氏と和睦して政知と争おうとしたが、その和議を果たせずして応仁元年(1467年)9月6日、52歳で死去した。法号は広感院道朝。跡は顕房の遺児で持朝の孫の上杉政真が継いだが、文明5年(1473年)、武蔵五十子の戦いにおいて戦死し、その跡を持朝の子で顕房の弟の上杉定正(扇谷定正)が継いだ。また、朝昌の子・朝良は定正の没後にその後継者となり、高救とその嫡男義同は相模三浦氏の三浦時高の養子となった。
持朝の存在またはその行動が、扇谷上杉家興隆の基礎を築いた一方で、関東地方を複雑な権力闘争の混乱に陥れた一因とも言えるかもしれない。
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