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上杉定正 - Wikipedia

上杉定正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上杉定正 凡例
時代 室町時代
生誕 嘉吉3年(1443年
死没 明応3年10月5日1494年11月2日
官位 修理大夫
氏族 藤原北家上杉氏
父母 父:上杉持朝 母:未詳
兄弟 顕房高救定正朝昌
女子(吉良成高正室
長尾景信の娘
娘(大石顕重正室) 養子:朝良

上杉 定正うえすぎ さだまさ )は、室町時代の武将。扇谷上杉家の当主。上杉持朝の三男。一般には『南総里見八犬伝』の影響で扇谷定正の名前で知られている。

[編集] 生涯

扇谷上杉家は関東管領上杉氏の一族で、相模守護を務め関東管領を継承する山内上杉家の分家的存在であった。扇谷家は鎌倉公方足利持氏と山内家が対立して持氏が滅ぼされた永享の乱で山内家に味方し、享徳3年(1453年)以来の持氏の子の古河公方成氏との長期の戦いである享徳の乱でも山内家を支る。扇谷家家宰の太田道真道灌父子は岩槻城埼玉県さいたま市)を修築し、河越城(埼玉県川越市)、江戸城東京都千代田区)も築城するなどして、扇谷上杉家の勢力は大いに拡大した。山内家と扇谷家は両上杉家と呼ばれるようになっていた。

文明5年(1473年)、扇谷上杉家当主だった政真五十子の陣(埼玉県本庄市)で古河公方に敗れて戦死した。若い政真には子がなかったため老臣たちの評定の結果、政真の叔父にあたる定正が家督を継ぐ。

定正は関東管領上杉顕定(山内上杉家)とともに五十子に在陣して古河公方と対峙した。文明8年(1476年)に山内家の有力家臣の長尾景春が反乱を起こし、翌文明9年(1477年)に五十子を急襲。顕定と定正は大敗を喫して上野国へ敗走する。(長尾景春の乱

上杉方は危機に陥るが、家宰・太田道灌の活躍によって豊島氏をはじめとする各地の景春方を打ち破り、定正も転戦して扇谷家本拠の河越城を守った。

文明14年(1482年)に長尾景春は没落し、古河公方足利成氏とも和睦が成立した。だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と顕定は不仲になる。

乱の平定に活躍した家宰の道灌の声望は絶大なものとなっており、定正の猜疑を生んだ。文明16年(1486年)7月26日、定正は道灌を相模国糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招いて謀殺。死に際、道灌は「当方滅亡」とうめいたという。謀殺の理由について、定正は「上杉定正消息」で家政を独占する道灌に対して家臣たちが不満を抱き、更に道灌が(扇谷家の主君にあたる)顕定に逆心を抱いたためと語っている。これは定正の言い分であり、道灌の方も「太田道灌状」にて定正の冷遇に対する不信を述べている。実際には、家中での道灌の力が強くなりすぎ定正が恐れたとも、扇谷家の力を弱めようとする顕定の策略に定正が乗ってしまったとも言われる。

道灌謀殺により道灌の子の太田資康をはじめ多くの家臣が離反して顕定の元に走り、定正は苦境に立つ。道灌の軍配者(軍師)の斎藤加賀守のみは定正の元に残り、定正はこれを喜び重用した。山内家と扇谷家の緊張が高まり、長享2年(1488年)顕定の攻撃によって戦端が開かれた(長享の乱)。更に異母兄の三浦高救も扇谷家当主の座を狙って動き始めた。

これに対して、定正は長尾景春を味方につけ、仇敵であった古河公方とも同盟を結んで対抗。戦上手の定正は実蒔原の戦い須賀谷原の戦い高見原の戦いに寡兵をもって勝利して大いに戦意を高め、「5年のうちに上野・武蔵・相模の諸士は、自分の幕下に参じるであろう」と豪語したものの、関東管領である山内家とその一族に過ぎない扇谷家の実力は隔絶しており、連戦に疲弊し次第に劣勢になった。この頃(長享3年(1489年))、重臣の曽我祐重に宛てた顕定の不当性と自らの苦境を綴った定正の書状が遺されている。

定正は古河公方足利成氏を軽んじた振舞いに出るようになり遂に盟約は崩壊し、これを定正の驕りと見た家臣の中には顕定や成氏に寝返る者も現れた。重臣の大森氏頼は諫言して古河公方や顕定との和解を勧めるが、定正はこれに従わず山内上杉家との抗争を続けていく。

明応2年(1493年)伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国に乱入して堀越公方足利茶々丸を駆逐した。この伊勢宗瑞の伊豆国討入りには定正の手引きがあったとの見方が古来強い。定正は伊勢宗瑞と結ぶことになる。

明応3年(1494年)扇谷家の重臣・大森氏頼と三浦時高が相次いで死去する。同年10月、定正は伊勢宗瑞とともに武蔵国高見原に出陣して顕定と対陣するが、攻めかからんと荒川を渡河しようとして落馬して死去。享年52。道灌の亡霊が定正を落馬させたのだとする伝説がある。

定正・大森氏頼・三浦時高の扇谷三将の死は扇谷家に大きな痛手となった。

養子の朝良が跡を継ぐが、北条早雲やその子・氏綱が勢力を伸ばし、扇谷家は衰退の道を歩んでいく事となる。そして、早雲の孫の氏康のときに扇谷家は後北条氏によって滅ぼされた。

[編集] 参考文献

  • 黒田基樹 『扇谷上杉氏と太田道潅』(岩田書院 、2004年) ISBN 4872943269
  • 七宮ケイ三『 関東管領・上杉一族』 (新人物往来社、2002年)ISBN 4404029737
  • 桑田忠親監修『日本の合戦(3)群雄割拠』 (新人物往来社、1978年)  ISBN B000J8ONFG
  • 杉山博 『日本の歴史 (11) 戦国大名』(中央公論新社、1974年)ISBN 4122000866

[編集] 関連項目


先代:
上杉政真
扇谷上杉家当主
1473〜1494
次代:
上杉朝良


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