足利持氏
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足利 持氏(あしかが もちうじ、応永5年(1398年) - 永享11年2月10日(1439年3月24日)、在位1409年 - 1439年)は第四代鎌倉公方。足利満兼の子。
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[編集] 家系
河内源氏の名門 足利氏の嫡流足利将軍家の分家にあたる。(詳細は足利氏及び足利将軍家の項を参照のこと。)
[編集] 生涯
1409年、父・満兼の死去によって鎌倉公方となった。しかし関東管領であった上杉禅秀(上杉氏憲)や叔父の足利満隆と不仲で、次第に対立し、1416年に禅秀と満隆にクーデターを起こされて一時、駿河に追放された(上杉禅秀の乱)。しかしこの反乱は、翌年に越後の上杉房方らの助力を得て鎮圧している。
1423年に京都御扶持衆の小栗満重が室町幕府の命令を受けて反持氏反乱を企てたとしてこれを攻め滅ぼし、続いて同じく扶持衆の宇都宮持綱・桃井宣義を倒して関東から親幕府勢力の一掃を図った(小栗満重の乱または応永の乱)。これに対して室町幕府4代将軍足利義持は持氏討伐を計画するが、持氏の謝罪によって討伐は中止された。だが、関東御扶持衆を用いて持氏の勢力拡大を牽制しようとする幕府側とそれに対抗しようとする持氏の対立は深刻化する一方であった。
1425年、5代将軍であった足利義量が病死し、1428年に前将軍であった足利義持も病死して将軍職が空位となると、持氏は自身が足利氏の一族であるという名分から六代将軍の座を望んだが、管領の畠山満隆や僧侶の満済らの策謀によって、六代将軍には義持の弟である足利義教が還俗して継承することとなった。この将軍職相続に持氏は不満を持ち、新将軍の義教を『還俗将軍』と軽んじたうえ、元号が永享に変わってもそれを用いなかったり、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と次第に対立する姿勢を見せ始める。
これに困った関東管領・上杉憲実は、持氏と義教の融和を懸命に努めたが、持氏は応じず、さらに持氏の嫡子賢王丸が元服を迎えたとき、本来ならば都の将軍に一字をもらって元服するところを、勝手に元服するということまでしてしまい、これを契機に憲実は持氏と対立し、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下った。持氏は討伐の兵を差し向け、自らも出陣する。
一方、幕府においても持氏との融和を懸命に進めていた管領・畠山満家が1433年に亡くなると、将軍・義教は遂に鎌倉公方の討伐を決定した。1438年、幕府軍は鎌倉に攻め込んだ。鎌倉軍も懸命に応戦したが、憲実が幕府に与したうえ、味方の裏切りが相次ぎ、遂に鎌倉軍は敗れてしまう。憲実の家宰・長尾忠政に捕らえられて鎌倉に幽閉された持氏は出家することで助命を請うたが、義教は許さず、1439年、持氏は鎌倉永安寺にて自害して果てた。(永享の乱)。法名は長春院陽山道純。
幕府と鎌倉公方の対立は、持氏の祖父・足利氏満の時代にすでに始まっていた。彼の自害により鎌倉公方は一旦滅亡する。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
[編集] 系譜
- 父:足利満兼
- 母:一色氏
[編集] 登場作品
- 朝松健『尊氏膏』-異形コレクション第30巻【蒐集家(コレクター)】(2004年、光文社)
奇病に冒され、一休宗純の持ってきた薬により何とか治癒。
[編集] 関連書籍
- 田辺久子「関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏」吉川弘文館 2002年発行。 ISBN 9784642077897
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