上杉禅秀の乱
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上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、室町時代の1416年(応永23年)に関東地方で起こった戦乱。前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。
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[編集] 経緯
鎌倉府は南北朝時代に足利(室町)幕府が関東統治のために設置した機関で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、管領職は上杉氏による世襲状態であった。1409年(応永16)に第三代足利満兼が死去すると満兼の子の持氏が新公方となった。前年まで関東管領であった犬懸上杉家の上杉氏憲は前年に鎌倉公方と対立して辞職し、後任の管領に犬懸上杉家と対立関係にあった山内上杉家の上杉憲基が管領職に付くと、持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近し、氏憲の婿にあたる岩松満純、長尾氏春、千葉氏、宇都宮氏、小田氏、三浦氏、武田氏や地方の国人衆なども加えて1416年に持氏に対して反乱する。氏憲らは持氏を鎌倉からは追うが、今川範政を頼り駿河へ逃れた持氏は幕府の援助を受け、乱は翌17年に氏憲や満隆、持仲らが鎌倉雪ノ下で自害した事で収束した。また、乱で敗北した事により犬懸上杉氏は滅亡した(ただし、氏憲の子の何人かは出家することにより存命し、幕府の庇護を受けている)。
[編集] 禅秀の乱の波紋
室町幕府では乱に際して4代将軍の足利義持は持氏を支援するが、一方では義持の弟の足利義嗣が出奔する事件が起こり、義嗣は捕縛されて幽閉されるが、幕府内で上杉氏憲と内通してたと疑惑を持たれる人物の名前があがるなど波紋が広がる。
[編集] 室町幕府
1417年(応永24年)、氏憲の死後に自分の身に対する危険を感じた足利義嗣は京都を脱出するが、間もなく義持側近であった富樫満成に高雄で捕らえられ、義嗣の身柄は仁和寺から相国寺へ幽閉されて10月20日に出家させられた。ところが、11月に入ると義嗣の取調べにあたった富樫満成から出された報告が問題を呼んだ。そこには義嗣とともに現管領細川満元、元管領斯波義教をはじめ、畠山満則、赤松義則、土岐康政、山名時熙、更に公家の山科教高、日野持光らが共謀して上杉氏憲に呼応して義持打倒を計画していたと言うのである。これを受けて土岐持頼(康政の嫡子)が伊勢国守護の地位を奪われた他、満元以下有力守護や公家たちが揃って謹慎・配流を命じられたのである。明けて1418年(応永25年)に入ると、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害される。ところが、この年の11月には逆に富樫満成が義嗣に加担し、なおかつ義持の妻妾・林歌局と密通しているとの疑いで追放されてしまったのである。これは件の告発によって義持と富樫満成ら側近集団に実権を奪われた細川以下の有力守護大名側の逆クーデターとも言われている(富樫満成がかけられた義持妻妾との密通容疑は後に別件で失脚した同じく義持側近の赤松持貞に対しても容疑としてかけられたものであった)。なお、富樫満成は高野山に逃亡したものの、1419年2月28日(応永26年2月4日)に畠山満家の討伐によって殺害されている。
[編集] 鎌倉公方
室町幕府のこの反乱に対する立場は、義嗣や南朝との連携を危惧して氏憲討伐に乗り出したのであって、本心から鎌倉公方である持氏を支持していた訳ではなかった。持氏も幕府中央の混乱に乗じて関東・奥州各地に発生した武装蜂起に対して自己の政権の権限と基盤の強化に乗り出して幕府中央の権威を否定する動きを以前から見せていたからである。幕府から追討を受けている筈の氏憲の遺児が実は幕府に保護されていたという事実は、持氏が幕府に対して反抗する事態を考慮したからである。
禅秀の死の翌年にはその旧領であった上総国において上総本一揆と呼ばれる旧臣である国人達を中心とした一揆が発生している。その後、持氏は岩松氏や佐竹氏(山入氏系)などの氏憲の残党狩りや京都扶持衆の大名など関東における反対勢力の粛清などを行うと同時に(この一件を称して「応永の乱」と呼ぶこともある)自立的行動を取りはじめ、守護任命などを巡り幕府は鎌倉公方を警戒し、また関東管領との意見対立も続き、関東地方での騒乱は1438年(永享10)の永享の乱、1440年(永享12)の結城合戦などに引き継がれた。
[編集] 参考文献
- 伊藤喜良『日本中世の王権と権威』(思文閣出版、1993年) ISBN 4784207813