岩松満純
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時代 | 南北朝時代から室町時代前期 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 応永24年5月13日(1417年5月29日) | |||
別名 | 容辻王丸(幼名)、天用(法号) | |||
官位 | 治部大輔 | |||
氏族 | 清和源氏岩松氏 (自称:新田氏) |
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父母 | 父:新田義宗(諸説あり) 養父:岩松満国(諸説あり) |
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兄弟 | 岩松満氏、岩松満純 | |||
妻 | 正室:上杉氏憲の娘 | |||
子 | 岩松家純 |
[編集] 概要
上野国新田庄の国人領主。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の名門の家柄。父系は足利氏であるが、母系である新田氏の一門を自称する。
[編集] 経歴
岩松満国の子であるが、のちに満純本人が自称したことと、後世子孫が新田姓を称したため、新田義貞の子で正平23年/応安元年(1368年)に戦死した新田義宗の落胤といわれるが確証はない。
実は義宗の娘の子とされることもあり、また、義宗と満国の妹との間に生まれたのが満純であるともされる。前半生ははっきりとはわかっていない。
兄に満氏がいたが、早くに亡くなったため、満純が岩松氏の後継となった。後に、犬懸上杉家出身で関東管領となる上杉氏憲(禅秀)の娘を娶る。
応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では、岳父の上杉禅秀に味方し、鎌倉公方・足利持氏追放に功績を挙げた。この際に義宗の落胤として新田姓を自称したという。
しかし、持氏が室町幕府の援助を受けて反攻してくると、新田庄に敗走した。しかし隣の佐貫庄の国人領主・舞木持広の追討を受け、武蔵国入間川の戦いに敗れて捕縛され、応永24年(1417年)に鎌倉の竜の口で斬首された。
この満純の動きに父の満国は同調せず静観し、満純の死後、従孫の岩松持国(満国の弟の岩松満親の子・岩松満春の子、後閑氏祖)に家督を譲り岩松家を継いだ。廃嫡された孫の家純(満純の遺児)は出家した。
のちに、家純は祖父の死後に足利義教の後押しにより復権し勢力を持ち、岩松家は家純流(礼部家)と持国流(京兆家)に分裂した。
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