後閑氏
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後閑氏(ごかんし)は、清和源氏の流れを汲む岩松氏の支族である。 京兆家の岩松成兼(岩松持国の子)を始祖とし、戦国時代に至ったという。
[編集] 概要
成兼以前の後閑氏は新田義貞の弟とされる四郎義重(この人物が存在していた確証はない)を祖と自称し、義貞が挙兵したとき、四郎義重は新田庄に留まったとされる。建武新政の時代になったのちに起こった中先代の乱に際して、北条時行が率いる信濃軍が上野を経て鎌倉へ攻め込もうとしたとき、四郎義重は利根川で北条軍に防戦しようとしたが敗戦。中先代の乱は足利尊氏によって制圧され、四郎義重はその功績を認められて上野国甘楽郡に土地を与えられ、四郎義重は新領地の丹生山に居を移したという。京兆家の岩松成兼は四郎義重の後裔を称え、新田氏を自称したという(「新田氏系図」)。
いずれにしろ、後閑氏は清和源氏新田氏流を称え、四郎義重(新田氏の開祖・新田義重とは別人物)の七代の後裔と自称する新田(岩松)景純(実際は岩松成兼の直系の子孫)以前の事蹟は確証性が明らかではない。
[編集] 後閑氏歴代城主の変遷
新田(岩松)景純は主水正ともいい、碓氷郡後閑の領主である北条政時を滅ぼして、後閑を領するようになった。後閑に移った景純は箕輪城主長野業政に属するようになり、永禄6年(1563年)、景純の子新田(岩松)信純のとき、武田信玄の侵略を受けて敗れその幕下に降る。永禄10年(1567年)に後閑城に入城して後閑を称するようになったと伝える。
時代は遡り、新田(岩松)信純が入城した後閑城は、嘉吉元年(1441年)から文安4年(1447年)にかけて、信濃御嶽城主の依田忠政が築いたといわれる。後閑家依田氏は忠政の子政知を経て光慶のとき、箕輪城主長野業政の女を室としてその片腕となり、天文7年(1538年)に板鼻鷹巣城に移ったと伝える。その後に北条政時が入り、さらに後に新田氏(岩松)が北条氏を逐って城主になるが、その間の城の歴史は不明である。
ところで、新田(岩松)信純が武田氏に走ったのは永禄2年(1559年)のことといい、『安中志』には、永禄3年より新田信純が後閑城に居城するとみえている。永禄3年(1560年)は、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が管領上杉憲政を奉じて関東に出兵した年で、そのとき、景虎の陣に馳せ参じた関東諸将の幕紋を記録したのが『関東幕注文』である。そのなかには、後閑氏が属していた箕輪城主長野氏ら上野諸将の幕紋が記されているが、新田後閑氏の幕紋はみえない。このことは、新田後閑氏がすでに武田氏の陣営に走っていたとされる。
一方、依田政知が開いた長源寺の寄進状から、新田氏(岩松氏)が甘楽郡丹生城から居を後閑城に移したのは弘治元年(1555年)、景純の代のことだとする説もある。荒廃していた長源寺を後閑城主の新田信純が弘治元年に再興し、翌弘治2年(1556年)に、寺領若干を寄進したとされる。いずれにしろ新田氏(岩松氏)が16世紀の中ごろに後閑に移り、後閑氏に改姓したとする。また、信純に関して『上野志』では伊勢守信継とし、『上州治乱記』では長門守宗繁となっており、後閑氏の歴史に関しては明確性が乏しい部分が多い。
[編集] 後閑氏と戦国時代
信純には三人の男子がおり、天正5年(1578年)、長男信重は総社に分家して石倉城主となり下野守を称した。翌年、信純が死去したのちは次男の重政が後閑氏を継ぎ、三男の信久は信玄の命で上条家を継いだ。『安中市史』の記述によれば、永禄12年(1569年)、武田勝頼が駿河の今川氏真と戦ったとき、信純と嫡子の信久は武田氏の幕下として出陣し信純・信久ともに戦死した。そのため、家督は信久の子真純が継いだと記されている。
天正10年(1582年)3月、武田氏は織田氏の侵攻によって滅亡し、信長の部将滝川一益が関東管領として厩橋に入城した。一益は家臣津田小平次を松井田城将とし、津田は後閑城を攻めて真純を滅ぼした。「日本城郭体系」の後閑城の記述によれば、武田氏滅亡後、新田(岩松)信重(後閑下野守)は北条高広に従い、重政・信久の兄弟は小田原北条氏に属した。そして、重政と上条から後閑に改めた信久は両後閑と呼ばれるようになったとある。ちなみに天正十一年(1583年)、「後閑文書」に北条氏から両後閑氏に宛てたものがある。それは、出陣の際における両後閑の配下の員数を定めたもので、両後閑氏が後北条氏の幕下にあったことを示す史料である。
天正12年(1584年)、北条高広が小田原北条氏に降り大胡に移ったとき、北条氏政は両後閑氏に厩橋在番を命じた。天正18年(1590年)、小田原の陣に際して両後閑氏は小田原に籠城し、後北条氏の没落と運命をともにして後閑城は廃城となった。