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今川氏真 - Wikipedia

今川氏真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今川氏真 凡例
時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 天文7年(1538年
死没 慶長19年12月28日1615年1月27日
改名 五郎(幼名)。宗誾、仙巖斎(法名)
別名 彦五郎(通称)
戒名 傳岩院殿量山泰栄大居士
墓所 萬昌院、観泉寺
官位 従四位下、上総介。刑部大輔
幕府 室町幕府駿河守護職・遠江守護職
主君 北条氏康徳川家康
氏族 清和源氏足利氏流、今川氏
父母 父:今川義元、母:武田信虎の娘・定恵院
兄弟 氏真嶺松院武田義信室)、隆福院、
一月長得
正室:北条氏康の娘・早川殿
範以品川高久、娘(吉良義定室)、猶子:
北条氏直

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、駿河戦国大名。駿河今川氏10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。

父・義元が桶狭間の戦い織田信長によって討たれたため家督を継いだが、武田信玄徳川家康の侵攻を受けて敗れ、大名としての今川家は滅亡した。

その後、各地を流浪し、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府のもとで高家として生き延びた。

目次

[編集] 生涯

[編集] 家督相続

天文7年(1538年)、今川義元定恵院武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年(1554年)に北条氏康の長女・蔵春院早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟の成立に寄与した。

永禄元年(1558年)より駿河・遠江に文書を発給している。義元が隠居したため、家督を譲られて当主になったという説があるが、その後も義元は政治・軍事の主導権を掌握していたため、恐らくは形式的な家督相続であったものと思われる。永禄3年(1560年)に上総介に任官された。同年、尾張に侵攻した義元が桶狭間の戦い織田信長に討たれたため、実質的にも家督を相続して今川家の第10代当主となった。

[編集] 相次ぐ離反

桶狭間の戦いでは今川氏の重臣や国人が多く討死した。このため三河遠江では国人・家臣団が動揺し、今川氏からの離反の動きが広がった。

永禄5年(1562年)、西三河松平元康(翌年、徳川家康に改名)は織田信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにした。氏真は、家康が三河一向一揆で多くの家臣団に離反されたことに乗じて牛久保に出兵したが撃退されている。永禄8年(1565年)には東三河の拠点である吉田城が失陥し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。

遠江においても家臣団・国人の混乱と離反が広がった(遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。ついで曳馬城主・飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、和議に応じて降った飯尾連竜を永禄8年(1565年)12月に謀殺した。しかしこれらの措置も事態を収拾することはできず、かえって国人たちを徳川方に走らせることになった。

氏真は祖母寿桂尼の後見を受けて領国の安定を図り、永禄9年(1566年)4月に富士大宮楽市とし、徳政の実施や役の免除などの産業振興政策を行ったが、衰退をとどめることはできなかった。ついに遊興に耽るようになり、家臣の三浦義政(三浦正俊の一族・三浦右衛門佐義鎮)を寵愛して政務を任せっきりにしたため、駿河内部でも家臣の離反を招くことになった。

[編集] 滅亡

詳細は駿河侵攻を参照

今川氏の衰退を見た甲斐武田信玄駿河への南進を画策する。信玄の嫡男で氏真の妹・嶺松院の夫である武田義信はこれに反対したが、信玄は永禄8年(1565年)に義信を反逆の罪で幽閉して廃嫡し、婚姻同盟を破棄した。これにより今川氏は外交的にも不利な立場に陥った。氏真は越後上杉謙信と盟約を交わして対抗し、相模北条氏康とともに甲斐への塩留を行ったが、信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。

永禄11年(1568年)12月、信玄は駿河への侵攻を開始した。氏真は武田軍を薩埵峠で迎撃すべく興津清見寺に出陣したが、瀬名信輝葛山氏元、朝比奈政貞、三浦義鏡など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し駿府もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城遠江掛川城へ逃れたが、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。

早川殿の父・北条氏康は救援軍を差し向け薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強め、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。

しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。

[編集] その後

掛川城の開城後、氏真は妻の実家である北条氏を頼り、伊豆戸倉城に入った(のち小田原に移る)。永禄12年(1569年)5月23日、氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で氏真の嫡男・範以はまだ生まれていない)。また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は越相同盟)。駿河では、岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど、今川勢力の活動はなお残っており、今川家支援を掲げた北条氏による出兵も行われた。しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川遺臣も攻撃や調略により順次武田氏の軍門に降り、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。

元亀2年(1571年)10月に北条氏康が死ぬと、その後を継いだ氏政は方針を転換し武田氏と和睦した。これにより氏真は相模を離れ、徳川家康の庇護下に入った。掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河侵攻の大義名分を得るものであった。天正3年(1575年)3月16日、徳川家康の同盟者にして父の仇でもある織田信長と京都相国寺で会見、同20日、信長の面前で公家たちとともに蹴鞠を披露したことが『信長公記』に記されている。また、この年の長篠の戦いにも従軍した。一時は徳川家康が武田勝頼と争う拠点の1つ、遠江牧野城(元は諏訪原城、静岡県島田市)を任せられたともいう。しかし結局駿河復帰を諦め(城主を解任されたとも言われる)、京に定住した。のち、剃髪して宗誾(そうぎん)と号する。

その後は家康の援助を受けながら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、連歌の会などに参加していたことが、親交のあった山科言経の日記『言経卿記』から伺える。

[編集] 晩年

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、嫡孫・範英と、二男・品川高久(家康より「今川の姓は宗家に限る」との沙汰上があり、今川宗家以外は「品川」を名乗った)と共に徳川秀忠に出仕して江戸幕府旗本に列したため、江戸に移住した(嫡男の今川範以は若くして病死していた)。

慶長19年(1614年)、江戸品川の品川高久の屋敷で死去。享年77。

葬儀は氏真の弟の一月長得が萬昌院で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、東京都杉並区今川二丁目の宝珠山観泉寺に移された。

[編集] 人物

[編集] 人物関係

  • 正室である北条氏康の長女・蔵春院早川殿は、氏真が没落した後も行動をともにし、慶長18年(1613年)に没するまで生涯連れ添った。

[編集] 文化人

和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じており、文化人としての氏真の評価は高い。

権大納言冷泉為和らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌がのこる。また後水尾天皇選の集外三十六歌仙にも名を連ねている。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には氏真の全作品が収録されている。
飛鳥井流宗家飛鳥井雅綱より手ほどきを受けたとされる。
塚原卜伝に新当流を学んだという。今川流剣術では氏真が開祖と伝えている[要出典]

[編集] 後世の評価

  • 江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』では、我侭な部分のある剛勇な人物として描かれており、三浦義政のような「奸臣」を重用したことが批判されている。
  • 松平定信が随筆『閑なるあまり』で、足利義政の茶の湯、大内義隆の学問とともに今川氏真の和歌を挙げて戒めている様に、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌蹴鞠といった「文弱」な娯楽に溺れ国を滅ぼした暗君として描かれていることが多く、このイメージは今日の歴史小説や歴史ドラマにおいてしばしば踏襲されている人物像である。

[編集] 参考文献

  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)

[編集] 今川氏真を題材にした作品

小説
  • 天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真(赤木駿介、新潮社)
氏真が登場するテレビドラマ


先代:
今川義元
駿河今川氏歴代当主
第10代:1560~1569
次代:
高家今川家:今川直房


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