岡部正綱
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生誕 | 天文12年(1542年) | |||
死没 | 天正11年(1583年) | |||
主君 | 今川義元、今川氏真 武田晴信、武田勝頼、徳川家康 |
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氏族 | 岡部氏 | |||
父母 | 父:岡部親綱(左京進) | |||
兄弟 | 岡部元信? | |||
子 | 岡部長盛 |
岡部 正綱(おかべ まさつな、天文12年(1542年) - 天正11年(1583年))は今川氏、武田氏、徳川氏の重臣。岡部親綱(左京進、永禄3年没)の子、岡部元信の兄(親子説あり)。戦国時代・安土桃山時代の部将。岡部長盛の父。次郎右衛門。
父とされる親綱(左京進)は花倉の乱で今川義元のために功績を挙げた。
最初は今川家に仕えており、16歳の初陣で兜首2つを獲って名を馳せた。その後、武田信玄の侵攻(駿河侵攻)で駿河を失うなどして、今川家が勢力を失った後も、今川館に籠もって頑強に抵抗した。今川氏の滅亡後は、その武勇を高く評価され、礼を尽くして信玄に招かれ、「ひとりの兵士を得るのは容易だが、ひとりの将を得るのは難しい」と言われて武田氏の家臣として仕えた。その後は武田家臣として、三方ヶ原の戦いなど数多の戦で活躍したが、 1581年に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し、弟の岡部元信が討ち死にした後は徳川家康の家臣となる。 1582年6月、本能寺の変で信長が死去して家康が甲斐に侵攻すると、旧武田家臣の調略などを行なって、家康の甲斐平定に尽力した。
しかし翌年、戦傷が原因で死去したとも、武田旧臣達を調略する際に毎度酒宴を催していた為、急性アルコール中毒で身体を壊して死去したとも言われ 没年死因ともに異説がある。