三方ヶ原の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄と徳川家康との戦いのことである。信玄の上洛の過程での合戦といわれ、徳川軍1万1000(うち、織田氏からの援軍3000)、武田軍2万5000の軍勢が戦い、武田軍が勝利した。武田勢は余勢を駆って遠江・三河の諸城を攻撃するものの大将の信玄が発病したために上洛は中止され、甲斐国へ帰還中に信玄は病死した。
三方ヶ原の戦い | |
---|---|
戦争:三方ヶ原の戦い | |
年月日:1573年1月25日 | |
場所:三方ヶ原周辺 | |
結果:武田軍の圧勝 | |
交戦勢力 | |
武田軍 | 徳川軍 |
指揮官 | |
武田信玄 | 徳川家康 |
戦力 | |
25000人 | 11000人 |
損害 | |
ー | ー |
目次 |
[編集] 背景
当時、甲斐の戦国大名・武田信玄のもとに、信長の傀儡政権と化していた室町幕府15代将軍・足利義昭から数度にわたり、上洛の要請、信長征討の御教書が届いていた。これに応じ兵を動かしたが、上洛が目的かは意見が分かれている。信玄は以下のような外交政策を展開し、出兵の準備を行っていた。
- 元亀2年(1571年)、相模の後北条氏の当主・北条氏政(北条氏康の子)との同盟関係を復活させる。これは武田側から持ち込んだものであったが、一方で氏康の遺言にもよるものともいわれる。
- 出兵時に後北条氏が変心しないよう常陸の佐竹義重へも書を送り、後北条氏への牽制材料とした。
- 信濃をめぐり、再三にわたり争った越後の上杉謙信に留守を衝かれぬよう、石山本願寺の顕如(信玄の妻・三条夫人の妹は顕如の妻、つまり信玄と顕如は義理の兄弟にあたる)に、越中の一向一揆を以て謙信を引きつけるよう依頼した。
- すでに、信長と争っていた、近江の浅井長政や越前の朝倉義景、阿波・河内の三好三人衆等にも出兵と協力を促した。
以上から、信長を包囲し、外線から攻める構想を持っていたことがわかる(信長包囲網)。
[編集] 経過
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は本拠である甲斐古府中(甲府市)を進発、徳川家康の領地であった遠江に侵攻を開始した。徳川領への本格的出兵は約2年ぶりである。兵数は、北条氏からの援兵2000を含め、約3万弱といわれており、武田氏が動員できるほぼ最大数であった。このことから、いままでの出兵とは少々おもむきが異なる事が判断できる。兵は三つにわけ、
とした。なお、秋山隊には、織田軍による中山道から信濃への逆襲に備える事、山県隊には岡崎・岐阜と、浜松との連絡線を断つという狙いもあったと思われる。
南下した信玄本隊は、従属を申し出た天野景貫の居城・遠江犬居城に立ち寄り、さらに南下して浜松と天竜川以東の徳川氏の勢力範囲(掛川・高天神等)を分断すべく、二俣城に向かう。途中、威力偵察に出た徳川隊と接触して起きたのが一言坂の戦いである。
信玄本隊は、三河北部の諸地域を攻撃した山県隊と合流、12月19日に遠州平野への入口である要衝・二俣城を陥落させた。しかし落城までに約2ヶ月を要している。信玄軍は天竜川以東の徳川勢の無力化に成功し、裸城同然の浜松城に迫った。
[編集] 家康の出陣
12月22日、武田軍は二俣城を進発して遠州平野内を西に進軍したが家康の本拠である浜松城ではなく、浜名湖に突き出た半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を目的地とし、三方ヶ原台地を通過した。ここでついに、籠城策から方針を転換した徳川家康は、三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から攻撃する作戦を立て、出撃した。
しかし、武田軍は途中で翻り、魚鱗の陣形を組んで待ち構えていた。対する織田・徳川連合軍は鶴翼の陣をとって混乱する中で戦闘を迎える。すでに時間帯は冬の日暮れの早い夕刻を迎えていた。佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀・林秀貞・水野信元など織田軍3000の援護を受けた徳川軍であったが、兵数においても戦術面においても武田軍の前に為す術なく、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、「二俣城の戦い」にて開城の恥辱を雪がんとした中根正照、青木貞治、といった家臣を失い、宵の闇のなかを浜松城に向けて敗走した。平手汎秀は討死。ただし、徳川軍と野戦に持ち込むという目的は達成できたものの、合戦の始まった時間帯が遅かったこともあって徳川軍を壊滅に追い込むことはできなかった。
一方、家康が出陣した理由だが、ただ単純につり出されたとも思えない。
- ここで出陣しておかないと、遠江経営が破綻すると決断した、政治的な出陣
- 祝田の坂を利用し、一撃離脱を図っていた
- 織田・武田どちらが勝つにせよ、戦役終了後に徳川家に有利になるよう、戦略的なアピールを狙った
など、理由はいろいろ考えられる。逆にいえばそういった要素を含めて信玄は、家康を出陣せざるを得ない状況に持ち込んだともいえる。
この戦いで家康は討ち死に寸前まで追いつめられ、夏目吉信、鈴木久三郎らを身代わりの憤死により失い、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といったわずかな供回りを連れて浜松城へ引き上げた。途中恐怖のあまり馬上で脱糞したと言われている。このあと全ての城門を開き、篝火を焚き「空城の計」を行う。これに対し、伏兵がいるのではないか、との疑念を持った信玄は城内突入をためらい、家康は九死に一生を得た。その夜家康は何とか一矢報いようと野営中の武田勢を奇襲、犀ヶ崖の絶壁に次々と転落させている。
この敗戦時に描かせた、苦渋の表情の肖像画(「顰像」と言われる)が残されているが、これは家康にとって、軍略の重要性を自らの戒めにするため、と解釈することもできる。そして、城に籠もる相手方を出陣させて野戦に持ち込むという手法は、関ヶ原で家康自身により再現される(ただし、このような敵を城からおびき出して野戦で決戦を挑む戦法は、信長が得意としていた戦法でもあり、そこから家康が学んだとも考えられ、また,三方ヶ原の敗戦もひとつの教訓にしたともいえる)。 なお、「顰像」を描かせたのち、家康は、湯漬けを食べると、そのまま鼾を掻いて眠り込んだといわれる。
[編集] 合戦後
三方ヶ原の戦い後、遠江で越年した信玄は三河へ侵攻し、野田城を攻略する。しかし、ここでも1ヶ月を要しているが、あるいは信玄から何らかの判断が出ていたのかもしれない。攻略後の2月、本隊は帰路に就くが、途中、信濃伊奈郡の駒場(こまんば、現在の長野県下伊那郡阿智村駒場)で病没、戦役は終了する。信玄の死後、武田氏は、信玄の嫡子・武田勝頼を当主とするが、その政権交代の間隙を衝かれ、同年8月に家康の調略によって三河衆の奥平貞能・奥平信昌親子が武田氏から離反し、長篠城を攻略されている。後に長篠の戦いで武田氏が大敗したことを考慮すると、奥平信昌及び長篠城を攻略したことは家康にとって重要な転機であったといえるだろう。
[編集] 合戦跡
- 現在の三方原墓園(浜松市北区根洗町)に古戦場の碑があるが、主戦場は特定できていない。
- 場所がはっきりしているのは、主戦場ではないが犀が崖古戦場のみである。犀ヶ崖資料館(浜松市中区鹿谷町)がある。布橋の記事を参照。
[編集] 出陣の意図 はたして上洛がねらいだったのか?
諸説別れるが、おおむね以下の三説に分かれる。
- 上洛説
当初よりこの戦役が織田信長打倒、上洛を意図するものであった、という説。
- 三遠攻略説
出陣時点で信玄に上洛の意図はなく、数年続いていた三遠攻略戦の一としての軍役だったという説。
- 上洛戦第一段階説
最終的に上洛を意図したものであるが、その足がかりを作るために出陣した、という説。
[編集] 家康が鶴翼の陣をとったのはなぜか?
鶴翼の陣は通常数に優勢な側が敵を囲む時に用いられる陣形である。この合戦では劣勢の家康が敢えてこの陣形を取っている。また優勢の信玄が通常劣勢で敵中突破を目的とする魚鱗の陣形を構えている。あまり議論されないが不自然なことである。
- 家康が鶴翼陣をとったのは
1.三方ヶ原台地に戻ってきている信玄の軍勢が当初の予想では少数であり、その軍勢を囲んで殲滅を期した。
2.最初から勝ち目がないことは分かっていたため兵力を多く見せ、相手の動揺を誘おうとした。
3.池宮彰一郎の小説「遁げろ家康」では、家康は合戦をすること自体が目的であったため勝利よりも鶴翼の陣形で一当たりし、続いて逃げることが目的だったと描写されている(鶴翼は両翼の中心後方に大将を置くため、逃げやすい)
などが挙げられている。
- 信玄が魚鱗陣をとったのは
1.鶴翼の陣を見て大将の家康の首をとることに狙いを絞った。
2.織田軍の中でも特に動員兵力の多い佐久間信盛が援軍にいるという情報を事前に得ていたため、実際より織田軍の数を多く見ていた。
などが考えられている。
[編集] 異説
家康の出撃には異説がいくつか存在する。
- 『当代記』『四戦紀聞』などの書物には、家康は戦うつもりがなかったが、勝手に飛び出してしまった部下を城に戻そうとしているうちに戦闘に巻き込まれた、という旨の記述がある。
- 染谷光広氏のように、信玄の挑発に乗った振りをしながら、浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた、と言う説も出されている。
いずれの内容も研究段階の域であるが、前者は二俣城を失った家康の遠江における支配力から見てありえないことではなく、後者の染谷氏説は織田家との力関係から考えての説であり、今後の検証が待たれる。
[編集] 逸話
- 家康が戦場より敗走して、浜松城に逃げ帰る途中、腹が減って老婆より餅を買い求め、食べている途中に敵が迫って逃げ、「食い逃げ」状態となったため老婆が追いかけ、追いついた老婆が家康より代金を受領したという逸話があり、餅を求めたとされる地域には「小豆餅」(浜松市中区の町名)の町名が残り、家康が代金を払ったとされる地域は「銭取」(町名ではないが、同区和合町に「銭取」という遠鉄バスの停留所がある)と呼ばれている。しかし、下記のような理由から単なる逸話と考えられ、信憑性は低い。
- 前述のように脱糞したと言われるほど慌て、命からがら逃げ戻った家康には空腹を感じる余裕すらなかったと思われる。
- 仮に餅を「食い逃げ」したという事実があったにせよ、馬で敗走していた家康が、徒歩で追いかける「老婆」に追いつかれるとは到底考えられない。
[編集] 関連項目
[編集] 関係史料
- 『大日本史料』元亀3年12月22日条
- 小和田哲男『三方ヶ原の戦い』
- 高柳光寿『三方原の戦』