天野景貫
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天野 景貫(あまの かげつら、生没年不詳)は、日本の戦国時代の人物。天野秀藤の子。天野景直の父。犬居城城主。天野氏(遠江天野氏)当主。安芸守を称す。
[編集] 出自
天野氏は、藤原南家工藤氏の一族。鎌倉時代以降、遠江、三河、安芸などにそれぞれ分家して栄えた。景貫は遠江天野氏の出身である。
[編集] 経歴
遠江の国人。駿河の戦国大名今川氏の支配を受け、行動を共にし、天文十六年(1547年)九月、戸田康光成敗を目的とした三河田原本宿の合戦などで功を立て、今川義元から感状を賜り、遠江奥山郷を領した。
しかし、今川氏の勢力が衰退すると、永禄十二年(1569年)頃には、代わって勢力を強めてきた三河の戦国大名徳川氏に陣営を鞍替え。徳川家康の遠江侵攻に一役買っている。
ところが元亀年間(1570年~1573年)以降は甲斐の戦国大名武田氏が遠江に侵攻すると武田氏に降伏し、徳川領侵攻の先導役として活躍。元亀2年(1571年)の春、三河設楽郡への力攻めが菅沼定盈などによる思わぬ抵抗を受けて兵を収めたという秋山信友に代わり、遠江方面から参戦。長篠城の攻略を担当した。この長篠攻めでは多大な犠牲を払い、城方へも出血を強要させるも陥落には至らなかった模様。それでも、山家三方衆に代表される設楽郡の小領主たちの従属に結びついた以上、働きは少なくなかった。
ただ、元亀4年(1573年)の武田信玄の死後、武田氏が衰退すると徳川家康の反撃を受け、景貫は奮戦したものの敗れ犬居城から退去している。武田氏滅亡後は相模の戦国大名北条氏に仕え、対佐竹氏との戦いなどで活躍した。