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北条氏康 - Wikipedia

北条氏康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

北条氏康 凡例
時代 戦国時代
生誕 永正12年(1515年
死没 元亀2年10月3日1571年10月21日
改名 千代丸、氏康
別名 新九郎(通称)、相模の獅子、相模の虎(仇名)
戒名 大聖寺殿東陽宗岱大居士
墓所 神奈川県箱根町早雲寺
官位 従五位上相模守左京大夫
主君 足利義輝
氏族 北条氏桓武平氏
父母 父:北条氏綱、母:養珠院
兄弟 氏康為昌氏尭、大頂院殿(北条綱成室)、
浄心院(太田資高室)、高源院(堀越貞基室)、
芳春院足利晴氏室)、ちよ(葛山氏元室)、
娘(吉良頼康室)
正室:今川義元の妹(今川氏親の娘)・瑞渓院ほか
新九郎、氏政氏照氏邦氏規氏忠三郎
(上杉景虎)、氏光桂林院殿武田勝頼継室)、
浄光院殿(足利義氏室)、七曲殿(北条氏繁室)、
長林院殿(太田氏資室)、蔵春院殿今川氏真室)、
尾崎殿(千葉親胤室)、種徳寺殿(小笠原康広室)

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代武将相模戦国大名

後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏今川氏との間に甲相駿三国同盟を結ぶなど、政治的手腕も発揮した。

世に相模の虎(または獅子)と謳われる。

目次

[編集] 生涯

[編集] 家督相続

永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。幼年期はちょっとした物音にも驚いていて、周囲の人々も心配していた。享禄3年(1530年)、小沢原の戦に初陣して上杉朝興と戦い、これに大勝した。天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは、父と共に足利義明里見連合軍と戦い、敵の総大将・足利義明を討ち取り、勝利を収めている。

天文10年(1541年)に氏綱が死去したため、家督を継いで第3代当主となった。一説では天文7年(1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督を譲り、後見していたとも言われている。なお、氏綱は死の直前、5か条の訓戒状を残した。

[編集] 関東の戦い

天文14年(1545年)、今川義元関東管領山内上杉憲政扇谷上杉朝定(朝興の子)等と挙兵した。氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と協調してきた足利晴氏も連合軍と密約を結び後に参戦している。義元は北条氏綱に奪われていた東駿河の一部を奪還すべく軍事行動を起こした。これを第2次河東一乱という。しかし武田晴信(のちの信玄)の斡旋があって、氏康と義元は和睦した。

天文15年(1546年)、態勢を立て直した山内・扇谷の両上杉氏と足利晴氏の連合軍、およそ8万(誇張の可能性がある)の大軍が北条領に侵攻し、北条氏に奪われていた川越城を包囲する。このとき、北条軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢だった。氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘った。そして氏康は義弟・北条綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかける。この夜襲で上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。また、上杉憲政は上野平井に足利晴氏は下総に遁走した(河越夜戦)。

この勝利により、氏康は関東における支配権を確立する。そして天文20年(1551年)には、憲政を越後に追放し(平井合戦)、天文23年(1554年)の古河城侵攻(2年前に公方の位を後北条氏の血を引く息子の義氏に譲った晴氏を秦野に幽閉)で、それをさらに確固たるものとした。

[編集] 三国同盟

上杉憲政が越後に逃亡したことにより、長尾景虎(のちの上杉謙信)との対立関係が表面化してしまう。上野は憲政が去った後も、配下である長野当主・長野業正横瀬(由良)の北条・武田勢への頑強な抵抗が継続していた。常陸佐竹下野宇都宮などの関東諸侯による抵抗もあって、関東統治は停滞した。

天文20年(1551年)、一時的ながら、祖父・北条早雲ゆかりの城である駿河興国寺城を奪っている。

天文23年(1554年)、今川義元が三河に出兵している隙を突いて駿河に侵攻するが、義元の盟友である武田晴信(信玄)の援軍などもあって、駿河侵攻は思うように進まなかった。そして同年、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介などもあって、娘を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、武田晴信の娘を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至ったのである(甲相駿三国同盟)。

[編集] 上杉氏との戦い

永禄2年(1559年)、氏康は次男の氏政に家督を譲って隠居した。未曾有の大飢饉が発生していたため、代替わりによる徳政令の実施を目的としていたと言われる。しかし隠居後も小田原城本丸にとどまって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し、氏政を後見した。永禄4年(1561年)、上杉政虎が関東一円の大名や豪族、さらには一部の奥州南部の豪族まで動員する大連合軍を率いて侵攻して来る。これに対し上総の久留里城を囲んでいた氏康は包囲を解いて帰還、自身は小田原城に、綱成は玉縄城に籠城し、同時に機を見て各地に籠城と出撃の命を飛ばした。その結果、両城が共に連合軍を撃退し、武蔵の大藤氏などが局地戦で上杉軍を破った。さらに各地で輸送隊を襲い物資を奪い去ったことにより、連合軍は退却を余儀なくされるのである。そして政虎が信玄と川中島の戦いのために信濃に引き揚げた隙を突いて、上杉氏に奪われた領土の大半を取り戻して、謙信が擁立した古河公方足利藤氏(義氏の異母兄)を捕らえた。さらに永禄4年11月27日の生野山合戦にて謙信を打ち破る。これは謙信が自ら軍勢を率いた野戦では生涯唯一の敗戦となった。「謙信公御年譜」

永禄7年(1564年)、里見義堯里見義弘父子と上総などの支配権をめぐって対陣する(第二次国府台合戦)。北条軍は兵力的には優勢であったが、里見軍は精強で一筋縄にはいかず、北条軍は遠山綱景などの有力武将を多く失った。しかし氏康の夜襲が成功したことにより里見軍は敗れて安房に撤退した。同年、太田資正を破って武蔵を平定する。この後、謙信が臼井城攻撃に失敗した事もあり、ついに上野の由良氏、上総の酒井氏、土気(土岐)氏、原氏、正木氏の一部など多くの豪族が北条氏に服従。さらに、上野厩橋城の上杉家直臣北条(きたじょう)高広が北条に寝返った事により、上杉氏は大幅な撤退を余儀なくされた。上杉謙信との抗争における北条氏の優位は決定的なものとなったのである。

永禄10年(1567年)、氏康は息子の氏政・氏照に里見攻略を任せ出陣させる。しかし、正木氏などの国人が里見に通じたことなどがあり、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。北条家は上総南半を失った。この際、娘婿の太田氏資が戦死している(三船山の合戦)。しかし、常陸においては、南常陸の小田氏等の臣従により佐竹領以外には北条氏の勢威が及び、北条氏は全盛期を迎えた。

[編集] 武田信玄との戦い

永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退する。そして永禄10年(1568年)、従来の外交方針を転換っせた武田信玄が駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄された。このとき、氏康は娘婿の今川氏真を支援するが、氏真は武田軍、続いて徳川家康軍の侵攻を受けて駿河から追放され、小田原に亡命することとなる。

このため、氏康と信玄は敵対関係となり、甲相同盟は破綻する。氏康は信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃を計った。これにより信玄は駿河防衛は困難と判断し、駿河から撤退した。さらに氏康は上杉との和睦を画策。謙信は当時落城寸前であった下総関宿城を救うため、将軍家の斡旋もあり同盟締結を決意する。永禄11年(1568年)に北条方は北条三郎(後の上杉景虎)を人質として差し出し、上杉方からは柿崎晴家を人質に受け、上杉謙信と同盟を結んだ(越相同盟)。永禄12年(1569年)9月には武田軍が武蔵に侵攻する。これに対し、鉢形城で氏邦が、滝山城で氏照が籠城し武田軍を退け、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲する。しかし氏康が徹底した籠城戦をとったため、武田軍は小田原城攻略は不可能と判断、わずか4日後に撤退する。その撤退途上で、氏照・氏邦率いる北条軍と武田軍が衝突。氏康は追撃軍との挟撃を計り氏政を出陣させるが、氏政の行軍が遅れたため到着寸前に突破され、武田軍の甲斐帰還を許す結果になった(三増峠の戦い)。その後武田は再度駿河に出兵、対する北条は里見の勢力回復や氏康の体調悪化に伴い、駿河での戦いは押され気味となっていく。

また越相同盟に関しては、両家の停戦という意味では成功したものの、関東管領として関東に勢威を拡大しようとする謙信が、関東制覇を目指す氏康と利害を一致させる事はやはり難しかった。上杉勢は出兵に全く応じず、この同盟が対武田に有効に機能することは無かった。謙信の度重なる援軍要請無視に業を煮やした氏康は同盟を再検討するように指示しているほどである。さらにこの同盟は謙信に対する関東諸大名の強烈な不信感、不快感を生み出し、里見や佐竹といった勢力は謙信から離反し武田についてしまった。そのため北条はこれらの勢力との争いを続けることとなり、氏康はこの同盟を継続する利点はないという結論に達した。

[編集] 最期

元亀2年(1571年)から、氏康は、謙信から離反して東上野を領する北条高広を通じて、武田信玄との和睦・同盟を模索していた。氏康は元亀元年(1570年)8月頃から病を得ていたのだが、その年になりそれが悪化。最後の務めとして氏政をはじめとする一族を集め、「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされている。そして10月3日、小田原城において病死した。享年57。死因は中風、もしくは胃癌であったと言われている。

死後の12月27日、氏康の遺言どおり、北条・武田は再同盟している。 ただ近年ではこのような氏康の遺言はなく信玄側からの申し入れであったという説も有力である。

[編集] 人物

  • 若い頃はうつけものと言われたともいうが、当主となって後は父親の遺した訓戒状を守り質素を心がけたと言われている。また、三条西実隆から歌道の師事を受け、三略の講義を足利学校で受けるなど、教養・学問にも熱心だった。歌を詠ませれば著名な歌人さえも感心させた。天文20年(1551年)4月、氏康に接見した南禅寺の僧・東嶺智旺はその傑物ぶりを「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服している。まことに当代無双の覇王である」と高く評価している。その善政で民衆に慕われ、彼の死が小田原の城下に伝えられると領民は皆泣き崩れ、その死を惜しんだという。
  • 後北条家の特色である領内の検地を徹底して行ない、その結果に基づいて「所領役帳」を作成し、家臣や領民の負担を明確にするなどして、家臣団や領民の統制を円滑にならしめている。歴代同様に税制の改革にも熱心で領民の負担軽減などに尽力しており、在郷勢力から支持されている。中でも特筆に値するのが天文19年(1550年)4月に実施された税制改革である。それまでの諸点役と呼ばれる公事を廃止し、貫高の6%の懸銭を納めさせることにより、不定期の徴収から百姓を解放し、結果的に負担を軽減させた。同時に税が直接北条氏の蔵に収められる(中間搾取がなくなる)ことで、国人等の支配力が低下し北条氏の権力はより大きなものとなった。ほかにも棟別銭を50文から35文に減額し、凶作や飢饉の年には減税、場合によっては年貢を免除した。さらに領民の誰もが直接北条氏に不法を訴える事ができるよう目安箱を設置し、領民の支持を得ると同時に中間支配者層を牽制した。また他大名に先駆け永楽銭への通貨統一を進め、撰銭令も出している。その他の施策として、公用使役制の採用、伝馬制の確立などがあげられる。
  • 氏康の大きな功績として、独自の官僚機構の創出があげられる。例えば評定衆はその代表的なもので、領内の訴訟処理などをおこなっていた。構成員はおもに御馬廻衆を主体としていた。北条家の行政機構は全国で最も先進的なものであったといわれ、後の江戸幕府はこれを継承して経済を運用したと言える。
  • 小田原の城下町のさらなる発展のため全国から職人や文化人を呼び寄せ大規模な都市開発を行った。その結果、小田原の城下町は東の小田原・西の山口と称される東国最大の都市となった。日本初となる上水道小田原早川上水)を造りあげ、町にはゴミ一つ落ちていないとまで評されるほどの清潔な都市であったという。そしてこの町の流行は小田原様と称されすぐに関東全土に広まったと言われる。
  • 軍事的には信玄・謙信と並ぶ名将でもある。大きな戦いで敗れたのは氏康本人が出陣しなかった二つの戦、三船山の戦いと三増峠の戦い(後者は実質引き分けとも)のみと言われている。河越夜戦は、同世代の毛利元就による厳島、織田信長の桶狭間と並んで戦国三大奇襲作戦とされている。
  • 最初に長槍を兵制するなど、歩兵部隊のイメージが強い北条家だが馬術家の中山家などを配下とし、多くの牧野を領している。軍団の騎馬率は11%に及び武田の騎馬率(8%)よりも上である。忍者として評される風魔も、馬術に卓越して戦場での機動作戦を担当したことが伝えられている。
  • 氏康の民政手腕は数多い戦国大名の中でも特に抜きん出て優秀なものであると高く評価されており、「民政手腕随一の戦国大名」といわれる。
  • 北条記では、「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と評価されている。

[編集] 系譜

[編集] 家臣

[編集] 墓所

神奈川県箱根町の金湯山早雲寺(現在の早雲寺境内に残る氏康を含めた北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔。氏康の本来の墓所は、広大な旧早雲寺境内の大聖院に葬られたが、早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれ、氏康の墓所の位置は不明となっている)。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 藤木久志・黒田基樹 編『定本・北条氏康』(高志書院、2004年) ISBN 4906641911
  • 黒田基樹『戦国大名の危機管理』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2005年) ISBN 4642056009
    北条氏康の民政と軍役の実態研究
  • 黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書、2006年)ISBN4-480-06313-7 C002

[編集] TVドラマ

先代:
北条氏綱
後北条氏当主
第3代:1541 - 1559
次代:
北条氏政


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