里見義弘
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里見 義弘(さとみ よしひろ、享禄3年(1530年) - 天正6年5月20日(1578年6月25日))は安房の戦国大名。里見義堯の長男。太郎、左馬頭。瑞龍院殿在天高存居士。正室は初め、小弓公方・足利義明の娘である鎌倉太平寺住持・青岳尼、その死後は古河公方・足利晴氏の娘。子に梅王丸、正木義俊、薦野頼俊。初名は義舜である。なお生年については、大永5年(1525年)説がある。
[編集] 経歴
永禄年間初めに父より実権を譲られて、義舜から義弘へと改名したと言われている。
永禄4年(1561年)、上杉謙信の北条氏康攻めに呼応したり、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど、父・義堯と同様に後北条氏と徹底して対立した。しかし、この第二次国府台合戦で北条軍に大敗して安房に退却する。更に北条水軍などの攻撃と正木時忠ら上総の有力領主の離反によって上総の大半を喪失してしまった。
このため、里見氏の勢力は一時、衰退したが3年後の永禄10年(1567年)、義弘は三船山の戦いで北条軍を撃破して勢力を挽回し、上総佐貫城を本拠地として安房から上総、下総にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築き上げたのである。
天正6年(1578年)、上杉謙信の後を追うように久留里城にて急死した。だが、遺言に弟(庶長子ともいわれる)・義頼と嫡男・梅王丸への領土分割を命じた事から、死後に里見氏の分裂を招く事になった。
[編集] 関連項目
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