北条氏照
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文9年(1540年) | |||
死没 | 天正18年7月11日(1590年8月10日) | |||
別名 | 源三(通称)。大石源三・北条(平)陸奥守 | |||
幕府 | 室町幕府武蔵守護代 | |||
官位 | 陸奥守 | |||
氏族 | 後北条氏(大石氏) | |||
父母 | 父:北条氏康、養父:大石定久 | |||
兄弟 | 新九郎、氏政、氏照、氏邦、氏規、氏忠、氏秀、氏光 桂林院殿(武田勝頼室)、浄光院殿(足利義氏室) 七曲殿(北条氏繁室)、長林院殿(太田氏資室) 蔵春院殿(今川氏真室)、尾崎殿(千葉親胤室) 種徳寺殿(小笠原康広室) |
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妻 | 正室:大石定久の娘 |
北条 氏照/大石 氏照(ほうじょう うじてる/おおいし うじてる)は、戦国時代の武将。北条氏康の3男で北条氏政の弟である。北条は平姓なので「北条源三」は有り得ない、「大石源三」「北条(平)陸奥守」と用いる。生年を天文10年(1541年)、天文11年(1542年)とする異説もある。宗家の虎に呼応し、「如意成就」と刻まれた龍の印章を使用した。
[編集] 生涯
天文9年(1540年)、北条氏康の3男として生まれる。
俗説では父もその才を疑問視した兄・氏政と違って聡明で武勇に優れていたと言われる。
永禄2年(1559年)、武蔵国滝山城城主・大石定久の娘を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる。後に姓を北条に復して大石氏を配下に組み入れる(自ら北条を名乗った確実な記録は疑問視されており、大石当主の立場を全うしたという説もある)。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。また、養父の死後に遺族を粛清したとされている弟の北条氏邦(藤田氏邦)と違い、大石定仲ら定久の家族を取り立てている。
その後、氏照は父に従って永禄4年(1561年)には辛垣城の三田綱秀と、永禄7年(1564年)には里見氏と、天正2年(1574年)には簗田氏と戦い、後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した。また、外交手腕にも秀でており、永禄12年(1569年)には、上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達家とも濃密な外交関係を築くなど活躍した。織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
永禄10年(1568年)、武田信玄の家臣・小山田信茂らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという。なおこのとき氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる。
氏照は平山城である滝山城の防御面での不利を悟り、武蔵と相模の境に大規模な山城を築いた。山城の山頂に八王子社が祀られた為、城は八王子城と名付けられた。なお八王子城周辺の「八王子」という地名はこれに由来する。
永禄11年(1569年)、再度来襲した武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転した。戦国最大規模の山岳戦として知られている三増峠の戦いである。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領に侵攻し、北条領を拡大した。
しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっている。そのため小田原開城後、豊臣秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられた。享年51。
[編集] 小説
- 前川實 『私記 北條氏照』 (八ヶ岳寿庵工房、2001年)
- 日下部政昭 『北条氏照異伝』 (郁朋社、2001年)