足利義氏 (古河公方)
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 天文10年1月15日(1541年2月10日) | |||
死没 | 天正11年1月21日(1583年2月13日) | |||
改名 | 梅千代王丸、義氏 | |||
墓所 | 徳源院跡(茨城県古河市) | |||
官位 | 従五位下左馬頭、従四位下右兵衛佐 | |||
氏族 | 足利氏 | |||
父母 | 父:足利晴氏、母:芳春院 | |||
兄弟 | 藤氏、義氏、藤政、輝氏、家国 | |||
妻 | 正室:北条氏康の娘・浄光院殿 | |||
子 | 氏姫、梅千代王丸、娘 |
足利 義氏(あしかが よしうじ)は、第5代古河公方(在位:1552年 - 1583年)。同名の足利義氏から数えて14代目の子孫に当たる。
※ 日付は、和暦による旧暦。西暦表記の部分は、ユリウス暦とする。
[編集] 生涯
天文10年(1541年)1月15日、足利晴氏の次男として生まれる。幼名は梅千代王丸。父が北条氏康と戦って敗れて幽閉されると、古河公方となったが、就任式が古河御所ではなく北条氏の一支城であった葛西城(現在の東京都葛飾区青戸)で行われた[1]事からでも明らかなように所詮は北条氏の傀儡に過ぎず、その地位も名目上のものでしかなかった。
また、関東管領であった上杉謙信も晴氏の長男・足利藤氏が正統な古河公方であるとし、次男で庶弟であった義氏の継承を認めなかった。このため、義氏は氏康から小田原や鎌倉葛西ヶ谷など古河と関係ない地方をたらい回しにされたと言われている。なお、「小田原衆所領役帳」では「御家門方 葛西様」と記載されている。
元亀元年(1570年)頃、ようやく古河公方として古河に戻ることは許されたが、それは氏康の子・北条氏照を後見人にするという、結果的には傀儡と変わらないように地方を移されただけのものであった。
天正11年(1583年)1月21日、死去、享年43(満42歳没)。法号は長山善公香雲院。嫡男の梅千代王丸が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である足利氏姫を古河城主として擁立した。
名族の血筋が断絶することを惜しんだ豊臣秀吉の計らいで、氏姫は小弓公方であった足利義明の孫足利国朝と結婚し、喜連川氏を興した。
[編集] 脚注
- ^ 「千葉県の歴史 通史編 中世」(2007年刊、千葉県史料研究財団編・千葉県発行)
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