北条氏光
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北条 氏光(ほうじょう うじみつ、生年未詳 - 天正18年9月15日(1590年10月13日))は、戦国時代の武将で、父は北条氏康で八男とも九男ともいわれている。正室は北条幻庵の娘。子に北条氏則。四郎。官途名右衛門佐。
1570年に氏光は駿河深沢城の後詰め、相模足柄城の守備をするなど相模と駿河の国境防衛に当たっている。やがて駿河と伊豆の国境沿いの戸倉城将となり、隣接する口野五か村が兄で当主の北条氏政より与えられた。北条幻庵の婿養子だった北条三郎が越相同盟により上杉謙信の養子となったため幻庵の娘を離縁させ、氏光に嫁ぎ氏秀が守備していた武蔵小机領を継承した。(家督は幻庵次男氏信(綱重)の子氏隆が継いだ)
1581年に氏光に替わって戸倉城を守備した重臣松田憲秀の長男笠原政尭が武田勝頼に謀反したため、駿河東郡が武田氏の領地に、武田氏滅亡後は徳川家康の領土となった。
1590年小田原の役で豊臣秀吉に敗戦すると、当主北条氏直や兄北条氏規ら生き残った御一家衆や他の北条家家臣などとともに高野山に追放される。蟄居中の同年9月15日同地で没した。法名は西来院殿柏岳宗意大禅定門。
なお子の氏則は徳川家康に旗本として仕えたが、氏光から見て孫の代よりその後の子孫の動向が把握できない。
また、長く誤解を受けていた北条氏尭(詳しくは同項目参照)とは別人であり、氏尭が使っていたとされた印判のうち、「有虞宝晈陶唐」、「福寿」、「桐圭」のうち「有虞宝晈陶唐」は氏尭、「福寿」は北条氏信(2代目狭山藩主ではなく幻庵次男)、「桐圭」は氏光だということが分かった。
[編集] 参考文献
- 黒田基樹著 戦国北条一族 ISBN 440403251X C0021
- 歴史群像シリーズ14 新説北条五代 早雲と一族、百年の興亡 (1989年、学習研究社)