花倉の乱
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花倉の乱(はなくらのらん、花蔵、はなぐらとも)は、戦国時代の天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名でもある今川氏のお家騒動。「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、あるいは恵探は「花蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。嫡流の梅岳承芳(今川義元)らが勝利し終結。
[編集] 経過
足利氏の氏族である今川家では、文明10年(1478年)に遠江で今川義忠が戦死した後にも、家督を巡り一門衆と有力被官の争いで家中が分裂する騒動が起こっており、これは幕府申次衆の伊勢盛時(北条早雲、後北条氏の祖)の仲介で長享元年(1487年)に今川氏親への家督相続が行われた。
氏親は、守護代となった盛時に支えられ当主の宗主権強化に努める。分国法である『今川仮名目録』を制定して家中を統率。自身の死後の内訌を防止するため、嫡子龍王丸(今川氏輝)への家督相続を確実にし、大永3年(1523年)には京都の建仁寺から太原雪斎を招き、五男の宝菊丸(正室寿桂尼の第三子。出家して梅岳承芳、のちの今川義元)を養育させ、大永5年(1525年)に得度させて富士郡瀬古の善得寺(静岡県富士市)に入らせる。氏親は翌6年(1526年)に死去し、嫡子氏輝が今川家当主となる。
氏輝の時代には、対立していた甲斐の武田氏と和睦し、一門衆や有力被官の合議制を確立させ、分国統治を整備する。だが、三河で松平氏が活動を強めると、守勢であった氏輝は三河を放棄し、甲斐侵攻を計画。太原雪斎とともに京で修行していた弟の梅岳承芳(義元)を呼び寄せる。
天文5年3月17日(1536年4月7日)、当主の氏輝と、上位継承者である弟の彦五郎が急死する。家中での影響力も強かった氏親正室の寿桂尼や、太原雪斎、重臣たちは梅岳承芳(義元)を還俗させ、京の足利将軍から偏偉を賜り、義元と名乗らせる。さらに甲斐の武田家と和睦を成立させる。家督を継がせようとするが、今川家の有力被官で、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島(くしま)氏が反対。福島氏は氏親の側室が福嶋助春の娘で外戚にあたり、子の玄広恵探を擁立して対抗した。
5月24日(6月12日)、寿桂尼は恵探派の福島越前守と面会して説得を試みるが失敗。翌25日(13日)、恵探派は久能山で挙兵し、駿河府中の今川館を襲撃する。今川館の守りが堅く襲撃が失敗すると、恵探派は方ノ上城(焼津市)、花倉城(葉梨城、藤枝市)を拠点として抵抗、遠江などで同調するものも現れた。
義元は相模の後北条氏の支援も得て、6月10日(6月28日)に岡部親綱が方ノ上城を攻撃、落城させる。次いで恵探の篭る花倉城をいっせいに攻め立てた。恵探は支えきれずに逃亡、瀬戸谷の普門寺で自刃。遠江での戦闘も収束すると、義元は自身の家督相続を宣言し、宗主権強化に努める。