寿桂尼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寿桂尼(じゅけいに、? - 永禄11年3月14日(1568年4月11日))は、戦国時代の女性、駿河国の戦国大名である今川氏親の正室。藤原北家、勧修寺流の公家の出自で、父は権大納言中御門宣胤。兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。子に今川氏輝ほか6男。大方殿。
[編集] 人物・略歴
永正2年(1505年)に氏親に嫁ぐ(永承5年(1508年)説あり)。永正11年(1513年)に長男の今川氏輝、次男の彦五郎、永正17年(1519年)には5男の今川義元を出産。病床の氏親を補佐し、大永6年(1526年)4月に制定された今川氏の分国法である『今川仮名目録』の制定にも関わっているとされる。
大永6年(1526年)、氏親が病死して氏輝が家督を継いだとき、氏輝はまだ14歳という若年であり、氏輝が16歳になるまでの2年間は、寿桂尼が公的文書を発給し、今川氏の政務を取り仕切った。このため、彼女は「女戦国大名、尼御台」と呼ばれている。また、寿桂尼は甲斐の戦国大名武田信玄(晴信)とその正室で公家の出自である三条の方の縁談の斡旋を努めたという説もある。
天文5年(1536年)には彦五郎、氏輝が相次いで死去すると、寿桂尼は出家して梅岳承芳と名乗っていた義元を還俗させ、側室の子である玄広恵探との間で家督争い『花倉の乱』が起こる。義元が永禄3年(1560年)に尾張の織田信長との戦いである桶狭間の戦いで戦死し、孫の今川氏真が当主となった後も政治に関わっている。
今川家没落の最中の永禄11年(1568年)に死去。「死しても今川の守護たらん」という彼女の希望により、今川館の東北、鬼門の方角にあたる竜雲寺に埋葬された。