中御門宣秀
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中御門 宣秀(なかみかど のぶひで、文明元年8月17日(1469年9月22日) - 享禄4年7月9日(1531年8月21日))は、戦国時代の公卿・歌人。藤原北家勧修寺流中御門家の当主。父は従一位大納言中御門宣胤。母は権大納言甘露寺親長女。兄弟姉妹に四条隆永・宣増(法印権大僧都)・山科言綱室・今川氏親室(寿桂尼)がいた。室は吉田兼倶女。子に中御門宣綱・中御門宣忠・葉室頼経室・朝比奈泰能室・狛相光室がいた。
文明3年(1471年)に叙爵。蔵人・蔵人頭・左中弁・左宮城使などを歴任し、明応8年(1499年)正四位上参議になる。永正元年(1504年)権中納言になり、永正14年(1517年)正二位に昇叙される。永正15年(1518年)権大納言になる。大永5年(1525年)官を辞す。享禄4年(1531年)病に倒れて危急に陥り、7月6日従一位に叙され、同9日薨去した。享年63歳だった。
有職故実に精通し、また連歌もよくした。日記『宣秀卿記』がある。