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吉田城 (三河国) - Wikipedia

吉田城 (三河国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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吉田城(今橋城?、豊橋城)
愛知県
鉄櫓(模擬再建)
鉄櫓(模擬再建)
通称 吉祥郭、峯野城、歯雑城
城郭構造 半円郭式平城
天守構造 なし
築城主 牧野古白?
築城年 永正2年(1505年)?
主な改修者 池田照政(池田輝政)
主な城主 池田氏、酒井氏、牧野氏、松平氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬鉄櫓
位置 北緯34度46分12.53秒
東経137度23分36.06秒
  

吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった

戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。 江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。

目次

[編集] 歴史

永正2年(1505年)に宝飯郡の長山一色城主・牧野古白今川氏の命により、渥美郡馬見塚村(豊橋市今橋町。現在の同市馬見塚町と位置が異なる。)の入道ヶ淵に臨む岡に築城したとされる。[1] [2]

戦国末期に築城された東三河の戦略拠点の1つ。現存する城跡は近世城郭で、豊川を後背地とする背水の陣となるため、徳川家康の本城になることはなく、家臣の酒井忠次が守った。対武田氏戦線では、設楽郡の長篠城・野田城、遠州の浜松城・二俣城・高天神城が牙城となった。

西三河で勢力を広げつつあった安祥城松平氏東三河進出を妨げるため、今川氏親の指示があったとされる。

翌永正3年(1506年)松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。今橋城の近くの二連木城(豊橋市仁連木町)や半島の田原城に拠点を持つ戸田氏、離散した牧野氏など城主が次々入れ替わった。

大永2年(1522年)、城主であった牧野信成によって吉田城と改められたというが、『宗長手記』では、大永4年(1524年)に「十日に今橋牧野田三一宿」、大永6年(1526年)、「三河国今橋牧野田三」とあり疑問が残る。

享禄2年(1529年)、西三河から松平清康が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年清康横死し松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となった。天文15年(1546年)、牛窪城主(長山一色城主)の牧野保成の要請を請けて今川氏が戸田宣成を攻めて吉田城を陥落させ、これを管理下に置いた。[3]


今川氏駿河から城代小原鎮実を派遣し、東三河の国衆にも城代を補佐させて統治協力を強いた。永禄3年(1560年)、今川義元桶狭間の戦いで討たれると支配力が低下、次第に歯止めが利かなくなる。永禄8年(1565年)には、松平家康によって攻略され、今川氏は三河支配権を喪失する。家康は家臣の酒井忠次を城代に任命、吉田城を中心に東三河の諸豪族を統率させた。

元亀2年(1572年)より天正10年に至る武田氏との攻防戦では、吉田城主酒井忠次を旗頭とする東三河国衆が武田氏の東三河・西遠江への侵入を防ぐ[4]天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政(吉田城主時代は照政)が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となった。

輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋豊橋)の架け替えを行った。整備は11年間にわたって行われたが完了せず、関ヶ原の戦いの翌年慶長6年(1601年)に輝政は播磨国姫路に移封された。江戸時代に入ると、征夷大将軍徳川将軍家の下で吉田城に吉田藩の藩庁が置かれ、深溝松平氏水野氏小笠原氏など3万から8万石の譜代大名が頻繁に入れ替わった。そのため、ほとんどの藩主は菩提寺を吉田に造らず、唯一の藩主の菩提寺は小笠原家四代の廟の有る臨済寺{通称、殿様寺(とのさまでら)。豊橋市東田町。}のみである。最後に入ったのは、長沢松平大河内家(大河内氏)である。

明治維新後、松平伊豆守信古(まつだいらいずのかみのぶひさ)公(後の大河内信古子爵)が明治2年(1869年)に版籍奉還し、明治政府下の豊橋城(豊橋藩)となり、明治4年(1871年)、敷地は兵部省の管轄となった。明治6年(1873年)、失火により多くの建物が焼失した。また、城趾内に名古屋鎮台の豊橋分営所が設置され、明治8年(1875年)には大日本帝国陸軍第18連隊が置かれた。

太平洋戦争後、三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され、本丸には1954年(昭和29年)に隅櫓(鉄櫓)が模擬再建された。また美術館やスポーツ施設、文化会館などが整備されている。また、豊橋市役所(豊橋市今橋町1番地)も三の丸に立地している。

[編集] 城名について

築城当初のこの城の命名について、「牛窪記」には吉田城とあり、後の成立である「牛窪密談記」・「宮嶋伝記」には今橋城となっており、また「今橋物語」には峯野城歯雑城(おかさわじょう)と古名を紹介しており、今橋城の城名には疑問が残る。

[編集] 立地、構造

吉田城の本丸  石垣。左右で大きく積み方が異なることに注意(詳しくは本文参照)。
吉田城の本丸 石垣。左右で大きく積み方が異なることに注意(詳しくは本文参照)。

この吉田城は豊川朝倉川合流地点に立地。現在に至るまで23度にわたって発掘調査が行われている。その成果によると、戦国期の吉田城は土盛と素掘りの堀による簡素な構造だったと考えられる。池田輝政による改築以降、北側に川を背にして本丸があり、それを囲むように二の丸、三の丸、武家屋敷が囲むという半円郭式の平城であった。ただし、掘割や土塁は戦国期の吉田城と平行線状に並んでおり、縄張りは戦国期のものをある程度踏襲されていることが知れる。

本丸は北側の川に面し、切り立った石垣が組まれていた。南側は囲むように石垣と隅櫓で構築され、その外側には空が掘られていた。天守は無く、隅櫓の一つである鉄櫓が天守の代わりをしていたと考えられている。本丸御殿が江戸時代の深溝松平氏が納めた当時に建設されたが、宝永4年(1707年)の宝永地震で崩壊し、以後再建されなかった。再建鉄櫓を支える石垣は池田輝政当時のものといわれる。その他の部分の石垣については、慶長期の名古屋城築城の際に余った石垣を転用している部分が見受けられ、石垣の中には天下普請(多くの大名が築城に動員されたこと)であったことを示す各大名家の家紋などが刻まれているものがある。

吉田城の石垣中にある土佐藩の印。天下普請であった名古屋城の石垣の余ったものを吉田城に転用したことを示すものである
吉田城の石垣中にある土佐藩の印。天下普請であった名古屋城の石垣の余ったものを吉田城に転用したことを示すものである

二の丸は土塁で囲まれており、二の丸御殿や弾薬庫があった。また二の丸の北、本丸の東側には細長い形状の金柑丸があった。牧野古白による築城当時の本丸はこのあたりにあったといわれている。

三の丸も土塁で囲まれ、米蔵や土蔵、長屋などがあり、その外側は武家屋敷が広がっていた。場外とは総堀で囲われており、当初空堀であったが、承応3年(1654年)、譜代の小笠原忠知によって向山大池(豊橋市向山町)が築かれ、水を引いた。大手門は札木町(豊橋市札木町)付近にあった。

[編集] 遺構

現在本丸から三の丸にかけて公園が整備され、本丸の石垣および堀をはじめとして、各所に石垣、土塁、堀が残る。

建造物としては、静岡県湖西市鷲津の本興寺老中久世広之によって延宝2年(1674年)に寄進移築された武家屋敷を奥書院として(静岡県指定文化財)および惣門(湖西市指定文化財)が残る。

[編集] 交通機関

豊橋駅前から市内電車豊橋公園前駅もしくは市役所前駅で下車(約5分)。豊橋駅から徒歩でも20分程度で到着する。

[編集] 脚注

  1. ^ 「今橋物語」所収の永正2年11月(旧暦)付の渡辺平内次宛今川氏親判物は馬見塚村(現在の豊橋市今橋町)地頭であった渡辺平内次に替地として渥美郡三相村(現在の豊橋市三ツ相町から馬見塚町辺り。)を宛てる旨を記し、これが馬見塚村の今橋築城を示すとされている(出典→『豊橋市史』368頁)
  2. ^ しかし、築城者について「牛窪記」では、築城者を牧野家(奉行)、城主を牧野田三としているのに対して、後の成立である「牛窪密談記」では築城者および城主を牧野成時(古白)、「宮嶋伝記」には牧野古白(成時)としており、違いがある。(『豊橋市史』366-368頁)
  3. ^ この際、田原城・二連木城の両戸田氏等の戸田一族は宣成を救援した形跡が無く、このことから宣成が戸田一族の今川氏に対する犠牲となったとする。(『豊橋市史』390頁)
  4. ^ 『家忠日記』に、「天正三年吉田の町口乃・・・」と記載がある。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 市内の城

  • 二連木城戸田松平家(仁連木戸田家、戸田宗家)が戦国時代に拠点としていた城。旧渥美郡。
  • 大津城戸田全久(宗光)にとって東三河での最初の拠点。旧渥美郡。
  • 月ヶ谷城 – 戦国時代の三河西郷氏の初めの本城。旧八名郡。
  • 五本松城 – 戦国時代の三河西郷氏の後の本城。旧八名郡。
  • 西川城 – 戦国時代の三河西郷氏の支城。徳川時代に小笠原長秋陣屋を置いた。旧八名郡。
  • 船形山城 – 遠江国(静岡県)との国境近くの山に築かれた城。今川氏と戸田氏が衝突。旧渥美郡。

[編集] その他


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