足利氏満
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足利 氏満(あしかが うじみつ、延文4年/正平14年8月12日(1359年9月4日) - 応永5年11月4日(1398年12月12日)、在位1367年 - 1398年)は室町時代の第2代鎌倉公方である。父は足利基氏、母は畠山家国の娘。法名:永安寺髟玉山道全(髟と玉の字は、髟の字の下に玉の字が入って一字となる)。幼名は金王丸。子は足利満兼、満貞、満直、満隆らがいる。
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[編集] 経歴
1367年に父の基氏が死ぬと鎌倉公方となった。
公方となってすぐの1368年1月に武蔵平一揆の乱が起こるが、10歳という幼少ながらみずから軍勢を率いて河越に出陣。京から引き返した関東管領上杉憲顕も加わって、同年6月17日には平一揆を鎮圧した。
憲顕死後は関東管領を継いだ上杉憲春とともに宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を形成した。1379年、中央で管領の細川頼之と斯波義将を中心とする幕府内部の抗争が表面化すると、それに呼応して将軍・足利義満に対して挙兵しようとしたが、関東管領の憲春が諫死して諌めたために断念した。その後は新田氏や宇都宮氏、小山氏の反乱、関東地方の一揆などを鎮圧し、その功績により義満から陸奥や出羽の統治も任された。
鎌倉公方は将軍家である足利氏と常に対立していたという。この対立が後に氏満の子・足利満兼やその孫・足利持氏らの将軍家との抗争につながったのである。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1367年(正平22年/貞治6年)5月29日、鎌倉公方に就任。
- 1369年(正平24年/応安2年)1月21日、元服し、氏満と名乗る。
- 1372年(文中元年/応安5年)11月6日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。
- 1380年(天授6年/康暦2年)2月、従四位下に昇叙し、左兵衛督に転任。
- 1391年(元中8年/明徳2年)2月、陸奥出羽両国公方兼務。
- 1392年(元中9年/明徳3年)3月、従三位に昇叙。左兵衛督如元。
[編集] 関連書籍
- 田辺久子「関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏」吉川弘文館 2002年発行。 ISBN 9784642077897
[編集] 関連項目
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