足利満直
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足利 満直(あしかが みつなお、生年不詳 - 永享12年6月24日(1440年7月23日))は室町時代中期の武将で篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。第2代鎌倉公方足利氏満の子。第3代公方足利満兼は兄。他に足利満貞、足利満隆の兄弟がいる。
室町幕府と鎌倉府が和解した後、応永6年(1399年)に陸奥国・出羽国が鎌倉府の管轄となったため、兄満兼により陸奥国安積郡篠川に派遣、下向し、篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。同時に兄弟満貞も陸奥国岩瀬郡稲村に派遣、下向し、稲村御所(稲村公方)と呼ばれる)。
篠川・稲村両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗するのが主要任務と考えられる。安積郡は伊東氏の勢力圏で、満直は伊東氏や岩瀬郡の二階堂氏、白河郡の白河結城氏などと連携してたびたび伊達氏と衝突している(伊達政宗の乱など)。鎌倉公方が甥である足利持氏に代替わりすると、篠川御所である満直と持氏の関係が悪化したため、次第に満直は幕府と結びついて南奥諸氏を反持氏でまとめる工作を行っている(この頃、「黒衣の宰相」と呼ばれた満済准后の日記には、満直の活動を示す記事が残されている)。それに対して稲村御所の満貞はあくまでも甥・持氏を支持し、鎌倉に退去した。永享10年(1438年)に発生した永享の乱で、満直は幕府方として石橋氏、蘆名氏、田村氏らを率いて参陣している。持氏と満貞は鎌倉で自害した。
永享の乱で持氏が自刃すると、将軍足利義教は自分の息子を鎌倉公方として下向させることを画策する。それには反対し、結城氏朝・結城持朝が持氏の遺児を擁立して永享12年(1440年)3月、結城合戦が勃発した。乱は嘉吉元年(1441年)4月に鎮圧されるが、乱の最中の永享12年6月24日(旧暦)、下総結城氏に呼応する形で南奥諸氏が一斉に蜂起して篠川御所を襲撃、満直は自害に追い込まれた。