簗田満助
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簗田 満助(やなだ みつすけ、応永2年(1395年) - 永享10年11月1日(1438年11月18日))は、室町時代の武将。鎌倉公方に仕えた。
その先祖は平惟茂とも平維盛であるともいわれ、後に子孫が下野国足利荘簗田郷に在住して足利氏に仕えたと言われている。満助は長男ではなかったが、母親が名門那須氏の出身であったために簗田氏の家督を継いだという。
鎌倉公方足利持氏に仕えて、河内守を名乗って鎌倉公方奉公衆筆頭となる。一説には永寿王丸(後の古河公方足利成氏)の生母は簗田氏の出とされる。後に下河辺荘(下総国猿島郡・葛飾郡の一部)に所領を与えられたとされ、水海城(現在の茨城県古河市)はその根拠地であると言われる。このため、簗田氏代々の当主からは「御家之鏡」と尊崇されたのである。
永享10年、6代将軍足利義教の命を受けた関東管領上杉憲実によって持氏が攻められる(永享の乱)と、満助は一族郎党とともに抵抗するが、やがて息子・持助に永寿王丸を託して落ち延びさせた後に、幕府側の攻撃を受けて自害したと言う。