上杉顕房
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上杉 顕房(うえすぎ あきふさ、永享7年(1435年)? - 享徳4年1月24日(1455年2月10日))は、室町時代の人物。扇谷上杉家当主。上杉持朝の子。上杉政真、女子(千葉実胤正室)の父。上杉定正(扇谷定正)・高救・朝昌の兄。弾正少弼、修理大夫。相模国守護。三郎。長源院。
宝徳元年(1449年)、滅ぼされた足利持氏の遺児の永寿王(足利成氏)が鎌倉公方に復帰した際に、父の持朝が隠居したため扇谷家の家督を継承する。家宰太田資清の補佐を受けていた。成氏が関東管領の上杉憲忠(山内上杉家)を殺害し享徳の乱が勃発すると、上杉氏の一門として上杉憲顕(犬懸上杉家)や長尾景仲(白井長尾氏)らとともに軍勢を率いて相模江ノ島などで成氏と戦うが、武蔵分倍河原の戦いにおいて敗北、自害した。
顕房の子の政真はまだ幼かったため、扇谷上杉家は父の持朝が当主として復帰した。
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