千葉実胤
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千葉 実胤(ちば さねたね、嘉吉2年(1442年) - 文正元年(1466年))は室町時代中期の武将。父は千葉氏嫡流の千葉胤賢。正室は上杉顕房女。弟に自胤。通称は七郎。
[編集] 生涯
享徳3年12月27日(1455年1月15日)鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことから享徳の乱が起こり、重臣でもある原胤房に千葉城を急襲され、千田庄(現在の多古町)に逃れ援軍を待った千葉氏一族は、頼みの上杉氏の援軍は無く籠った多古城と志摩城の落城により自刃して果てた。しかし実胤と弟自胤は父胤賢に連れられ志摩城を脱出、父も康正元年9月7日(1455年10月17日)小堤城(現在の横芝光町小堤)で自刃して果てたが、実胤らは八幡庄市河城(現在の市川市市川)へ逃れた。
将軍足利義政が派遣した東常縁の支援はあったが、古河公方足利成氏の派遣した簗田持助に敗れ、康正2年(1456年)正月19日に市河城も陥落、実胤らは武蔵国へ、東常縁は東庄の近い下総匝瑳郡へと逃れた。
その後、体制を立て直した東常縁は、2月7日に匝瑳郡の惣社老尾神社で戦勝祈願をした後馬加城(現在の千葉市花見川区幕張町)を攻め落とし、6月12日に馬加康胤の子胤持を、11月1日には、上総国八幡(現在の市原市八幡)の村田川にまで逃れた馬加康胤を討ち取り馬加氏を滅ぼすことには成功した。さらに康正3年(1457年)4月には実胤らの外戚である扇谷上杉家の家宰の太田道灌が江戸城を築城する等古河公方側に圧力をかけ続けた。しかし、印東庄岩橋村(現在の酒々井町岩橋)の領主岩橋輔胤等は本佐倉城を築城するなどし反抗し続けた。
その為、武蔵へ逃れた実胤らの下総への帰還は叶わず寛正3年(1462年)に隠遁したと伝えられる。一説によれば病弱であったとも言われているが、近年では堀越公方足利政知の側近渋川義鏡による讒言による失脚とする説もある。
なお東常縁は、応仁の乱で所領である美濃国郡上を斎藤妙椿に奪われはしたが、10首の和歌をもって返還が叶い文明元年(1469年)4月に、子東縁数を下総に残して帰京した。