上杉憲忠
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上杉 憲忠(うえすぎ のりただ、1433年(永享5年) - 1455年1月15日(享徳3年12月27日))は室町時代前期の武将。上杉憲実の長男。官位は右京亮。山内上杉氏出身。幼名は竜忠。関東管領に就任するが、鎌倉公方足利成氏に暗殺されて享徳の乱のきっかけを作った。
1439年、父の憲実が永享の乱でかつての主君・足利持氏を滅ぼしたことに対しての自責の念にかられて出家したとき、共に出家した。このため山内上杉氏が当主不在となったため、家宰の長尾景仲が困り果てて1446年、憲実に復帰を要請した。憲実は先に京都に出仕していた次男の上杉房顕を復帰させようとしたが、このとき長男の竜忠が還俗して憲忠と名乗り、山内上杉氏の家督を継いだのである。房顕以外の息子は全て僧侶とするつもりであった憲実はこれに激怒して、憲忠を義絶している。しかし景仲らが憲忠の家督を支持したため、1448年11月には関東管領に就任するに至ったのである。
ところが1449年、持氏の遺児である足利成氏(永寿王)が鎌倉公方として復帰する。成氏は永享の乱で父を殺された経緯から憲実とその息子を激しく恨んでおり、憲忠とは犬猿の仲にあった。このため1450年、長尾景仲は上杉持朝と共謀して成氏を攻め滅ぼそうとしたが失敗し、逆に反撃を受けてしまう。憲忠は直接この事件には関与していなかったが、家臣の責任を負う形で相模国七沢に蟄居を余儀なくされた。その後、成氏に罪を許されて復帰したが、成氏と憲忠の対立はさらに深まり、1454年12月27日に鎌倉にある成氏の西御門邸に招かれた憲忠は、成氏の命を受けた結城氏家臣多賀谷高経によって謀殺されてしまったのである。享年22。法号は興雲院長釣道洪。
父の憲実はこれを知ったとき、大いに嘆いたと言われている。
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