蔚山城の戦い
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蔚山城の戦い(ウルサンじょうのたたかい)は、慶長の役で明・朝鮮連合軍と日本軍との間で行われた交戦。(蔚山城の構造については蔚山倭城を参照。)
[編集] 第一次蔚山城の戦い
文禄・慶長の役を通じて日本軍は朝鮮南岸各地に倭城群を築いて布陣していた。その最北端にあたる西生浦倭城の北約15km蔚山の地に、北上攻勢の拠点とするため、1597年11月中旬、毛利秀元・浅野幸長の軍勢を中心として、蔚山倭城の築城を始める。
突貫工事の後、40日程で蔚山倭城の完成が目前になると、築城が担当であった毛利秀元らは兵糧・武具類を釜山に輸送し一旦退去。浅野幸長・太田一吉らがわずか3,000の兵で城外の仮営に駐屯していた。そこへ、12月22日、明将楊鎬、麻貴らに率いられた明軍および、都元帥権慄率いる朝鮮軍、合わせて約58,000(うち朝鮮軍1万2000人)もの兵が攻め込んできた。その報を聞いた加藤清正が西浦生倭城から援軍に駆けつけ、城内に入り籠城戦が始まる。23日、明・朝鮮連合軍が城の惣構を突破すると、日本軍は内曲輪に撤退し防衛戦を展開する。明・朝鮮連合軍は、24日、26日、29日、1月4日、と攻城戦を展開したが、日本軍の防戦はこれを尽く撥ね退け城を守り通したため、明軍に大きな損害を与え[1]攻撃を頓挫させた。しかし、城の完成間も無くで兵糧の備蓄も充分でないままの篭城戦により日本軍側は厳しい戦いを強いられることになった。冬の寒さと飢えと倒れる者が続出。落城は時間の問題となる。
籠城開始、13日後、釜山から小早川秀秋・毛利秀元・黒田長政らの率いる援軍が蔚山城に到着。明・朝鮮連合軍は蔚山倭城の攻略を断念し、退却する。小早川秀秋は自ら馬に乗り、退却する明・朝鮮連合軍を激しく追撃し、数多くの敵兵を討ち取った[2]。この戦いで明軍は2万もの大損害を出し[3]、戦いは日本軍の勝利となった。敗北した明軍では楊鎬が敗戦の責任を負い罷免された[4]。
加藤清正・黒田長政らは追撃をすることをせずに蔚山方面での戦線を縮小する。このことが軍目付の福原直高らによって豊臣秀吉に報告される。福原直高は加藤清正らの反発を受けるが、石田三成の弁護を受けて加増まで受ける(福原直高は石田三成の妹婿)。この事件で、加藤清正、黒田長政らは石田三成に対して恨みを抱くようになったといわれている。
[編集] 第二次蔚山城の戦い
1598年9月、明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に分かれて南下を開始した。この内麻貴総兵が指揮する東路軍29500人(明軍24000人、朝鮮軍5500人)は9月21日(以下和暦)に慶州を出発。22日に加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが今回は篭城準備がなされており、城中の清正は明軍を撃退し本格的な攻城戦とはならなかった。[要出典]『明史』によると、日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、明軍が空塁に入った時、伏兵が起こり明軍は敗北した[5],その日本軍は清正救援のために、1000人を率いる立花宗茂の軍勢です[6]。麻貴は25日に挑発を行った[要出典]あと、29日には蔚山倭城より撤退し、10月6日に慶州へ帰還した。第二次蔚山城の戦いでは、中路軍が攻撃した島津義弘の泗川倭城や、西路軍と水軍が攻撃した小西行長の順天倭城とは異なり大きな戦闘は無かった。[要出典]
この戦いに先立つ8月18日、既に豊臣秀吉は死去しており、その死は秘匿されたまま10月15日に撤退命令が発せられ、加藤清正は11月18日に蔚山倭城より撤退を完了して帰国した。