柳成龍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳成龍 | |
---|---|
{{{picture-type}}} | |
{{{caption}}} | |
各種表記 | |
ハングル: | 유성룡 |
漢字: | 柳成龍 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
りゅう せいりゅう |
片仮名: (現地語読み仮名) |
ユ・ソンリョン |
ラテン文字転写: | |
{{{alphabet-type}}}: | {{{alphabet}}} |
柳成龍(りゅう・せいりゅう、1542年 - 1607年5月13日)は、李氏朝鮮の宣祖王のころの宰相。字は而見。派閥は東人。柳仲郢の二男。韓国では李氏朝鮮の名宰相5人の一人として評価されている。豊山の出身で李退渓に儒教を学ぶ。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には領議政や都体察使という要職を歴任して李氏朝鮮の指導的立場にいた。金誠一や権慄などを抜擢し、特に幼い頃から同じ村で住んだ李舜臣を優遇した。また、柳成龍は囲碁の高手でこれと関わる話が多い。彼は非常に清廉に暮らし金がなかったが、この実情を聞いた多くの民衆が彼の家を尋ねて家庭用品を与えたという。謚号は文忠公。
[編集] 著書
「懲毖録」は政治指導を行った柳成龍が朝鮮出兵について朝鮮側からの戦後反省を込めて記した資料的価値が高い記録であり、江戸時代には日本に伝来して出版されて日本側の朝鮮出兵史観に大きな影響を与えた。これを見た朝鮮通信使は国家機密が流出していると李氏朝鮮に報告し、李氏朝鮮では流通が制限された。