李舜臣
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李舜臣 | |
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李舜臣銅像(ソウル世宗路) | |
各種表記 | |
ハングル: | 이순신 |
漢字: | 李舜臣 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
り・しゅんしん |
片仮名: (現地語読み仮名) |
イ・スンシン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | Yi Sun-sin |
李 舜臣(り・しゅんしん、朝鮮読み:イ・スンシン、1545年4月28日 - 1598年12月16日)は、文禄・慶長の役時の李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、여해)。朝鮮水軍を率いて日本軍との戦いに活躍し、日本軍を苦しめた。その功績から韓国では国民的英雄となっている。
目次 |
[編集] 前半生
京畿道開豊郡の徳水李氏の出身で、漢城(現ソウル)の乾川洞(現中区乙支路)に生まれた。父は李貞。4人兄弟の三男。兄弟の名前は、上から、羲臣、尭臣、舜臣、禹臣。中国の伝説上の帝王の名前の一字をとって、名付けられている。後に、李氏朝鮮の領議政(首相)となる三歳年上の柳成龍も、同所で生まれており、李舜臣とは幼馴染の仲だった。李舜臣は、幼い時から勇猛果敢な性格だったが勉学は苦手であったようである。このため、20歳すぎになると、文科は諦めて武科の試験を受けることにした。しかし、試験では、落馬したり、筆記試験に落ちるなどして、合格したのは、1576年、32歳のときであった。李舜臣の母の実家がある忠清南道牙山市に、李舜臣の功績を称える「顕忠祠」があるが、そこに展示されている資料には、李舜臣が武科に「丙種合格」したことが記述されている。「丙」は「甲乙丙」の順序の最後であるから、最低点での合格と言うことになる。李舜臣は、下士官として朝鮮各地を転戦したが、上司との折り合いが悪く、罷免されたり、白衣従軍(一兵卒として従軍すること)を命ぜられたりしている。李舜臣が不遇な時には、幼馴染で同派閥の柳成龍が救っていた。そして、文禄の役の前年である1591年に、柳成龍の推薦により全羅左道水軍節度使(略称:全羅左水使)に大抜擢される。当時、柳成龍は右議政(副首相)の地位に出世していたのである。しかし、何の功績も無い李舜臣の大抜擢は、先任の水軍節度使である元均などの激しい反感を買うことにもなった。
[編集] 文禄の役
豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始すると、慶尚道の水軍は壊滅したが残存朝鮮水軍の主導的指揮官の一人として朝鮮水軍を指揮した。緒戦では釜山西方の支配領域拡大のために展開していた日本軍後方諸隊の海上移動のための輸送船を数次に渡って攻撃し、成功を収めた。
攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に平壌・咸鏡道などへ展開していた日本軍は、釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の輸送船攻撃が活発になると脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗する事とした。
しかし、単独で抜け駆けをした脇坂水軍を李舜臣は囮を使って閑山島海戦で撃破し、続いて援護のために安骨浦に進出し停泊中の加藤・九鬼水軍を襲撃した。水軍による海上戦闘で不利を悟った日本軍は南岸域の要所に城砦(倭城)を築いて、船対船の積極的な海上攻撃作戦から船対陸の水陸防御作戦へ戦術を変更した。この戦術転換は有効に機能し、以降の李舜臣による水軍攻撃は釜山攻撃、熊川攻撃など被害が多く成果が上がらないために出撃回数は激減した。
[編集] 休戦期
1593年、休戦中に、これまでの功績を認められた李舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道・忠清道)の水軍を統べる指揮官に出世した。李舜臣の部下となった元均は、激しく反発し、李舜臣の命令をことごとく無視した。李舜臣は彼の日記の中で、「天地の間に、元均ほど凶悪で常軌を逸した人はいない」とまで述べている。困り切った李舜臣は、元均を栄転という形で、地上勤務に配置転換したが、元均は、ますます李舜臣を恨んだと言う。一方、慶長の役の開始直前に朝鮮王朝より上陸直前の加藤清正軍を攻撃せよと言う命令を無視した。これは、加藤清正軍の上陸日程の情報が、小西行長から流されていたことが判明したため、李舜臣は、日本軍の罠と考えたのである。この時、元均達が、「王命に従わなかった」として李舜臣を激しく弾劾したため、李舜臣は解任され、苛烈な拷問を受けた末、一旦は死罪を宣告された。しかし、柳成龍などの必死の嘆願により、王は、李舜臣の死罪を免じて白衣従軍を命じることになった。
[編集] 慶長の役
1597年に李舜臣の後任の水軍統制使元均が朝鮮王朝の攻撃命令を嫌がりながら遂行したが、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗を喫し、戦死した。かわって水軍統制使に返り咲いて壊滅した水軍の再建を進めたのが李舜臣である。李舜臣が再任された時は、朝鮮水軍には僅か12隻の軍船しか残っていなかったと言われる。日本陸軍によって全羅道や忠清道が掃討されつつある中、壊滅直後の残存艦隊を収容しながら後退した李舜臣の艦隊は、朝鮮半島西南端の潮流の激しい鳴梁海峡で日本水軍を誘導し、突入してきた日本水軍の先頭部隊に一撃を加えて勝利した(鳴梁海戦)。しかし後続の日本水軍は強大なため、海戦の夜には戦場海域からの後退を行い、日本水軍の侵攻を許した。同時期に全羅道西岸拠点が次々と日本陸軍によって制圧されたために李舜臣は拠るべき泊地を失って後退を続け、全羅道の北端まで退却し(当時の水軍は長期の洋上行動はできず沿岸や島嶼に順次泊地を求めながら移動するものであった)、代わって日本水軍が進出して全羅道西岸の制圧を実施して姜コウや鄭希得などの多くの捕虜を得た。
明の大軍が南下することを察知した日本軍は冬を前に迎撃体勢を取るために慶尚道から全羅道にかけての朝鮮南岸域へ自主後退をした。日本軍が撤退すると李舜臣の水軍も明・朝鮮陸軍と共に朝鮮南岸へ再進出することができた。李舜臣は朝鮮南岸西部にある古今島を拠点とし、そこに陳リンが率いる明水軍が合流した。
1598年、明・朝鮮軍が日本最西端の拠点である小西行長等が守る順天城を攻撃しだすと、李舜臣は明水軍の指揮下に入って水陸共同の順天攻撃作戦に参加し同時に順天城の海上封鎖を行った。しかし、水陸両面で明・朝鮮軍は損害を出しつつ苦戦し、厭戦気分が蔓延して攻撃は頓挫、海上封鎖を解いて古今島に後退した(順天城の戦い)。
秀吉の死によって日本軍に退却命令が出ると小西行長は明・朝鮮陸軍との間に講和を成立させ、海路を撤退しようとしたが、それを知った明・朝鮮水軍は古今島から松島沖に進出し海上封鎖を実施、小西らの撤退を阻んだ。そのため今度は明・朝鮮水軍と休戦交渉を行い明水軍の内諾を取りつけたものの、李舜臣はそれを肯んじなかったため依然順天城に足止めされることとなった。
順天城の海上封鎖のために小西軍が脱出不能と知ると日本側は島津義弘等が急遽水軍を編成して救援軍を派遣した。李舜臣はこれを察知し、明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて島津水軍を露梁海峡で迎撃した。
この露梁海戦では夜半からの戦闘が長時間続き、急造の島津水軍は苦戦したが混戦の中で李舜臣が戦死し、他に明水軍副将を初めとする明・朝鮮水軍の主たる将が多数戦死し大きな被害を出したため、後退する島津水軍を追撃することは出来なかった。
一方、孤立していた小西行長は明・朝鮮水軍の出撃により封鎖が解けたので海路脱出に成功し無事日本へ帰国することができた。李舜臣はその死後に忠武と謚(おくりな)された。
韓国ソウルの官庁街である世宗路には、李舜臣の銅像が建てられている。これは軍事政権下の力の象徴として設置されたと言われる。なお、外にも釜山龍頭山公園や[木浦]など、数多くの朝鮮半島南海岸に李舜臣の銅像が建てられている。
[編集] 言説
- 従来、日本軍の補給不足を李舜臣の補給路遮断によるものと解釈されることが多かったが、補給不全が生じていたのは内陸部に進出した部隊に対してであって、全戦役を通じて九州から釜山までの海路における物資や人の流通が決定的な補給不全を起していたことはなく、したがって日本軍の補給路が李舜臣率いる朝鮮水軍によって遮断されたと解釈するのは正しくないとする説も近年提出されている。この説に拠れば、日本軍の食糧不足の主な原因として、緒戦の朝鮮軍が想像以上に弱体であったため奥地へ急進してしまったこと、和戦の曖昧な侵攻による食料の準備不足、現地が貧しく調達を日本の常識で想定してしまったこと、義兵や流民による輸送路襲撃の激化などが挙げられている。そして、これらは1593年からの日本本土からの補給作戦の開始と主力軍の南部への布陣で解消されており、準備を整えた慶長の役の侵攻作戦では補給の破綻は起きていないとしている。
- 「東郷平八郎が李舜臣を尊敬すると発言した」とする言説については、「東郷が公の場でそのような発言をしたという記録はなく、現在のところ東郷と知己であったという韓国人からの伝聞[1]以外の事例は見いだすことが出来ないため、これが事実であったとしても、東郷の韓国人へのリップサービスであったものを、戦後の韓国における民族主義の高まりと共に民族の英雄として持ち上げられた李舜臣賛美のために誇張して流布されたものである可能性が高い」との指摘がある。また、日本海軍が海軍権益拡大(軍艦建造と組織の拡大)のため李舜臣を引き合いに出して朝鮮出兵の敗因として宣伝したり、戦後独立した韓国北朝鮮で抗日のシンボルとして利用されたことにも留意する必要があるとする研究者もいる。
[編集] 著書
- 『乱中日記―壬辰倭乱の記録』平凡社[東洋文庫]。全3巻。
[編集] 関連項目
[編集] 参照
- ^ 「あなたのお国の李舜臣将軍は私の先生です」、「自分はネルソンに比べられるかも知れない。しかし李舜臣は私を越えている」 出典:藤塚明直「アドミラル李舜臣を讃ふ」/『慶熙』第8号(京城公立中学校同窓会 1977)